第186話・学力

 細石彦さざれひこ渡芽わためはそれからもどんどんと仲良くなっていった。時代劇に出てくる爺と言ったキャラクター。細石彦さざれひこはまるでそのように渡芽わために接するのだ。


「さて、クルム様。高天ヶ原たかまがはらには、神様の学校があるのだとか! そして、そろそろご入学なされるとか! よければ、この細石彦さざれひこと予習をいたしませんか?」


 細石彦さざれひこの聞く限り、渡芽わためが教育を受けた痕跡はなかった。子供とは好奇心旺盛であり、そしてすぐに低学力を馬鹿にするものと思っている。故に、細石彦さざれひこはこの渡芽わためが馬鹿にされる展開が我慢ならなかったのだ。

 それを心に秘めて、至って温和な笑顔で、人の世から漢字のドリルを取り寄せてきたのだ。


「ん!」


 渡芽わためも乗り気であった。彼女の好奇心はクー子の幽世かくりよに来てより満たされ続け、勉強に対する苦手意識など毛頭なかったのである。


「クルム様、あなたのお名前はとても難しい字です。でも、そこから始めてみますか?」


 細石彦はこれに肯定の答えを期待していた。自らの名前に対する関心もまた、親との愛情を示すものである。この場合はクー子と渡芽わための愛情だ。


「ん? 書ける!」


 だが、それは予想を超えた角度からの否定だった。誰かが字を書くのを見て、渡芽わためが自分の名前の書き方を知りたいと思わないわけがないのだ。そして知りたいと言われて、クー子が答えないわけがないのだ。


「そ、そうなのですか!? では、この細石彦さざれひこに書いて見せてください! せっかくです、このドリルのここへ!」


 細石彦さざれひこは、漢字ドリルの名前欄を指差してマジックペンを差し出した。かなり驚いた顔をしながらである。


「ん!」


 渡芽わためはそこに名前を書き込む。『駆稲荷かけいなりの大孁おおひるめの渡芽包巫わためくるみこの毘売ひめ』という、難しい漢字を含むとても長い名前をである。


「うわ、字も綺麗……」


 渡芽わためは特に“渡芽わため”と“包巫”の四文字が得意だ。クー子から直接もらった字であり、自らの幸福の象徴である。

 細石彦さざれひこはそんな渡芽わための字に嫌な予感しかしなかった。細石彦さざれひこが持ってきた漢字ドリルは小学校範囲のものである。


「練習……した!」


 自分の名前の字など、言わなくても練習する。親に対する愛が深ければ深いほど。

 渡芽わためは自分の名前の由来を知っている。そしてそれがとても、美しい由来を持っていると感じていた。愛する神からもらった由来の美しい名前、そんなもの練習するに決まっていたのだ。


「アハハ……クルム様は博学でいらっしゃいますね! さすがは、神の才媛さいえんです! では、テストからやってしまいましょう! クルム様がどれほど書けるのか、細石彦さざれひこに見せてください」


 冷や汗を流した細石彦さざれひこだが、すぐに気を取り直して表情を緩ませた。渡芽わため毘売ひめという字を使われるが才媛でもある。優しいだけにあらず、クー子のコマは二人共才媛である。

 ただ、渡芽わためはみゃーこよりも甘えん坊だ。よって毘売が当てられただけである。その字が当てられる理由は、“いつでも甘えておいで”というクー子の思いだ。


「ん!」


 それから、渡芽わためは漢字ドリルのテスト問題に取り組んだ。

 問題を次々と解いて、細石彦さざれひこを驚かせてしまったのだ。解く度、細石彦さざれひこは博学だの博識だのと褒めた。だから、渡芽わためはテストも気持ちよくこなすことができたのだ。


 そもそも、その博学博識を褒め言葉として解釈できるのだ。学力が高くて当然である。

 渡芽わための周囲の大人といえば、神々だ。神々は難しい言葉も使う。時折古文のような言い回しも会話に登場する。そんな環境で育まれた渡芽わため浅学せんがくであるはず等ないのだ。


 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 百点満点の漢字ドリルのテスト。それを一冊分貯めて、渡芽わため細石彦さざれひこはクー子のところへ持っていった。


「すごいすごい! お祝いしなきゃ! 何にしよう!」


 クー子は、渡芽わためを抱き上げて褒めた。それこそ、満面の笑みで、心の底から誇らしげに。


 細石彦さざれひこは、渡芽わためが勉強をできる理由がこの光景だと思ったのだ。勉強でこのように褒められては、勉強と幸せな記憶が結びつく。勉強をする時でも渡芽わためは幸福だった。そう、ガリ勉の才能があるのだ。


「いや、全くです! クルム様には驚かされましたよ。馬鹿にされることの無いようにと教えるつもりだったのですが、仕事がございません」


 細石彦さざれひこはそんな乾いた笑いを浮かべた。


「あ、無学が馬鹿にされると思った? 高天ヶ原たかまがはらではそんなのないよ! 無学な子の親神は、勉学以外に力を入れてることが多いの! 試験の点数に現れない賢さを持ってる子を馬鹿にしたら、それこそ心配されちゃう!」


 ついでに高天ヶ原たかまがはらの学校には七光りがありえない。なにせ誰も彼もの親が極光であり、七光りだなんだと言っても仕方がないのだ。雲の上で背比べをしているようなものである。

 故に軽蔑無き理想郷。神の世界はそんなものだ。


「いらぬ心配でしたか……。それより、彼女にお祝いですね。人の世から何かを買ってまいりましょう!」


 細石彦さざれひこは百点のテストのお祝いとして、自分が人だからこそできることを考えた。


「油揚げ!!」


 渡芽わためは即答する。油揚げなら、この社の中に喜ばない者が居ない。


「もう! もう!」


 そんな理由はクー子にすぐに察せられ、従って渡芽わためはもみくちゃにされてしまう。そんなことを言われて、愛しくならない親など居てたまるかというものだ。

 こみ上げた愛しさに任せてクー子は渡芽わためを抱きしめる。本当に、心の底からたまらなかったのである。

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