第173話・体罰

 そんな話をしていると、困ったことに渡芽わためが目を覚ましてしまったのだ。


「ん……んぅ……」


 と小さく、可愛らしい、未覚醒の呻きをあげて、もぞもぞと体を揺さぶった。


「無駄話をしすぎてしまいましたね。天御中主みなかぬし様」


 と、薬師如来やくしにょらいは少しバツが悪そうに笑った。


「そのようだ……」


 だが、天御中主あめのみなかぬしにとっては、ちょうど良い機会だったのである。


「やく……し?」


 渡芽わための目に最初に飛び込んだのは薬師如来やくしにょらいの顔であった。

 そして、あたりを見回すと、体に触れる体温がクー子のものであることを認識した。


 クー子はずっと渡芽わために触れていたのだ。渡芽わためが目覚めた時、自分が寝ていても寂しがらせないようにというちょっとした配慮である。後、純粋にクー子自身も渡芽わために触れるのが好きなこともある。みゃーことは違い、まだまだ甘やかさせてくれそうであるから。


「おはよう、クルム」


 クー子は目を覚ました渡芽わために声をかけた。優しく、柔らかな声を。


渡芽わためや、どうかそれ以上自分を責めないでおくれ。今のこの状況、その全てが私の思惑通りだったようなのだ。罪はこの天御中主あめのみなかぬしにあるのだ。本当に申し訳ない、全て私の力不足だ」


 天御中主あめのみなかぬし渡芽わための寝顔の険しさを見ていた。目が覚めるのであれば、謝るのが筋である。

 ただ天御中主あめのみなかぬしの分身が力を貸せるギリギリのタイミングが、この時期だった。少しでも遅れれば、分身は少なくとも御霊みたま移しはできなくなっていた。それでも、神通力の総量はめちゃくちゃではある。だが、戦力としてぬらりひょんが参加する場合天御中主あめのみなかぬしの計算では神が死ぬことになったのだ。


「わかった……恨む……」


 渡芽わためはそう口に出した。天御中主あめのみなかぬしがまるで、恨まれることで自分を許せるのだ。そんな風に思えたのである。


「それでも、ぬらりひょんとしての天御中主あめのみなかぬし様はお悩みになったようなのです。ほかに手はないものかと、最後の最後まで……」


 それでも、天御中主あめのみなかぬしが見つけられなかった。それは、今のところ誰も見つけられない可能性だったということだ。薬師如来やくしにょらい天御中主あめのみなかぬし擁護ようごした。


「いや、この子はそれもわかって恨むと言ったのだろう。恨むと口で言っておいて、私を許してくれたのだ。まったくもって、敏い子である」


 天御中主あめのみなかぬしが言うとおり、渡芽わための想像はそれに及んでいた。ぬらりひょんが、渡芽わため自身やほかの神に怒りを向けないように言った“私を恨め”。その言葉の意味を、本体である天御中主あめのみなかぬしが現れたことによって察したのだ。

 その恨み節を翻訳するならこうである。“それであなたの気が晴れるのであれば、私は恨んでいるふりをします”。


「一発……」


 と、渡芽わためは拳を構えて言った。


「甘んじて受けよう」


 天御中主あめのみなかぬし渡芽わために頭を近づける。

 ペちん……そんな小さな音。それは渡芽わため天御中主あめのみなかぬしに、拳を振り下ろした音だった。


「晴れた……」


 渡芽わためがあろうことか、正しい体罰を振るったのだ。正しい体罰は、禊となるものである。反省を終え、前に進ませるための衝撃である。


「まったく。クー子よ、大儀であるというのも恐れ多い。そんな風に、この天御中主あめのみなかぬしに思わせたぞ」


 どこまでも尊い神を育てたものだと、天御中主あめのみなかぬしは嬉しさに思わず微笑んだ。

 天御中主あめのみなかぬしは、自分を不完全なものとして見てくれる相手に飢えていたのだ。その不完全さを正しく理解し、罰すら与えたのは百億年を超える歴史で渡芽わためただ一人だったのだ。


「その……」


 クー子の心の内は騒がしい。宇宙創造の最初の一柱に我がコマが不遜にも体罰を与えた。それを受け入れる判断は、その最初の一柱のものであり、自分は否定するに能わず。それでも、恐れ多さは過分にして、なのに天御中主あめのみなかぬしは満足気である。

 でも、しかし、だけど……。そんな、逆接ばかりが連なるような心の内から言葉は出ないのである。


「ようやく、私も等身大になれた。ひどく、満足である」


 と、天御中主あめのみなかぬしは満面の笑みを浮かべた。天元に座す神の苦悩は、他の誰にも想像し難い。渡芽わためはそれを、幼さゆえに突破してみせたのである。


「クー子……ちゃんと……直して?」


 渡芽わためは自分のことよりクー子のことである。


「もちろん、この天御中主あめのみなかぬしが約束し、瑠璃薬師如来るりやくしにょらいを含め数多の神に助力を乞おう」


 神々の本気の医療が二人に炸裂している途中だ。危険な時期は終わった。もう、二人が悪くなる未来は残っていないのだ。


「お薬のおはなしはクー子さんにいたしました。後で、彼女からお聞きくださいね?」


 薬師如来やくしにょらいはやっと、いつものアルカイックスマイルに戻った。

 こうして二柱の神は、クー子の病室をあとにしたのである。


 後から、クー子を経由して渡芽わためは薬の話をしっかりと聞いた。クー子もクー子で、わからないだろうから説明をしないなどという選択肢を持っていない。わからなかろうと、説明をするのは誠意なのだ。誠意などというものは、人間関係の基本中の基本。誠意がなければ、信頼は絶対に生まれないのである。当たり前にして忘れがち、それを忘れないのも神の特徴なのだ。


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新作、少しフライング気味に始めました。

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