春の世界

第170話・母に恋する

 クー子が目を覚ますと、そこは高天ヶ原たかまがはらだった。うすらぼんやりと、ここに寝かされるのは初めてだと思っていた。


「まだ眠っていてもいいのですよ」


 それは、低く、そしてどこまでも柔らかな声だった。深く年輪が刻まれ、まるでこの世の全てを知っているかにすら思える。だが、そうではないのだ。


「あなた……様……は?」


 体の所々に、荒御魂あらみたまの神通力がむしばんだ後が残るクー子。その痛みを抑えるために、その神が使った術はクー子の意識を酩酊めいていさせる。別天ことあまつの神ですら、クー子の痛みを和らげるには、そんな術しか使えなかったのである。


高神産巣日たかみむすびといいます。思兼おもいかねの親ですよ」


 心の中にある不安を全て解いてしまうような、朗らかな笑い声だった。

 初代医療の神、というより英知そのものの父がクー子の看病に当たったのだ。ただ、この世に在る全ての英知を集めたとして、全知には遠く及ばない。高神産巣日たかみむすびもまた、知っていることを数えたほうが早いほどだ。


「たかみ……むすび……様……。渡芽わため……ちゃんは?」


 クー子は本質的に母である。気にすることなど、最初に我が子の安否に決まっている。


「横をご覧下さい」


 高神産巣日たかみむすびは、母として正しい心を持ったままのクー子に安心をした。そして、高神産巣日たかみむすびは何もクー子のことだけを見ていたわけではない。


 クー子が横を見ると、そこには渡芽わためが寝かされていたのだ。高神産巣日たかみむすびはこの二人を見ていた。今回の戦いを超えて、最も危機的な状況に陥った二人を。


 二人共、荒御魂あらみたまになりかけたのだ。渡芽わためは自ら悪に属する道を開花させて。クー子はその力を全て引き受けて。

 二人共、半身は黒く変色していた。特にクー子が荒御魂あらみたまになるのが危険だったのだ。自らが悪の道を持たないがゆえに、アバドンの核になってしまうところだったのである。するとどうなるか……。世界を滅ぼす厄災が、形をもって現し世に現れる。それこそ、世界の終わりだったのである。


 天沼矛あめのぬぼこの呪いは解け、高天ヶ原たかまがはら別天ことあまつの道は繋がった。そして、高天ヶ原たかまがはらに訪れた神々は真っ先に二人を助けたのである。


「良かっ……た……」


 無事を知って安心したクー子は再び眠りにつく。


 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 しばらくして、クー子は再び目を覚ました。ただひたすらに、心地よくて、まるでそれは水に浮かぶかのようだった。

 否、クー子は浮いていた。神の肉体の比重と同じほどに濃密な神通力の上を漂っていたのだ。こんな量の神通力をすぐに出力できるのは、別天ことあまつの神々だけである。


「えっと……これは……」


 クー子は驚いて声を出した。だが、もう一つ驚いたのである。あれほどぼんやりとしていた意識がはっきりとしている。そのくせ、痛みは大したことはない。

 痛いは痛いのだが、それは治りかけの傷の痛みに似て、さほど辛いものではない。


「クー子!」


 渡芽わためも神通力に浮かされていた。そのせいで、うまく体を操れず少し間抜けな絵面になってしまう。


「クルム……」


 ただ、その姿は痛々しい神通力の傷跡は残るものの、元気そうに見えた。クー子にとって、これほどの安心はない。少なくとも元気に動いている。傷跡がいくらあったとしても、それだけが重要だった。


 動けていれば死ぬことはないのだ。傷跡など、クー子はいくらあろうと気にしない。道によって恒久的に生まれてしまう神通力に関しては仕方がない。だが、そうでない傷は後々癒すことができる。それにいくら時間が掛かろうと、愛するのだと心に決めている。否、愛さずにはいられないのである。


 如何になろうと、渡芽わためはクー子の大切なコマである。愛する理由なんて、それで十分だった。

 抱きしめたくてたまらなかった。


「さて、これ以上は今の段階では無理ですね。一度下ろします。瑠璃るりさんにお薬を貰ってくださいね」


 高神産巣日たかみむすびは完全に医者だった。強力な和魂の神通力で包むことによって、体表に現れる傷を消していたのだ。


「あ、はい! ありがとうございます!」


 礼は言わずにいられなかった。自分と、渡芽わためを救ってくれた。それだけで、クー子にとって恩人である。


「元はといえば、そばにいられなかった我々が悪いのです。ですので、しばらくは一切のお仕事をお引き受けしますよ」


 と朗らかに、安心させるように高神産巣日たかみむすびは言って、二人を治療した部屋を後にした。

 神通力はゆっくりと霧散し、クー子たちは布団に横たえられた。そして、すぐにお互いがお互いに寄り添いあっていく。

 二人共体はボロボロだった。真っ黒な痣が浮かんでいた。それでも、それは些事なのだ。気にすることはない。


「ごめんなさい! 私のせいで!」


 渡芽わためは泣いていた。甘えることすらやめていた。だからこそ、言葉にしっかりとした文法があった。


「助けたいって思ってくれたのは、本当に嬉しいの。それに、あの時は仕方なかったよ。でもね、次はちゃんと私じゃなくてもいいから、神様に相談しようね?」


 クー子は怒らない。万が一そこに悪意があったとしても、悪意の理由を考えただろう。子が親に悪意を抱く理由は、大抵親にあるのだ。理由なき悪意を、親に対して振りかざす。そんなことを考えることも、クー子には耐えられないことである。


 それに、今回は悪意などなかった。心の底からの善意で、少し空回ってしまっただけだ。クー子の覚悟はあまりに強い。子の善意に殺されるなら、それを幸福であると断ぜるほどである。


「ごめんなさいいいいぃぃぃ!」


 渡芽わためはそれでも泣いた。怖かったのだ。クー子がではない。クー子を失うことこそがこの世で最も怖いことだった。

 子供は親を失うより怖いことなどない。もしそれがそうでなくなってしまったのであれば、悲劇の連鎖の果てのことである。


「ふふふ! 大丈夫だよ! それよりさ、もう甘えてくれないの?」


 クー子にとって、別にいいことだ。だからそんなことより、目の前の些細な大きな悲劇を回避したかった。


「いい……?」


 渡芽わためは恐る恐る、また文法を使うのをやめた。


「うん!」


 それでいいのだ。クー子にとって、それこそが幸せなのだ。心の奥底から、こみ上げるような愛おしさはきっと吊り橋効果なのだろう。でも、もともとあったものが増幅されただけ。クー子の中では何も問題はなかった。


 問題は渡芽わためである。許してもらえた、愛してもらえた、そんな強い喜び。そして、これほどまでに示されてはもう二度と疑えるはずがないのだ。これほどまでに深い信頼はこの世のどこにも存在しない。


 プルチックの感情の輪によると、信頼プラス喜びは愛になる。それも、渡芽わためが抱いているのはその最上級である。恍惚と敬愛の入り混じったそれは、もはや崇拝的な恋愛感情に酷似していた。

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