第169話・小春

 根の国から魂を呼び戻され、復活したクー子の瞳には、最も考えたくない状況が映し出されていた。


 黒い神通力の嵐の中で、荒御魂あらみたまに刻一刻と近づいていく渡芽わための姿である。

 荒御魂あらみたまの生きる道は、孤独であるか、恨みに満ちているかである。少なくともクー子は渡芽わためにそんな生き方をして欲しくなかった。

 従って、クー子は死から覚醒と同時に飛び出す。


赤化ルベド屍徃吹荷蔵巣シュブニグラス!」


 生死の境界で手に入れたばかりの、新しい力を起動しながら。

 その術は吸い上げる力を選ぶことができる。それは即ち、渡芽わためが手に入れてしまった荒御魂あらみたまとしての神通力を全て引き受ける力を持つのである。

 クー子の尾は自由だった。赤色に変化したそれは、質量も何もかもがクー子の思いのまま。自らの形を壊さないように、それでいて自由な形を手に入れる。そんな無理難題へのクー子なりの答えだったのだ。


 それを見た素戔嗚すさのおは、限界ぎりぎりの黒多々良を鞘に収めた。

 瞬間渡芽わための中に僅かに残った理性が刃を止める。明るい歌を破天荒に歌う素戔嗚すさのおを殺したいとは思わなかった。それが創世の器を手にした渡芽わため素戔嗚すさのおが殺されなかった唯一の理由だったのだ。

 僅かに足を止めた渡芽わためにクー子の尾は追いつき、それは巨大な手のひらになって彼女を包んだ。


「?」


 それは一体何なのか、その疑問に首をかしげる間に渡芽わためは気づいた。自らの中にある、荒ぶる力がどんどんその掌に吸い取られているのだ。それだけではなかった、暖かくまるで命そのものの暖かさがすぐそばにあるように感じたのだ。

 渡芽わためはもう何もできなかった。胸のそこに希望と不安が飽和して、それがいっぱいで動けようはずもなかった。


「クルム、ごめんね! 心配させちゃったよね!」


 クー子は消えて、その身は尾を伝って渡芽わためを抱きしめる掌の上に現れた。


「クー子……?」


 理解が追いつかなかった。自分が殺してしまったはずの、最愛の神がすぐ目の前にいたのだ。


「そうだよ!」


 クー子はそう言って笑う。殺してしまったというのに、何もまるで気にしていなかったように。


「クー子ぉ!」


 まるで、胸の底に澱んだ悲しみの海の栓を抜いたかのようだった。渡芽わためは涙が溢れ出して止まらなかったのだ。

 悲しいとき、人は泣けないものである。心の痛みが涙をせき止めてしまう。だが、一度安心してしまえば、まるでせきを切ったように溢れ出した。

 その掌の上に、素戔嗚すさのおがやってきた。


「おう! 帰ってきやがったな……」


 どこか、胸につっかえたような声で言葉をクー子に投げる。彼だって心配だったのだ。クー子は本当に死んでいたのだ。


「ご心配おかけしました」


 と、クー子は和やかに笑う。だが、そうしている間にもクー子は渡芽わためから荒御魂あらみたまとしての神通力を吸い上げ続けていた。

 ドクドクと波打つ黒い痣が体を蝕み、そしてそれは顔にまで広がっていった。


「今も心配だ、バカヤロウ……」


 痛みがないはずはない。それは、正一位の神々ですら耐え兼ねる痛痒を与える痣だ。素戔嗚すさのおは心配で、それでも止めることはできなかった。

 背を向ける素戔嗚すさのおに、感謝をしながらクー子は渡芽わために目を合わせた。


「終わらせよっか! 地上に出てきちゃった荒御魂あらみたまたちを封印しよ!」


 クー子は言った。今根性で立っているだけなのだ。全身には激痛が走り、ふとした拍子に荒御魂あらみたまに堕ちかねない。でも、そんな様子は無理やり塗りつぶして立っていた。


「ん!」


 渡芽わためは安心して、全てを委ねた。


「じゃあ、まねっこしてね! “天地創りし器よ、やすき世をもたらせたまえ!”」


 天沼矛は創世の器だ。そうあれかしと口にして、突き立てれば容易く全ては変わる。この世界の理も、神の力の理も、司るのはただそのひとふりの矛である。


「天地創りし器よ、泰き世をもたらせたまえ!」


 渡芽わためは復唱する。そして、大地にそれを突き立てた。

 地から天へ光の柱が伸び、そして、暖かい日差しが降り注いだのである。


「よく出来ました!」


 と、クー子は渡芽わためを褒めて。そのすぐ後に、意識を手放してしまったのだ。

 だが、そこに後から道返しの奥、根の国から三柱の神が現れた。


「姉貴!? かか!? 兄貴!?」


 そう、その三柱は天照大神あまてらすおおみかみ伊邪那美いざなみ火之迦具土神ひのかぐつちだったのである。


「テルちゃん!」


 伊邪那美いざなみは、倒れるクー子を見て叫ぶ。


「うん!」


 日の本の最高神が、クー子を助けるべく動いた。


「そうだ! 大国主おおくにぬし! 姉貴に手を貸せ!」


 そして、医術の主神すら動いたのである。

 渡芽わためのそばには伊邪那美いざなみが、火之迦具土神ひのかぐつちを抱えたまま飛んでいった。


「大丈夫だからね!」


 伊邪那美いざなみは心に誓った、後で必ず謝ろうと。天沼矛あめのぬぼこの呪いは、伊邪那美いざなみがかけたものである。それは渡芽わためにきっと大きな痛みを与えただろう。

 そして、その痛みは最終的にクー子を蝕んでいる。責任が自分にある気がして仕方が無かったのだ。


「クー子……」


 渡芽わためは心配でそれどころではない。クー子が作った、赤化ルベドの掌は、薄れてまもなく消えてしまいそうだった。


「クー子!」


 宇迦之御魂うかのみたまたち、稲荷の神々はそれを感じてクー子が地面に落ちてしまわぬようにと駆け寄った。


績和実いさなみ様!?」


 だが、途中で気づいて驚いたのだ。

 気づけば、かの天照大神すらいるではないか。

 それは、この冬の終わりを予感させるような出来事であった。

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