第168話・ラストチャプター

 天照大神あまてらすおおみかみは根の国の最奥へと戻った。そこには、伊邪那美いざなみ火之迦具土ひのかぐつちがいたのである。


かか、ただいま!」


 天照大神あまてらすおおみかみは母である伊邪那美いざなみに声をかけた。


「もう帰ってきてくれたの!? おかえり!」


 伊邪那美いざなみ、近年この根の国を訪れる魂曰く、淋しがりヤンデレママである。そもそもヤンデレ化するのは仕方がないのだ。最愛の夫に裏切られ、目の前で子供を殺されて、正気でいられるなど心がある限りありえない。


 でも、これでも天照大神あまてらすおおみかみが根の国へ下った時よりマシだ。ぎりぎりではあるが、伊邪那美いざなみ和魂にぎたまに戻っていたのだ。


 神である、やはり淋しがりと言っても気がすこぶる長い。一日二日帰らなかろうが気にしないのである。なにせ、一瞬と思ってしまうから。

 ゆえに、今回天照大神あまてらすおおみかみ伊邪那美いざなみの元を離れたのは、一瞬よりもさらに短い刹那に思えたのである。


「だって、高天ヶ原たかまがはらの神はここに長く居られないからね……。それより、かか! そろそろ天沼矛あめのぬぼこの呪い、解かない?」


 その呪いは、伊邪那美いざなみがその気になればいつでも解ける段階まで来ていた。なにせ、呪ったのは伊邪那美いざなみ、その術式は熟知している。しかも、和魂にぎたまに戻ったことによっていつでも真逆の術がかけられるのだ。


「うーん、そうだね。呪いはもうやめる! 夫婦喧嘩しにいく!」


 伊邪那美いざなみもクー子たちをずっと見ていた。渡芽わためは間違ってしまったとは言え、それでも母を守ろうと思う意志には胸が熱くなった。少し考え込み過ぎて遅くなってしまったけど、今すぐにでも呪いは解こう。そして、諸悪の根源である伊邪那岐いざなぎとは、自ら決着をつけるのだと決めたのである。


「ママ……」


 この幼いのが火之迦具土ひのかぐつちである。神とは難儀なもので、自らを幼いと思い込んでしまうと、外見も大人びたものを作れなくなってしまうのだ。


「カー君、大丈夫! これからね、思いっきり喧嘩しちゃうけど、それで仲直りするの! ごめんね、カー君怖いよね」


 火之迦具土ひのかぐつちが大人になれないのは伊邪那岐いざなぎ伊邪那美いざなみが仲直りをしないからである。火之迦具土ひのかぐつちは二人の交わりの中で生まれた神としては、最後の存在だ。だから、自らが楔にならなければならないと思い込んでいた。

 ゆえに、愛らしさを失わぬように、幼さを自らに課し続けてきたのである。


「大丈夫……」


 でも、それももう終わる気配を感じ始めていた。

 伊邪那美いざなみは呪いを解くことを決めた。それでも、火之迦具土ひのかぐつち十束の剣とつかのつるぎの呪いを解くのは夫婦喧嘩が終わったあとだ。火之迦具土ひのかぐつちは、この夫婦喧嘩をできる限り言い合いで終わらせて欲しかった。だから、武器は使えない方が都合が良かった。

 天沼矛あめのぬぼこは大丈夫だろうと火之迦具土ひのかぐつちは思っている。きっと、渡芽わためと言う後輩の神が継いでくれるのだと。


「そっかぁ……。でも、本当に苦労いっぱいさせてごめんね! ギー君がカー君を悪く言うなら、ママが懲らしめるから!」


 こうなった女性というのは天下無双だ。母は強し、更には創世の神の片割れが覚悟を決めたのである。


かか、じゃあ根の国を出るの?」


 天照大神あまてらすおおみかみは訊ねる。そうなれば、自分がこの根の国にいる理由もない。地上はもっと安定するだろう。

 それは、とても望ましいことだった。


「うん! でも怖いから、テルちゃんも一緒に来てくれる?」


 伊邪那美いざなぎが訊ねるまでもないことだ。


「当たり前じゃん! 私だって、ととには頭にきてるんだよ! 一発ギャフンと言わせなきゃ気がすまない!」


 それは、神話の最後の1ページにして、ただの家族の物語である。


「そっか! じゃあ、三人で行こう! あ、スー君も根の国に来るのかな?」


 八百万の神の中で最も根の国を訪れる頻度が高いのが素戔嗚すさのおである。言っても、素戔嗚すさのお伊邪那美いざなみにとっては愛しい息子。母にとっては、子はいくつになろうと我が子なのだ。だから、会えるなら会いたくてたまらないのである。


「どっちにしろ高天ヶ原たかまがはらで会えるんじゃない?」


 だが、天照大神あまてらすおおみかみの言うとおりである。夫婦喧嘩をするのであれば、高天ヶ原たかまがはらでいつでも会える。だから、無理に急ぐ必要もないのだ。


「それもそうだね!」


 と、伊邪那美いざなみは立ち上がった。


「うん!」


 天照大神あまてらすおおみかみ伊邪那美いざなみの後ろをついていく。火之迦具土ひのかぐつち伊邪那美いざなみに抱かれたままだ。

 伊邪那美いざなみは、彼を手放せない。万が一にでも伊邪那岐いざなぎに手出しをさせないためである。

 今こそ、根の国をただの死者たちが来世を待つための国にするのである。そうなれば、それ以上新たな戒めは必要ない。神話を書き足す必要はもうないのである。

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