第166話・存在を賭して

 その光景は、渡芽わためが思う何倍も過酷なものだった。


「クー子! 自死しろ! 寄り代に帰るんだ!」


 宇迦之御魂うかのみたまは叫んでいた。

 クー子は既に屍徃吹荷蔵巣シュブニグラスを解いていた。だが、それでも問答無用でその体の中に流れ込んでくるのである。アバドンの神通力が。


 それは苛烈で、まるで燃えるかのようだ。沸騰する血が、灼ける肌が、死よりも恐ろしい神格の変質を警告し続ける。その供給量は既に、伊邪那美いざなみの伝承をはるかに上回っていたのだ。


 クー子は自覚していた。このままでは自身がアバドンそのものになることを。


「黄昏に破滅は来る! 壊れろ! 疾く滅びよ!」


 それでもクー子は術を使い続けた。その時、最前線で戦うのはクー子だったのだ。

 ほかの神は近づくことさえかなわなかった。クー子は破滅の光を撒き散らしている。それが崇徳すとくの身体を蝕み、前線を維持した。

 これまでに出てきたのは崇徳すとくの、ほんの一部でしかなかったのだ。


「ごめんね、クー子!」


 ただ、いくら死んでもすぐその場で復活する大国主おおくにぬしだけが彼女に近寄り、そして心臓を一突きした。


「定刻……通り……」


 ソロモンは呟く。もはや音を発することができなくなった崇徳すとくの代わりに。

 そう、全て崇徳すとくの筋書き通りである。結界内にクー子の寄り代があり、高天ヶ原たかまがはらまで逃げ果せなければアバドンの神通力はクー子を追う。結局、寄り代に復活したところでクー子の命は残り幾ばくか。更には大孁おおひるめが味方であることを感知するための識別子を渡芽わためは持っていない。

 全ては同時だったのだ。識別子を持っていない渡芽わため嘲外巣アザトースの破滅概念が押し寄せる。

 そして、その渡芽わためのところにクー子が復活した。


「あぁ、来ちゃったんだ……」


 クー子は力なく微笑むと、懐にしまっていた識別子としての機能を持った札を渡芽わための服に忍ばせた。

 途端、破滅概念は対象を変え、クー子に押し寄せた。


 作用していたクー子の術は全て消え失せた。破滅の概念が、クー子の魂を肉体から剥離させた。その魂は、根の国から伸びる無数の手に掴まれ、そしてその奥底へと落ちていったのだ。


「クー子……クー子おおおおおおおおおおおおお!」


 宇迦之御魂うかのみたまは絶叫する。クー子を愛していた。愛した神が、死んだのだ。取り返せる手立てはある。だが、御霊移しの祭りを行うには神々は消耗しすぎている。


 死後すぐに行わなくてはならない御霊移しは不可能。もうひとつの可能性は、八栄やはえのみである。数千年、下手をすれば数万年はクー子は根の国に囚われるだ。


 渡芽わため悔いた。その全ては自分のせいなのだと。

 ぬらりひょんが何度も言っていた、自分を恨め。その言葉はこの時のためにあったのだ。


「う……うわあああああああああああ!」


 最愛の神は死んだ。自分が殺してしまった。渡芽わためはそう思う。

 思えばいっそう、体は荒ぶる神通力に蝕まれる。肉を焼き、骨を腐らせ、黒い神へと変質していく。ゆえに怒りの矛先は変わってゆく。この一連の事件、その大本の崇徳すとくへと向けられた。


「殺す!」


 もう、渡芽わためには、愛に満たされた彼女自身の美しかった自我はなかった。ただ荒ぶり、責任転嫁をし、目に付くものすべてに対して矛を向ける。そんな、狂った神に成り果てようとしている。


 だが、それは悪いことばかりではなかった。創世の器、天沼矛あめのぬぼこ崇徳すとくを切り裂いたのだ。

 その力に、崇徳すとくは集めた全て削り取られる。そして、崇徳すとくは膨大な力と引き換えに、人の姿を取り戻した。

 次の瞬間、渡芽わためはそれに斬りかかる。だが、それを素戔嗚すさのおが止めた。


「苦労かける! 黒多々良くろたたら!」


 世界最古の鉄剣である。神代にただのひと振りのみ作られ、そのあまりの殺傷力に人に恐れられて神に託された素戔嗚すさのおの神器だ。


『任せろ!』


 その神器は、軋み音を上げながらも、天沼矛あめのぬぼこの一撃を耐えた。切断という概念そのものを受け止めたのである。


「邪魔!」


 渡芽わためは叫ぶ。狂乱しているのだ。


「やめろ! 魂まで殺したら、お前が歪むぞ!」


 妖怪は生まれた時に、理の外から魂を得る。それらは殺されず、根の国へ落ちるだけだった場合、次に生物になる可能性を得る。だが、崇徳すとくは最初から生物として根に下った。自身の思いがある。そういった魂を殺すと、強烈な呪いを受けるのだ。まるでその思いを託されるような……。


 殺す必要のない和魂にぎたまの魂こそ殺しても害がない。だが、荒御魂あらみたまの魂は、特に崇徳すとくのそれだけは避けたいと素戔嗚すさのおは思っている。

 崇徳すとくには今や、ただの神一柱分の神通力しかない。だから、ほかの和魂にぎたま一柱で十分抑えることができた。


「いっただろう? 私を恨みなさい」


 そこに唐突に、ぬらりひょんは現れたのである。

 直後吹き荒れた、神通力は全て抜け殻となったクー子の体に注がれていく。


ことわりよ! みことの主、天御中主あめのみなかぬしみことのりを与えん! 失われし魂をここへ、尊き神の命を永らえさせん! 退け道返し! それは、我が子である!」


 ぬらりひょんはその神通力に言霊を編み込んでゆく。そしてそれは術へと変わり、光がクー子の体に降り注いだ。

 代わりに、消えてゆく。ぬらりひょんの姿は、やがて薄らいで、空に溶けていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る