第163話・混沌の神

そはは、はえの王、ベルゼブブ!」


 見つかるのが時間の問題であると思ったアレイスターは、最も致命的な一手を急ぎ打った。

 ベルゼブブ、キリストにおける悪魔とされるが、これは本来は和魂の別名なのだ。

 黒く染まる視界、自分の中から吹き荒れる荒御魂の神通力に苛まれながら、彼女は召喚された。


「うぅううう!」


 憎悪の表情を浮かべ、不快な羽音を響かせながら。

 蝿の王ベルゼブブ。これは、バアル・ゼブルが語源である。見るなと頼んだ夫に、出産をのぞき見られ一度絶望した。だが再び、遠く中東のカナンでバアルを名乗ったその神は、ユダヤによって侮辱の限りを尽くされた。

 水神、豊玉毘売とよたまひめの心を壊す呼び名である。


「姉さん!」


 玉依姫たまよりひめは、そのベルゼブブに急いで対峙する。

 これにて、コマ達を守るべき神はもうどこにもいない。あとは、お互いがなんとか励まし合ってくれることを願うことしかできなかった。


「許さない……」


 ベルゼブブとしての豊玉毘売とよたまひめの姿は醜さを極める。ボコボコと体が膨れ上がり、虫のような羽が生えてゆく。龍なのか、それともハエなのか、あるいは鰐か。それとも見分けられない異形へと変じていった。


「目を覚まして! 貴方はそんな名前じゃない! カナンの民は伝え抜いたの! 貴方はバアル・ゼブル! その名前は今でも、伝えられている!」


 玉依毘売たまよりひめは、身を斬られ、それでも叫んだ。木花このはな神族は、癒しの術が極めて得意な種族である。代わりに攻撃の手段を一切持たない。

 だが、ベルゼブブという荒御魂あらみたまに変じようとしてる豊玉毘売とよたまひめは別だ。意識は混濁し曇って暗く染まる。その代わりにその力の一切を破壊の力に転じさせた。

 幾多もの破滅が玉依毘売たまよりひめを襲う。それは傷つける翼の刃と、傷口を腐らせる病の嵐だった。


「あぁ、かわいそうに。君には悪魔の伝承がない。お姉さんと一緒に、染めてあげることができない」


 アレイスターはその姿を滑稽と捉えてケタケタと笑った。

 神々は冷静を努めた。意思を曇らせれば、瞬く間に付け入られるだろうと。ゆえに、怒り狂いそうな心を無理やり鎮めた。


「見つけました!」


 その時、索敵を続けた思兼おもいかねが叫んだ。見れば、一本の触手がまっすぐ張られている。


「ざぁんねん……」


 やがてその先に、アレイスターは姿を現した。上下逆さまに、空中に浮かんでいたのだ。

 悪魔と契約をするのであれば、正道と真逆を行け。彼の生前の言葉は、そのまま実行に移されていた。


「ボクが行く!」


 瞬間、少女のような姿の男神は龍に姿を変えて猛進する。

 その神は、名を健磐龍命たけいわたつのみことといった。


「ハハハハハ! やっべ!」


 大きく口を開くと、その口からは雷撃が迸る。息をつかせぬ雷撃はまるで、吐息のようだった。

 必中が約束されている。電位は最も近くの伝導体に吸われるのである。


「守れ! ザガン!」


 ソロモンの声が響いた。


「くっ!」


 建御雷たけみかづちが止めようとするも、始まりの魔術師ここにありと言わんばかりに、それは一瞬の出来事だった。


 より、伝導率の高い鋼の悪魔はアレイスターを守る盾として、また刃として顕現した。

 それだけでない。道返しの奥からは、いくらでも亡者たちが湧き出てくる。

 もはや物量で押し切られるかと思われた、その瞬間に思兼は言った。


「下級神後退! 世喰外巣之天津神よぐそとすのあまつかみを開放してください!」


 と、同時である。その戦場を極光の結界が包み込んだ。


「「弥・嘲外巣アザトース」」


 大孁おおひるめ世喰外巣之天津神よぐそとすのあまつかみである。それは、極光にして無限の結界。その結界の中で、すべての法則は発動した神の思いのままである。


「弥・喰外宇麌阿クトゥグア!」


 素戔嗚すさのおは生きた炎を纏った。それは、概念の炎である。いかなるものも、その炎に触れればたちまち灰へと変わる。


「「「「弥・屍徃吹荷蔵巣シュブニグラス!」」」」


 稲荷の神は、破滅の豊穣をもたらす化身へと姿を変えた。

 その瞬間、クー子の体には痛みが走った。周囲に霧散した荒御魂あらみたまの力が一気に流れ込んできたのである。

 だが、それでもこの術を使う意味は、嫌というほどにわかった。


「閉ざせ! 汝、昼を憎む者よ! この理に膝を屈せ! 我宣告す、汝の滅びを!」


 クー子の脳裏には幾多の術が浮かび上がる。これまで、使ったことのない力がいきなり供給されたのだ。それを、即興で術に組み上げていく。

 アバドンの宣告。それは、今まさに戦っている荒御魂の足元に、暗い底なしの穴を現出させた。

 鏡の荒御魂あらみたま、テスポトリポカはそれに抗うが、穴の底からは無数の手が伸びて引きずり込もうとしていた。


「クー子! あんた、その力はまずい!」


 宇迦之御魂うかのみたまは警鐘を鳴らすように声を張り上げる。

 次の瞬間、根の国の底からも、クー子に向かって神通力が吹き荒れたのだ。まるで、主を見つけたかのように。

 実在すらしない、濁りたまった、荒御魂あらみたまたちの神通力の塊。それがアバドンなのだ。八栄やはえと対を成す、究極の滅びなのだ。それを起源にした術を使ってしまった。


「うぐっ!」


 クー子の体に、黒い紋様が走る。その中央は焼け、まるでマグマのように泡立った。

 だが、代わりにクー子は力を得る。強烈な代償を支払いながら。

 もはや、供給される以上に使い切るしかない。アバドンの供給と、クー子の消費の戦いが始まったのである。

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