第160話・シャーデンフロイデ

 渡芽わためは一人ではなかった。一人になったと思った次の瞬間には後ろに、ぬらりひょんが居たのである。


「無力は辛いか?」


 その、ぬらりひょんが渡芽わために訊ねた。


「ん……」


 頷く事のみが彼女に許されていた。心の底から、無限に力を渇望しているのだ。


「では、少しだけ話を聞いておくれ」


 ぬらりひょんは承諾を待って……。


「ん」


 それが得られたことで、話を始めた。


「なぜ、荒御魂は悪いと思う?」


 それは、根本の話である。


「わからない……。でも、クー子、忙しい。辛そう……」


 漠然とした、渡芽わための理解はまだ漠然としている。小さな世界の中で、懸命に理解しようと務めたが、答えは身近なところにしかなかった。


「だが、その理由が有るやも知れぬな? 悪いと断ぜされるか?」


 これは、問答であった。善悪、そして正誤を、ぬらりひょんは渡芽わために解いているのだ。


「わからない……」


 そう言われてしまえば、悪いとは思えなくなってしまったのである。


績和実イサナミのことはこう言えよう。子を殺し、そして、自らの姿を忌んだ夫を二度と受け入れられなくなってしまった。悪と思うか?」


 ぬらりひょんは言う。ただ、淡々と。


「違う……思いたい」


 渡芽わためはそれを否定されるのは悲しい。自分がクー子に同じようにされてしまえばと考えた。それは、身を切るより辛い想像だった。


「あぁ、これは全く悪ではないのだ。ただ当たり前の、感情だ。そして、績和実イサナミはすべてが憎くなってしまった。彼の子も、その血を継ぐ神の子も、そして人の子もだ……」


 全ての命は伊邪那岐イザナギとのつながりを持つ。だから、伊邪那美イザナミは憎いのだ。それがたとえ我が子だとしても。それでも、幼かった火之迦具土ひのかぐつちまでは恨めなかった。根の国の奥で、その炎の魂に身を焼かれながらも必死に集めた。その魂かけらを。


「なぜ? 悪い?」


 渡芽わためはすっかりわからなくなってしまったのだ。我が子を殺した人の子、それが憎くないはずがない。


「良いか? 罪は遺伝しないのだ。如何に罪人の血を引こうと、その子はただ産み落とされただけ。子は親を選べない。それに、勇成木イサナキの気持ちも分からぬではないのだ。妻が焼け死ぬのを見るのは、さぞ辛かっただろう……」


 それも鑑みて、伊邪那美イザナミは許すつもりでいた。我が子を殺された恨みも、復活した火之迦具土ひのかぐつちに再び刃を向けぬ限り許そうと。

 だが、そもそも伊邪那岐は約束を破った。伊邪那美が岩戸を出るまでまたなかったのだ。そして、あろう事か言ったのだ“化物”と。

 我慢に我慢を重ねた結果、吹き出した怒りは大きなものとなってしまった。


「イサナキ……嫌い……」


 聴けば聴くほど、嫌いになる。渡芽わためは、それを止められなかった。


「決してざまぁみろなどと思わぬように」


 そう、前置きして、渡芽わためが頷くのを確認してからぬらりひょんはさらに話を続けた。

 このざまぁみろという快楽も、シャーデンフロイデと言う。これは誰でも起こりうることなのだ。直前に、否定的な反応を受けていると、この感情が目を覚ますのである。


「故にアレは今、もはや神と呼べる力は残っていない。クー子どころか、渡芽わため、君が受けたところで傷にならぬような力しか持っていないのだ。アレが、化物とさえ言わなければ、あるいはしっかりと待っていれば……。いや、よそう……」


 伊邪那岐イザナギが歩む道だけは誰もが知らない。知っているのは、このぬらりひょんと、その本体である天御中主あめのみなかぬしだけである。


「イサナキ……わかった。クー子……大丈夫?」


 渡芽わためはもう、クー子の愛は疑わない。だが、その体だけは心配なのだ。


「本当に、良い子だ。大丈夫だ、クー子はこの中津国なかつくにで一番強い。万に一つも無いように、相手も選ぶ」


 クー子が最も最悪のパフォーマンスでも、怪我をしない。そんな想定で相手を選ぶつもりである。現段階で、クー子の相手に選べない妖怪はまだ発生していない。

 崇徳すとくも、そういう戦略ではないのだ。


「安心……。組手……」


 渡芽わためは邪念を祓うため、そして力を得るためにそれを望んだ。


「私に残された力は逆算して、ギリギリなのだ。どうか許しておくれ。だが、渡芽わため。君は比類ない力を得るだろう……」


 ぬらりひょんはそう言った。彼は、明確に想像を立てている。

 ぬらりひょんの思惑通りなのは、崇徳すとくがぬらりひょんの現存を知らないからだ。消えただろうと思わせるように動いたのだ。そうでなければ、崇徳すとくはこの戦いをもう少しだけ後に起こしていただろう。

 きっとそれは、渡芽わためが人間としての死を迎えたあとである。


「残念……」


 渡芽わためにとって、それは口惜しい。だが、仕方のないことなのだと理解した。見えていないものが、見えているような気がしたからである。


「なんと、物分りのいい……。もしも、これが終わって、私に我が儘を言うつもりがあれば、いくらでも聞こう。まぁ、本当の私は知らないだろうが、叶えてくれるだろう」


 ぬらりひょんは無責任に言った。だが、自分のことだ。誰よりもその本質はわかっている。

 結局神だ。子煩悩なのは当たり前である。


「ん!」


 なぜ、こんなにも恨まれると思っているのか。何があるのか、渡芽わためにはそれが不安でならなかった。

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