第158話・灯炎

 クー子が幽世かくりよに戻った時、最初に彼女に駆け寄ったのは付近の家守、クロであった。


「クー子様! お急ぎください! クルムが!」


 そして、第一声がそれだった。


「うん!」


 クー子はすぐに渡芽わために会いにいくことにした。彼女はなまじ全なる道であるだけに、神としてとても不安定だ。


 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 渡芽わためは、部屋の片隅で目を抑えてうずくまっていた。


「ううぅ……」


 と苦しげな声を上げながら。


「ごめんね、帰るの遅かったね……」


 写真を撮っていたり、そういったことはほんの一瞬のこと。だが、その一瞬は、まだ少ししか生きていない渡芽わためにはあまりに長かったのだ。


「クー子……」


 帰ってきたのだと、無事なのだと。そう思うと、渡芽わためはもう痛みはどうでもよかった。

 まぶたを焼き、顔を爛れさせる、荒ぶる力の痛みだ。とても、子供が耐えられるようなものではない。


「どうしたの? 寂しかった? 思ったこと、全部聞かせてね」


 渡芽わための焼け爛れた顔を、クー子は見ていた。だが、それがなんだというのだ。クー子にとって、渡芽わためは何よりも愛する宝の一つ。傷つこうが、どうしようが関係ない。ただ、そっと抱きしめて優しく声を掛けることしかできない無力すら嘆いた。


「どうして……私……弱い?」


 苦しくて、たまらなく張り裂けそうな痛みを渡芽わためは言葉にした。

 弱いから隣に並べない。ただ、待つしかできない。それが辛くてたまらなかった。

 気づくと、その部屋には渡芽わためとクー子の二人きりだった。


「弱くていいんだよ。どんなクルムでも、私の大切なコマ。それでもね、クルムは誰よりも強くなる。焦らずに、ゆっくりとやっていこ?」


 渡芽わための心には、クー子のその言葉がまるで砂漠に降る雨のように染みた。


「ん! やる!」


 と、ただ泣いて叫んだ。愛されているのだと、ここまで何度も何度も証明された。もう、疑いようのない事実だ。頑張ろうと殊更に想う必要もない。ありのまま、今の自分の普段の努力を認めてくれている。そんな気がしてならなかった。


「ねぇ渡芽わため。聞かせて、どう辛かったの? いっしょに考えよう? どうしたら辛くないか」


 この時ばかりは、クー子も自分が神でなければ良かったと思った。ただ渡芽わための普通の母としていられたなら、どれほど幸福かと思った。


「愛されてない……思った。疑うだけ……酷い……」


 そう、渡芽わために荒御魂の神通力が発生したのはそれが原因である。愛を疑ってしまうのは、境遇から仕方がない。だが、それを仕方がないと認めずに自分の心を否定した。過去を、境遇を、不幸を。


「そっかそっか……。大丈夫だよ。私は絶対帰ってくる。だから帰ってくるまで疑ってていいんだよ。怖くていいんだよ」


 クー子は言った。ただ、優しくぬくもりに満ちた声で。

 それでも、渡芽わための涙は止まらない。否、むしろ溢れるのだ。不安に苛まれているときは泣くことを許されない。溜まり溜まった、不安の水は安心の中でこぼれ落ちるのである。


「ねぇクルム、約束しよ。この事変が終わったら、そうだなぁ、いろんな所に行こう! 世界にはたくさん神が住んでるところがあって、私はそのどこにでも連れて行けるの! どうかな?」


 きっと、このあとには大きな戦いがある。アレイスター・クロウリーも出てくるだろう。下手をすれば、他の荒御魂あらみたまだって。それでも、必ず帰るとクー子は心に誓った。


「ん……約束!」


 それが嬉しくてたまらなかった。ただ約束をくれた。

 クー子との約束は、渡芽わためにとって疑うことのできないものである。なにせ、これまですべてが履行されてきたのだ。


「本当は、中津国の神って普段暇なんだ! みゃーこや、ほたるんも誘おう! あ、法皇様にも会ってみる? 今代も相変わらず優しい人って聞いてるよ! それから……」

「クー子!」


 渡芽わためは、顔が青ざめるような感覚を覚えて、クー子の言葉を止めた。

 息を吸って、覚悟を決めて訊ねる。


「顔、どうなってる?」


 チクリとした小さな痛みで、傷ができた。今回の痛みはそれどころではない。きっと、ひどいことになっている。そんなことに、理解が追いついてしまったのだ。


「えっと……」


 その時である。

 クー子と渡芽わためが話している部屋の扉が、スパーンと小気味のいい音を立てて開かれた。


「クルム! 化粧と妖術! どちらがよろしいですか!?」

「ついでなので、油も用意いたしました。とぎ汁も温めましょう、ええそうしましょう」

「あたしがつくろってあげてもいいニャ!」


 扉の向こうにはみゃーこ、蛍丸、クロの三人組だ。

 みゃーこと蛍丸は、クロから話を聞いた。そして、どうせなら忘れてしまうくらいの娯楽をもってここに来たのだ。それは、美容。神でも人でも、美容というのは気分を上げる。少女ならなおさらだった。

 渡芽わためは思わずそっちを見た。幻術もかけるまもなく反射的に。


「っ……」


 すると、三人は近づいてきた。醜い顔になっているはず、そんなことを思っている渡芽わために。

 彼女らにも関係ない。美醜など、一つの要素でしかない。外見などには現れない、渡芽わための愛らしさを知っている。親しみやすさを知っている。


「借りていきますね、クー子様」


 蛍丸が渡芽わための右。


「それとも、いっしょに参ります?」


 そして、みゃーこが左だった。

 それぞれ手をとって、渡芽わためを浴場に連行する。


「あ、出番ないじゃん!」


 クロはがっくりとうなだれて後をついていった。


空狐くうこの年季舐めないで! 完璧なお毘売ひめ様にしちゃうから!」


 と、クー子もついていったのである。

 その日のお風呂は、過去一番狭かった。だけど、それは渡芽わためにとってとても暖かかったのである。

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