第150話・黒の憧景

 先日とは違い、今日は味見役が重要だ。ネコ科神族は、体の限界サイズが小さいのである。


「え!? 順応はやっ! ほたるんすごっ!」


 味噌汁を味見したクー子が言った。蛍丸は今、地味ではあるのだが、とてもすごいことをしたのだ。塩分超控えめの癖に、この場に居る誰もが美味しいと思える味を作ったのである。

 それは、イノシン酸の暴力だった。ただし、こんな食事を続けては低血圧一直線だ。体が大きいクー子達には、普段はもう少し塩分が必要である。


「そうでしょうか? でも、これなら薄味なことを悟られにくいかと……」


 と、蛍丸は自分の料理への習熟に無自覚であった。千年近くその快楽と隣合わせだったくせして、経験が一度もなかった。成長は、その渇望が成せる技だったのだ。


「ねぇクロちゃん。興味津津?」


 そんな折である。クー子は、クロの耳が思いっきり蛍丸に向かっているのを見た。興味津津なのである。


「仕方ないではありませんか! 生前は、家主と同じものなど食べられなかったのですよ!」


 そう、猫は人間と同じものを食べられない。人間は塩漬け猿でもあるのだ。同じ食事をさせてしまうと、高血圧一色線なのだ。

 猫は飼い主を偉いと思っていない。良くて対等、悪ければ下僕である。肉食獣の世界で生きていたのだ。舐められたら終わりである。


「可愛い……」


 そんな、クロを見て、渡芽わためは愛嬌を感じた。この愛嬌が悪いのだ。他の生物を魅了する、ツンデレやクーデレの原点である。


「付け根はやめてニャー!」


 ネコ科神族の要求の鳴き声だ。渡芽わためにだけはもう、尻尾の付け根はさらわせないとクロは心に誓ったのだ。


「ごめんなさい……」


 渡芽わためは本当に反省した。喜ぶからとやりすぎてしまったのだと……。


「クルム、深皿出して! 一番小さいやつ。それと、みゃーこはご飯つけて!」


 ご飯は盛ると言ったり、つけるといったり、日本語とは表現が多様すぎるのだ。


「ん!」

「かしこまりました!」


 全員で準備をしていたのだ。コマ組二人は細々と働いていた。

 そしてすぐに、渡芽わためが言われたとおり小さな深皿を持ってくる。

 クー子は、それを受け取ると、蛍丸の作っている味噌汁を少しだけ入れて返した。


「クロちゃんにあげて」


 クロと渡芽わためには是非仲良くなって欲しかった。

 この味噌汁、ほぼ濁りがない。味噌がほとんど入っていないのだ。猫でも大丈夫なように、超控えめにした。


「……」


 渡芽わためは不安になった。怒らせてしまったのに、自分でいいのかと。


「はぁ……怒ってごめんね。仲直りしよ、ニャッ?」


 今度は挨拶の意味を持つ鳴き方だった。クロは、仕方ないなという態度で、仲直りを言いだしたのだ。


「ん! ニャッ!」


 意味が込められているのではと思った渡芽わためは、クロを真似する。

 可愛い猫真似が、台所に響いた。


「ねぇ、それちょうだい!」


 クロは今度はサイレントニャーォを使った。ただ、渡芽わためはそれが少し聞こえたのだ。

 モスキート音を越えた、超音波。それを聞けるのは五万Hzまで聞こえてしまう聴力が、渡芽わためにも備わっていたのだ。


「ん!」


 渡芽わためはそれをクロの前に置いた。

 そのやりとりが、ちょうど良く味噌汁を冷ましていた。

 人間は火を使い加熱した食材を食べる。よって遺伝子ごと訓練され続け、熱々の食材を食べられるようになったのだ。だが、その他の生物でその能力を持つのは少ない。ただ、猫はオーバーアクションなだけなのである。

 クロはそれを舐めた。


「ミャーオ! 美味しい!」


 それは、猫的にも美味しく仕上がっていたのだった。


 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 それから、夕食が始まった。


「しかしクー子様。本当にいろいろな方がおこしになるようになりましたね!」


 高天ヶ原から帰ってきて、それからずっとクー子の社は千客万来だ。20年以上一緒にいるみゃーこにとっても、それは大きな変化だった。


「人見知りがすっかり治ったからね! クルムもじゃない?」


 渡芽わためだって、昔は人型のものを見れば何でもかんでも怖がっていた。それが変わったのは、葛の葉くずのはのおかげだ。


「ん! 神様……怖くない!」


 渡芽わためは自分の怖くない人型全てを、神と思っている。いつしかここに来た、ただの人間の老婆でさえ。

 人間はその短い一生の中で、ほんのわずかだけ神の道徳に近づく。学ぶことをやめなければ、死ぬ寸前に本当に神様に近くなるのだ。だから、似ていたのだ。その、学ぼうという意思が。


「キューン」


 そんな話の最中に、クロはなんだかイヌのような鳴き声を出してしまった。


「どうしたの?」


 クー子は少し心配になって、クロに優しく話しかける。


「家主が生きていたら、このように食事ができたらと思ってしまって。あぁ、病になっても同じものを一度でも口にすれば良かったと、今更……」


 クロは家主が偉いとは特段思っていない。だが、それと好き嫌いは別の話だ。クロは家主が好きだった。忙しい時でも、膝に置いてくれる、そんな家主が。


「案外、会えるようになるやもしれませんね……」


 蛍丸は、先達の神の話を聞いていた。だから、その目的がどこにあるのかを知っている。次の神代が来て、八栄えが来て、きっと死者にも会える時代が来るのだろうと思っていた。


「やも、じゃなくて! そうする!」


 クー子は言い切ったのである。望む人がいて、それを叶えるために無限に時間を費やすための存在。それが、神なのだ。

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