第138話・神遊び

 老婆の山道の足取りは遅かった。朝に出て、昼にようやくクー子たちの幽世かくりよにたどり着くほど。

 クー子達は神である。そうそう神だと知られるわけにいかず、いつも帰り道は木々の上を飛び回る。だから、老婆を周回遅れにしても気づくことがなかったのだ。


「あ、あのおばあちゃん!」


 境内に響き渡る神の名を呼ぶ声。神本人に届いている。だか、神が反応するのは、それが祝詞としての構文であるか、あるいは知人の声である場合。

 人も神も、話したこともない相手に何かをしてあげる程はお人好しではないのだ。


「ん? 俺以外にも参拝者がいるのか!?」


 陽が訊ねる。陽も、その老婆と遭遇したことはない。なんだかんだタイミングが合わなかったのである。


「どうしよう、あのおばちゃんお弁当持ってない……」


 クー子は幽世の中から、外の社をのぞき見た。

 時刻は昼時。老婆ともなれば食欲も衰えて、一食くらい抜くなど大したことではない。やたら食事のことばかり考えるのは、退屈だからである。


「んー、入れちゃえば? お招きしちゃおうよ!」


 稲野山毘売いなのやまひめはこともなげに言った。だが、そこにはいろいろな考えがあったのである。


「え!? それ大丈夫ですか!?」


 陽が訊ねる。

 コマ組は、食事の用意で蛍丸と一緒だ。みゃーこがもうすぐ独立した神になるため、積極的に炊事をさせているのである。


「大丈夫じゃないかなぁ……。おばあちゃんだからね、誰にも言わないでって言えば言わないでくれるよ!」


 稲野山毘売いなのやまひめは思っていた。それに八栄やはえの世、永世の神代は着実に近づいているのだ。神と会ったという口伝が増えても問題ではない。


「あのおばあちゃん怖くないしなぁ……。うん! 入れちゃいます!」


 こうして、クー子は幽世かくりよに老婆を招き入れることを決めたのである。


 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 老婆は境内で手を合わせていた。


稲荷駆兎狐毘売いなりかけうさのきつねひめ様、祖先があなたにしたことをお詫びします。だから私は、子々孫々に至るまで、真意をしっかりと考えるようにと教えていきます。至らぬ私ではありますが、私自身も考えて決して道を踏み外さないように生きていきます」


 そんな祈りが終わった時だった。老婆はふと、疑問に思った。

 これまでなぜその疑問が思い浮かばなかったのか、その答えはまつられた岩から出てきた。


「さっきのお婆ちゃん! ご飯持ってないでしょ? 食べていかない?」


 幽世かくりよからクー子が出てきたのである。

 それを見て、老婆は疑問が氷解していくのを感じた。そして、喜んだ。一族は許されていたのだと。だからこそ、これからも立てた誓を違えぬように生きようと思った。


「あぁ、さっきの……。神様だったんですね……」


 もちろん、驚きはした。普通に人間として生きていて、神と出会うなど考えられようはずもない。

 だけど、自分がその名前を思わず口にしたのは、口にしたことを疑問にすら思わなかったのはそのせいだと。まつられる神が、直々に教えてくれた名前。それを、疑えるはずなどなかったのだと思った。


「えへへ……そう。私が、稲荷駆兎狐毘売いなりかけうさのきつねひめ。三千年前からずっと、ここにいる元妖怪の稲荷です!」


 三千年間。永い永い時の中で、その一族は忘れなかった。口伝を続け、ずっと守り続けてきたのだ。だから、クー子は屈託ない笑みを浮かべることができた。


「私、知らなくて。不躾ぶしつけに話しかけてごめんなさい……」


 老婆は後悔した。いつだか見た雅な水干。それをまとっていたのは、仕事へと向かう神だったのだと。そして、今さっきだってきっとそうだと。


「あぁ、気にしないでください! それより、ご飯食べていきませんか? 街でたくさん、油揚げを買ったんですよ! ほら、稲荷ですから!」


 今、クー子には、耳と尻尾が生えている。稲荷の特徴である、美しい毛並みのそれだ。

 それをピコピコと揺らして、自らが稲荷であることを喧伝した。


「本当に油揚げが好きなんですか?」


 老婆は、あまりに伝え聞くままで、目を丸くした。

 酢飯や五目ご飯を油揚げに詰めたお寿司。それを稲荷寿司と呼ぶのは、それが彼女たちの好物だからである。


「もう本当に目がないんですよ! あ、もしかしておばあちゃんは嫌いでしたか?」


 そうだったら申し訳ないと、クー子は思った。その日の食事にも、油揚げはたくさん使われていた。ただ今回は、普通の油揚げだけ。変わり種は玉藻前たまものまえを呼んだ時にだ。


「いえいえ、好きですよ! でも、悪くないですか? 神様のお食事にお邪魔しちゃうなんて……」


 老婆は心配したが、それは杞憂きゆうである。


和魂にぎたま幸魂さきみたまは、楽しいことが大好きな神様です。ほら、大和民族だってお祭りが好きでしょ? 神主催のお祭りと思ってください! 参加者は多いに越したことはないです!」


 クー子は、そう言い切ったのである。

 神はいつでもウェルカムだ。頼り切られて、あれもこれもとお願いされない限り。


「じゃあ、お邪魔いたします。本当に、ありがたい……」


 老婆はそう言って涙を流した。


「じゃあ、手を借りますね!」


 クー子がそう言って、老婆の手を取ると、その姿は境内から掻き消えたのであった。

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