第74話・さめざめと

 クー子通話を終えると、みゃーこは台所で朝食の仕込みをしていた。

 だが、問題がないわけでもなかった。一番時間のかかる、お米が用意されていない。前に、ぶちまけてしまったのがきっとトラウマなのだろう。そう思って、クー子は思わず顔がほころんだ。


「みゃーこ、おはよう。ねぇ、みゃーこなら多分できるから、お米研いでみない?」


 クー子はそう話しかけた。

 前回失敗した原因は、人化が完全じゃなかったからだ。人間の手や指、動物の四肢でこれほど高性能なものは少ない。

 それを獲得したなら、もはや失敗する道理もないのだ。


「クー子様、おはようございます。やろうと思ったのですが、やはりどうしても不安で……。あ、そうそう、衣装部屋に行ってあげてください。クルムの着替えがうまくいかないみたいで……」


 一足先に起きたクー子、後から三人で着替えていたみゃーこ達。中でも一番成熟している蛍丸が引率のようなことをしていた。


「朝ごはんは、みゃーこと蛍丸ちゃんで作る?」


 そうだとしたら、クー子がこの幽世かくりよで料理をしないなんてことは実に千年と少しぶりである。


「はい! そのつもりです!」


 それはそれは、クー子にとって楽しみで仕方がなかった。


 みゃーこは、クー子の料理をかなりの回数見てきた。蛍丸は、人間が料理をする姿を後ろから見てきたこともある。

 万が一失敗しても自分が作り直せば済む話。クー子は任せて衣装部屋へと行った。


 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 そこには、魔の期間が訪れた渡芽わためが居た。そう、俗に言うイヤイヤ期である。

 神に転生した者が迎えるそれは、通常のイヤイヤ期と違う。


「できない……!」


 言葉で訴えかけてくるのだ。何が嫌なのか、何が悲しいのかを……。

 どうやら、お端折りおはしょりがうまくいかないようである。


「難しいよね……。懐かしいなぁ……。私も、最初全然できなかったっけ?」


 お端折りおはしょりなんて、慣れてしまえば簡単である。だが、苦戦は必須だ。

 神族に転生した者のイヤイヤ期は本当にカオスだ。さめざめと泣くのだ。なまじ年齢が高いせいで、思考は感情を抑制しようとする。だが、意に反して涙が溢れ出す。

 表面と内側で、全く勢いの違う感情が渦巻くのだ。もはやそれは、感情の乱回転である。


「クー子様、申し訳ございません。代わりにやって差し上げようとしたのですが、すると泣き出してしまって……」


 と、申し訳なさそうな顔で蛍丸は言うも……。


「クルムも自分でできるようになりたいもんね! 大丈夫! すぐできるようになるよ! 蛍丸ちゃんは、みゃーこを手伝ってあげてね!」


 渡芽の中では、もはや自分でやることがルール化されている。そんなことを、急にルール化してしまう自分に戸惑ってすらいる。

 多くの神々が、ここで苦労する。ともすれば、神の心労の大部分だ。


「変……」


 渡芽わためは、本当にさめざめと泣いた。

 なぜこんなに感情が制御できないのだと、なぜこんなことができないのだと、自分を責め立てている。


「申し訳ございません。クー子様、よろしくお願いします……」


 そう言って、蛍丸はその場を後にする。


「さて、クルム。私もそれで苦戦したんだよ、みゃーこもだよ! みんな通る道なの! だから、まず落ち着いてね」


 クー子はなだめながら、自分の水干の帯や紐を解いた。


「難しい?」


 まずは、その挑戦が偉大な一歩であることを認めることから始まる。クー子はそんな気がしていた。


「うん、だからまねっこしよう!」


 クー子は言って、お端折りおはしょりを作り始める。


「ん!」


 クー子は手に紐を持ったまま、小袖を左右に大きく開く。水干というのは、小袖を着て、上からひとえほうを着てようやく完成だ。複雑な衣服である。


「これ、ぐって! 広げるときに、ピンってやんないと、お端折おはしょりりが曲がっちゃうからね!」


 それは、人間のイヤイヤ期が挑戦するには高度過ぎることだった。


「んー!」


 だが、渡芽わためはできた。あっちこっち見ながら、小袖の裾をしっかりと足首に合わせている。


「おぉ! すごい! そのままー、お尻をツン!」


 クー子はお尻を突き出して、手を前に出す。小袖は体に巻きついていく。


「ふん!」


 渡芽わためもそれを真似た。クー子の大げさな動きが、わかりやすかったのだ。


「そしたら、みーぎ、ひだり! 紐結ぶ!」


 小さく区切って、細かく説明していく。


「おぉー!」


 渡芽わためは、何度やってもうまくいかなかったことができてしまった。

 びっくりと感動で、目をキラキラ輝かせた。


「それじゃあ、次は単だよー! あ、全部覚えるのは、宇迦うか様も時間かかったんだってー! 信じられる!? あの宇迦うか様が、一人で着れなかったんだよ!」


 次を準備しながらも、させながらも、語りかける。雑談であり、布石。印象に残りやすい言葉を使って、興味を引き立てつつ。


宇迦うか様……?」


 渡芽わためにはできない宇迦之御魂うかのみたまが想像できなかった。でも、できなかったらしいのだ。天照あまてらす素戔嗚すさのおだけが知っている。


 クー子はその後も、甲斐甲斐しく教えた。頑張って真似をする渡芽わためが可愛らしくて仕方がなくて、クー子は全然疲れたなんて思わなかった。

 件の葛の葉の影響である。コマ育てのノウハウを無限に与えてくれるグレートマザーだ。外見は今やロリだが……。

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