第72話・蛍丸と人の世

 刀の入浴は烏の行水である。あまり長く入浴して錆びてしまったら、元も子もない。だから、海を経由した時に付いた塩を落とすのが目的であった。


『あぁ……そこです! た、たまりません!』


 思念波は、快楽を声に漏らしている。ただし、その姿は刀そのもの。色気も何もあったものではない。


「え、えっと……何事?」


 思念波からは想像のつかない事態だった。そんな場所に遭遇したクー子は、困惑した。

 渡芽わためが蛍丸にポンポンと打粉うちこをしていたのだ。これをすることで、基本的には油を取るのだが。今回は、水気をとっていたのだ。


「手入れ……。頼まれた!」


 フンスと胸を張る渡芽わため。それが、クー子には可愛らしくしか見えない。頼られるのが嬉しいお年頃の到来を、歓喜した。


「そっかー」


 にへらと笑うクー子に、ほんの少し呆れてみゃーこが代わりに訊ねる。


「それ、気持ち良いものなのでしょうか?」


 上げていた声は、どうにも気持ちよさそうなものだったのである。


『これはクー子様に満野狐みやこさん! 実はですね、これをされるとツボを的確に押されているかのような……按摩あんまのような感覚なのです!』


 さしもの蛍丸も、なかごの部分は回復が遅い。塩が付いていると、心地が悪いような状態である。とはいえ、神器ゆえに、錆びた途端に元通りだ。それほどの腐食耐性がなくては、一級は名乗れない。


「あ、そういえば蛍丸ちゃんって、食べ物とかは? ごめんね、完全な付喪つくもなんて初めて会うから……」


 完全な付喪神つくもがみは珍しかった。希薄ながら意思を持つ付喪神つくもがみは、それなりだ。ペットのような立ち位置に居る付喪神つくもがみもそう珍しくない。だが、蛍丸ははっきりとした自分の意思を持ち、神階すら割り当てられる程、個がある。

 ふつう、付喪神つくもがみは食事をしない。神から神通力をもらって、成長していく。これは、神が咀嚼を代行しているようなものである。


『どうなんでしょうか……。でも、なんとなく食指が動く気がします……』


 もっと早く確認を取るべきだったと、少しだけ後悔したクー子もそれで安心を得た。食指が動くものは食べて良い。付喪神つくもがみと言っても要は神だ、神の常識が通用する。

 神は、自分に害があるものには食指が動かない。それは大概呪いを含んだものである。誰かの捧げ物なら、ドクツルタケやベニテングタケなど毒キノコでも構わず栄養に出来てしまうのだ。もはや、人類の常識を全否定である。


「油……ぬる!」


 渡芽わためは、蛍丸の刀身に丁子油を薄くまぶした。


『あぁ! 絶妙です! 極楽です!』


 とはいえ、手入れされる側の蛍丸も気を使っている。渡芽わための手を斬ってしまわないように、極限までなまくらになっているのだ。


「終わった。どうする?」

『鞘に戻してください! 人化します!』


 蛍丸なら、手を斬ることはないと安心したクー子は、配膳しながらそれを眺めていた。


「あれ? 鞘、違くない?」


 気づいたのは、鞘の柄が違うこと。柄すらも変わっていた。


「貸した!」


 着物というのは、サイズ感が大雑把である。それは、水干や巫女装束も同様。腰周りにお端折りおはしょりという部分を作り、長さを調節するのである。


『本当にありがたいことです……。 おかげで、元の鞘を服として洗うことができます』


 そんなのはもはや裏技だ。一度海水に浸かった鞘の手入れは、とてつもなく難しい。だが、服ならまだかなり楽である。


『ところで、柄をはめてくださいませんか?』


 余談……。柄は人化の際、下着に変化するらしい。逆に着物として、肌襦袢を着ていると、柄になる。

 だから、柄がついていない状態が最も落ち着かないのだとか。

 渡芽は、柄の取り付けに苦戦したが、みゃーこが近くで教え、3回目の挑戦で取り付けに成功した。


 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 それから、夕食が始まる。

 蛍丸は、ものを食べるというのが初めての経験で、目を白黒させながら食べていた。だが、体調は特に変化しないようでクー子は安心する。


「さて、稲野隠森いなのかくしもり作戦会議を始めます!」


 クー子は唐突に言う……。


「なんの作戦ですか?」


 みゃーこの疑問も最もだった。

 神曰く、議論は和やかに行うべし。だから、食事中を選んだ。聖徳太子が言った、“和を持って尊しとせよは”、高天ヶ原の和やかさ至上主義から発想されたものである。

 尚、神は聖徳太子を笑い事の範囲で恨んでいる。生を終えた聖徳太子は神々にハンドルネームだってことをばらすなと、絡まれたのだ。そう、仏は神々のハンドルネームのようなものだ。


「どうやって、黄金の夜明けの拠点を特定するかだよ!」


 それは、急務である。監視のために急いで戻る必要があった神々であるが、まだ作戦が足りていない。


「神様……聞く……」


 渡芽わためが真っ先に案を出す。


「そうだね! とりあえず、稲野山毘売にも聞こうか!」


 稲野山母毘売いなのやまははひめは、三柱の神と密接に関わっている。彼女と話すだけで手に入れられる情報は、彼女を含め四柱分だ。そのつもりではあったが、渡芽わためが提案してくれたのが誇らしかった。


「言われてしまいました。クルムは鋭いです……」


 そう言って、微笑むみゃーこ。

 そして、全く話を聞いていなかったのが蛍丸である。黙々と食事を続けていた。

 初めての食事ではしゃいでしまっていたのだ。


「蛍丸ちゃんごめん! 何かない?」


 クー子は訊ねる。一度手を止めて……。

 今とりあえず情報が欲しかったのである。失敗続きだと、少し自嘲じちょうした。

 蛍丸は少し回想をした。クー子達が何を話していたのかを思い出したのである。


「……。人の事は、人に訊ねるのが一番です。ですが、むやみに姿を現せるものでもございませんよね?」


 蛍丸は昭和20年まで、人の世に居た。人の世で暮らした時間も長く、誰よりもそれをわかっていた。


「あ、いるよ! お話聞ける人間が!」


 現存する神の中で最も人間と強い接点を持っているのはクー子だ。人嫌いが、人間と友人など、本当におかしな話である。


「へ!?」


 それに驚いたのは、蛍丸。神が人間に対して、神であることを隠すようになった経緯を、人間側から見ていた器物だ。


「平安時代の人の生まれ変わりだから、神様って言っても大丈夫! 都合良すぎる話だね!」


 それは、はるのことである。あの陰陽師は、神ですと名乗っても大丈夫な、非常に稀有な相手である。

 クー子は、何か非常に縁結びの加護的なものを感じた。

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