第57話・水底の心

 第一席での用事が終わったあと、渡芽わためが最初に見ていた一席の奥に少し寄ってから、再び第四席に戻った。

 素戔嗚尊のステージの後ろには、戦神いくさがみ向けの施設があるためあまり長居もできなかったのである。なにせ、そこは北欧神話でヴァルハラと呼ばれている場所なのだ。なんなら日本でも張原ばるはらと呼ばれている。切った張ったの張ったで、張原ばるはらだ。


 その更に奥には、特級神器がある。天沼矛あめのぬぼこだ。これは現在、その力の多くが反転してしまっている。


 四席に戻ると、最初のような人だかりは消えていた。なにせ綿津見わだつみはただただ顔がいいだけで、推されている神々である。一度に大勢を楽しませるコンテンツなど、持ってはいないのだ。

 だが、それが幸い。こうして、祭りの終わり際には、綿津見わだつみと面識のある神が会いに来る時間ができた。


「クー子……」

「久しぶりだね。元気してたかな?」

「おぉー! 本当に来てくれた! ありがと!」


 綿津見わだつみは特殊である。底津そこつ中津なかつ上津うわつ。その三柱で、主神をやっているのだ。彼らを住吉すみよし神族と言う。


 底津そこつは無口で、一見何を考えているのかわからない。だが、秘められた意思に敏感である。髪は漆黒で、一切の光を吸い込む如しである。最も成熟した外見を好む神だ。大人びた顔立ちが、女性的な体つきが、美しい。男性神族に人気が高い。


 中津なかつはその中間。本格的に性別不明に見える神である。三人並ぶと、髪の色が深海から登っていくかのように変化している。底津そこつ上津うわつは、この中津なかつにぞっこんだ。そう、性別を持たない神から最も人気を集めている。


 そして上津うわつは年齢以外がショタである。少年的な性格と、奔放な振る舞い。女性神族の母性を大いにくすぐるタイプである。


 クー子はもう今にも上津綿津見うわつわだつみを抱き上げたかった。主神であるがゆえに、そんなことできようはずもないのである。


 ふと目を離したすきに、渡芽わため底津そこつに近づいていた。

渡芽わため……」

底津そこつ……」


 そしてなぜか自己紹介を交わした。


「あはは、見たところ二人共口数が少ないね! 通じるところがあったのかな?」


 その様子を見て大笑いしたのが上津綿津見うわつわだつみだった。


「あの二人、何か目で通じ合ってません!?」


 みゃーこはびっくりしていた。二人共、一言も話さずに見つめ合っているのだ。


底津そこつ様って、昔から不思議な方だから……」


 クー子が教えた。

 底津そこつはいつも唐突に発言する。だが、その一言で、高天ヶ原たかまがはらの歴史は動いてきた。天才というより、変異種。見ている世界が根本的に違うのだ。


「クー子、君は姉さんにまかせてくれるのかな?」


 中津なかつが、クー子に訊ねた。基本的に、住吉すみよし神族はコマと接する機会が少ない。アイドル的になってしまっているのだ、コマを連れて会いに来る神がほとんどいないのだ。


「私も、昔胸を貸してもらいましたから!」


 心の奥底に秘めた痛みをそそぐのが、底津そこつの不思議なところだ。逆に本人が理解している悩みには、彼女は全く手をかせない。


「クー子様、それは?」


 みゃーこは訊ねた。

 それは、クー子にとって恥ずかしい過去。でも、そろそろみゃーこにも聞かせていい気がした。


宇迦うか様が、私を拾ってくれてちょっとしてからかなぁ。底津そこつ様と会ったんだよ。自覚してなかったんだけど、私は極度の寂しがり屋でもあったみたい。人嫌いのくせに、変だよね? でもね、底津そこつ様が言ってくれたの。“寂しいなら言えばいい”って……」


 人嫌いと寂しがり屋は両立する。嫌われたくないから、先んじて嫌っておく。離れるのが怖いから、そもそも近づかない。だからとって、孤独が好きなわけではないのだ。


 打ち明けてからだ、宇迦之御魂うかのみたまが全てにおいてクー子を優先するようになったのは。それからは、高天ヶ原たかまがはらの会議にすら連れて行ってもらっていた。


「いやぁ、あの時は大泣きしてたよね! 懐かしいな、あんなに小さかったのに」


 そのときは、クー子もホンドギツネ基準の大きさだった。今のみゃーことそんなに変わり無い。


「こら上津うわつ。あんまりからかってはいけないよ」


 中津なかつは、上津うわつを軽く叱った。でもいいのだ、クー子はこの三人に敵うことなど無いと知っている。


「ごめんごめん」


 上津うわつは、軽く謝る。


「クー子様にもそのような時が……?」


 みゃーこは幼いから、クー子が全能に見える。でも、そんなものはまだどこにもいない。


「あったよ。でも、私だけじゃない。大国主おおくにぬし様だって、幼かった時代があるんだよ」


 大国主おおくにぬしが立派になったのは、結婚をしてからだ。それまでは、いじめられっ子だった。

 このあたりは、クー子も伝聞だ。彼女が生まれるより、ずっと昔のできごとである。


「みゃーこちゃん。これあげる!」


 上津うわつはそう言って、神事記かむことのしるしを差し出した。これは、高天ヶ原たかまがはらで作られた古事記こじきのようなものである。上津うわつだから差し出せるが、ほかの神にとっては恥ずかしいことこの上ないものである。


「わー! だめー!」


 当然、クー子もである。


「いいじゃん!」


 そう言っている間に、渡芽わため底津そこつのやり取りが終わったようだった。


「大丈夫……その悩みは、消える……」


 底津そこつが、声を発した。その方向を見ると、渡芽わため底津そこつの胸で涙を流していた。


「本当?」


 渡芽わためが聞き返すと、底津そこつ渡芽わためを撫でながら言った。


「待てばいい……」


 渡芽わためは、心のどこかでまだ少し疑っていたのだ。人間たちの世界に戻されてしまうのではないかと。クー子が人として生きる道を守った、弊害へいがいだった。

 それは、渡芽わためが望まぬ限り訪れぬ未来である。

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