第10話・狐寝

 その後少しして、渡芽の腹の虫が騒ぎ出した。

 渡芽は、それにも怯えてしまったが、ここには腹の虫に怒る者はいない。


渡芽わため様、クー子様は料理の時は、人の姿です。目に入らぬよう、満野狐みやこと遊んでまいりましょう?」


 渡芽わためはみゃーこに身を寄せる。それが渡芽わためにできる最大限のびの売り方だ。

 彼女は欲求は何もかもが満たされていない。ただ、生存のための欲求ですら。本当に、生物として存在できるかどうかの瀬戸際せとぎわにいるのだ。


「コンコン!」


 クー子の人化に必要な音節はただそれだけ。歩きながらでも、何かをしている最中でも人化ができる。と言っても、クー子の人化は稲荷基準では大したことのないものである。

 クー子はみゃーこに渡芽わためを任せたのだ。それは至って当然のこと。みゃーこはクー子の誇りである。


「っと、無理に動いてはなりませんよ! お体が弱っているのです!」


 動いた瞬間に、少しよろけてしまった渡芽わためを、みゃーこは体で受け止めた。

 みゃーこも列記とした妖怪であり、神に育てられている。その体毛の感触は、ただの狐なぞと比べられようはずもない。

 渡芽わためは、その感触に驚いた。富豪が触っても、天上と称するだろう。そんな体毛に、渡芽わためは触れている。そしてその奥から、哺乳類ほにゅうるい特有の温もりと心音が聴こえてくるのだ。


「ほ、ほふ……」


 あまりの心地良さに、渡芽わためは息を漏らす。

「どうやらお気に召されましたか? ではでは、この体にて遊び相手となりましょう!」


 その後、みゃーこは、渡芽わためと遊んだ。渡芽わためがあまり動かずに済むように、頬ずりをしたり、抱きしめてみたりである。

 それは遊びであると同時に、肉体的な愛情表現だった。


 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 少しして、渡芽わためがみゃーこに夢中の間に、クー子は食べ物を配膳し終える。そして、一鳴きだ。


「わんっ!」


 本性にもどるだけ、それは簡単である。


「ご飯できたよー! 食べよ!」


 今日の献立は、胃に優しい白身魚を用いたお粥である。みゃーこが風邪をひいた時の定番だ。

 だが、二人共これが好きで、健康な時もたまに食卓に上げる。これは、玉藻前たまものまえのレシピである。

 玉藻前たまものまえとは、賢母として必要なものを全て持っている妖怪だ。みゃーこをコマとする前のクー子では、太刀打ちができないほどに。


麗白粥ましろがゆですか!?」


 という、名前のレシピである。なお、煮汁に様々な野菜を煮溶かしているため、大国主おおくにぬしも認めるひと品だ。


「ましろ……?」


 ただし、見た目はあまりよろしくない。


「うん! 味は美味しいよ!」


 見た目以外の全てを兼ね備えた食品である。ついでに、クー子が丹精込めて作ったのだ。もはや、ただの食べ物ではない。霊験れいけんあらたかである。

 だが、渡芽わためは食べようとしない。というより、食べてもいいのかで戸惑っている。


「お狐わんわん、人になーれ!」


 そこで、役に立ったのがみゃーこの不完全な人化だ。誰も人間だと思わないレベルであるのが、幸いした。


「食べねば勿体もったいないですよ! ほら!」


 そう言いながら、匙でお粥を掬い、渡芽わための口元に運ぶ。

 人っぽくないから、渡芽わためを怖がらせないのだ。


「みゃーこありがとうね。でも、ちゃんと覚えてる? コンコン、だよ?」


 と、クー子に指摘される。みゃーこは一瞬だけ、しまったという顔をした。だが、すぐに言い訳を思いつき発する。


「も、もちろん覚えております! 人らしからぬ姿を作るため、あえて! あえてなのです!」


 みゃーこは、癖でわんわんと言っていた。これは、イヌ科である以上仕方のないことなのだ。


「そっかー、やっぱりみゃーこは私の誇りだよ!」


 と、納得してしまうクー子に、みゃーこは少し罪悪感を感じたのであった。

 渡芽わためは一口食べれば、あとはむしろ逆方向で大変であった。急いで食べるものだから、やけどをしないかとヒヤヒヤしていたのである。


 だが、渡芽わためにとってそれは、これまでの人生で最高の食事だったのだ。優しい狐に囲まれて、食べればむしろ喜ばれる。

 渡芽にとっては、お茶は苦かった。でも、それ以外の全てがよかった。だから、悪意なんてないのだと本能が理解した。故に、お茶も我慢して飲んだのである。


 食事も終わり、渡芽わためのまぶたは重くなった。ものすごく消耗した一日だったのだ。しょうがない。


「それじゃ、今日はもうねよっか!」


 そんな渡芽わための様子を見て、クー子が言う。


「そうですね! わんっ!」


 戻るのは、みゃーこでもこれでできるのだ。


「暑くなったら言ってね! 狐のまま寝るから!」


 いちいち変化するのが面倒くさく、クー子にとって久しぶりの狐寝きつねである。


「遠慮はいりませんからね!」


 その日、二匹の神獣と一緒に渡芽わためは眠りについた。クー子の毛はそれはもう、人類の語彙に存在しないほどの素晴らしさだったのだ。

 暑いということは、渡芽わためにとってなかった。むしろ、栄養失調気味な渡芽わためには、外部から供給される熱が、肉体の需要を存分に満たしていたのだ。

 枕は、クー子の尻尾。渡芽わためにとってそれは、望外ぼうがいの幸せであった。

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