第9話・渡り来て、渡し繋ぐ

 人間に対する恐怖も一旦落ち着き、それでもまだクー子には悩むことがあった。


「どうしよう……放送どころじゃないなぁ……。昨日デビューしたばかりなのに」


 クー子がVTuberになったのは、狐妖怪の本能的欲求によるもの。即ち、油揚あぶらあげが目的である。


 油揚げとは、狐妖怪にとって至高の食物である。その至高の食物は、時代とともに変化してきた。例えば原始時代であれば、ねずみの油焼き。ラードなどの油を用いて焼いたねずみだったのである。

 時代は進み、天ぷらが南蛮から渡来すると、ねずみの天ぷらへと変わる。

 そして、江戸時代。生類憐みの令が発令された。動物を殺せなくなった人間たちは、精進料理で肉の代わりにされていた油揚げを供えたのだ。


 そのせいで、稲荷神族はその油揚げにドハマりした。特に宇迦之御魂神うかのみたまのかみはやみつきだったのだ。

 江戸後期、明治、大正。この三つの時代を、稲荷神族いなりしんぞく黄金時代おうごんじだいと呼ぶ。人間からの油揚げ供給量が最も多かった時代だ。


「本日は仕方ありませんよ! 大事な時期ですが、一日お休み致しましょう!」

 

そんな経緯があって、稲荷神族いなりしんぞくは油揚げが主題となると、真剣だ。なんなら、宇迦之御魂神うかのみたまのかみよりも油揚げを尊ぶ。


「ごめんね、油揚げ、手に入れるの遅くなっちゃうかも」

「満野狐は大丈夫ですよ!」


 と、言うのも、みゃーこは油揚げを食べたことがない。

 現代は油揚げ供給量が稲荷神族いなりしんぞくの数に対して少ない。よって、油揚げは高天ヶ原たかまがはらで独占されている。


「本当にごめんね! コマに油揚げを食べさせてあげられないなんて、神様失格だよ……」


 そんなことは特にない。食べさせられる稲荷神族いなりしんぞくなど、ほとんどいない。


「クー子様。お気を落とされませんように! 満野狐みやこは大丈夫なのです!」


 ちょうど、その時だった。拾ってきた少女が目を覚ましたのである。


「ん……ん?」


 クー子とみゃーこは、その僅かな発声に気づいた瞬間に、少女に駆け寄った。

 クー子は少し震えているものの、恐怖の感情を無視したのだ。

 少女のまぶたが開く。そして、その第一声は。


「ひっ!」


 恐怖に満ち溢れたものだった。

 少女が特に反応したのはクー子に対してだった。


「みゃーこ、お願いできる?」


 クー子は理解した。既に少女には恐怖ではなく、親近感を覚えていたのだ。

 人間に対する恐怖を持つ存在として。同じであると、理解した。


「はい!」


 そう言って、みゃーこは少女に近づいた。

 前足をちょんと上げて、まずは挨拶といった具合だ。


「初めまして! 稲荷いなり満野弧みやこと申します! 後ろにいらっしゃる駆兎弧くうこ様のコマをやっております! どうぞ、よろしくお願いします!」


 目上の人間に囲まれて育った満野弧みやこは礼儀正しい。そして、優しかった。


「喋る? 人……違う……」


 少女の言葉には文法がなかった。それは、とてつもなく残酷な環境にいた事の証左である。

 離乳りにゅうまでの期間に、十分に言語に触れられなかった証拠だ。離乳までの期間、幼児期。その時期を過ぎると、人間は文法を覚えられなくなる。それは、ただ生命だけを維持された子供のようだった。


 少女はみゃーこに怯えない。狐の姿には怯えないのだろう。だから、クー子は便利なその姿を捨てることにした。


「わんっ!」


 人化がコンコン、元に戻る時がわんだ。人化する際は人間の視点で狐を認識し、狐に戻るときは狐の視点に戻る。他の生物の姿を借りるときは、その認識を利用するのである。

 それは、立派な狐であった。白面にして、金の毛。伝承の九尾の一体に近い姿であるが、それよりも尚美しい。その体躯は、人よりも大きかった。


「怖がらないでねー! 人間なんてここにいないから!」


 稲荷神族いなりしんぞくには秘法がある。幼児期の脳機能を取り戻す秘法が。だが、それを行えば、少女は根本的に人間ではなくなってしまうのだ。クー子は少女の不安を取り除きながら、それについて考える。


「人……違う?」


 クー子の本性は狐である。

 人間を敵性生物と思っている相手には、本性で接するのは効果的だった。


「狐だよー! 狐しかいないよー!」


 少女の人間に対する恐怖はクー子よりさらに深かった。


「ここは稲荷神族いなりしんぞく幽世かくりよです! 人類禁制です!」


 稲荷神族いなりしんぞく幽世かくりよにも、人間が出入りする場所はある。だが、ここの主は人間恐怖症だ。

 奇しくも少女にとって、理想的な環境がここにあった。


「ふぅ……」


 少女の体から力が抜けるのがわかった。

 だから、クー子は少女に布団に入るのを促した。いくらもののけとはいえ、塗仏ぬりぼとけの影響を脱するには大量の栄養と、休息が必要だ。

 少女が布団に入るのを確認すると、クー子は改めて仕切りなおした。


「私は稲荷駆兎弧くうこ! この子は、満野弧みやこ! あなたのお名前は?」


 動作も交えて、丁寧に伝える。

 だが、少女は首を振った。


「クー子様。この子は自分の名前がわからないのでは?」


 そもそも、彼女に名前などなかった。戸籍も、出生記録すらも……。


「そっか。じゃあ……渡芽わためちゃんって、仮に呼んでおこうかな!」


 そんなことを知らないクー子は、それを仮の名前とした。それは、満野弧みやこの名前の候補であり、狐をつけにくかったから見送ったものである。故に、由来はとてもしっかりとしていた。


「わため……?」

「うん、現し世から、稲荷いなり幽世かくりよに渡ったからそれにしておくの。それと、芽はね、稲荷いなりでは人気な字なんだよ! ほら、豊穣神ほうじょうしんだから……発芽はつがってすごく嬉しいんだ!」


 ただ、狐はつけない。人の世に戻る道も、残しておきたいから。それを決めるのは、少女……渡芽わため自身であるべきだと、クー子は思っていた。


「クー子様、仮の名には少し勿体無もったいないお名前です!」


 かなりいい名前と、稲荷神族いなりしんぞくなら思うものだ。狐をつけなくとも、それを補ってあまりある。


「もったいなくてもいいの! 仮じゃなきゃダメ! だって、この子にはこの子のための名前が必要だもの!」


 渡芽わためにとって、それは経験もした事がないことだった。自分のことを考えてくれる相手が目の前にいる。愛を、初めて受け取ったのである。

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