第10話 逃げるが勝ちを信じる
彼の第一印象は、しなやかな黒い獣だった。闇を切り取ったような漆黒の髪。捕食者の鋭い瞳。
出会って早々、フロラを怪しんで剣を突きつけてきたのが随分と昔のことに感じる。
生命の危機を感じたフロラが正体を明かすと、彼はアースと名乗り、すぐに自らの屋敷に招いた。そして日も変わらぬうちに跪いて婚約の申し込みをしてきたのだ。
フロラはこの世に生を受けて初めて、度肝を抜かれるという経験をした。人間は寿命が短いからこのくらいのペースが当たり前なのかと一瞬血迷ったことを考えたが、そのあとすぐに説明を受けて納得した。
この婚約は形式上のもので、私たちの関係はいわばビジネスパートナー。
分かっていた。そう、ずっと理解していたはずなのに。
いつからだろう? その手のひらを意識するようになったのは。
こちらを見る優しい漆黒に。髪を梳く指先に。少し低い体温に。──胸がきゅうっと締め付けられるようになったのは。
「……い、……ロラ。……聞こえてるか? フロラ」
「あっ! すみません、考え事を」
「めずらしいな。今から仕事だっていうのに」
沈みかけた陽が一日の最後を知らせる暁の光を放っている時刻。フロラは騎士団の演習場に立っている。今から騎士団の非常勤魔法士として、王都で発生している人身売買の捜査に当たるのだ。
身を包んでいるのは真新しい騎士団の制服だ。しっかりと身体に馴染む素材で作られた白い団服は、丈夫なのにとても軽い。シルエットは違えど男女共通でパンツスタイルなのは戦闘で動き回ることも想定してのものだろう。
自分の服装を見下ろしてから、ちらり、と横に立つアースに目をやる。基本の団服は同じ。だが、アースはその上に騎士団長の証である黒色のマントを羽織っているのだ。
──これは控えめに言っても格好いい。決して、婚約者の欲目などではなく。
重厚なマントを風に靡かせながら背筋を伸ばして真っ直ぐに立つ様は戦いを司る神のよう。
(団員たちの誰もがアースを畏れると同時に憧れの眼差しで見つめるのも納得……じゃない!)
気付けばまたアースのことを考えている自分を叱咤する。
これから重要な任務が控えているのに、変なことに思考を飛ばしている場合ではないのだ。仕事、仕事、初仕事……と呪文のように唱えて気合を入れ直す。
「ふぅ…失礼しました。もう大丈夫です。アース──団長」
「君は陛下直々の推薦を受けての特殊な入団だし、非常勤だし、俺の婚約者であることも実力の高さも皆が知るところだから、いつも通りアースでいいさ」
「そうですか?」
戸惑いながらも頷いたフロラを確認して、アースは全体に向き直る。
瞬間、それまで今後の段取りなど打ち合わせに騒ついていた団員たちが姿勢を正し、ピリッとした空気が演習場を満たす。誰もが真剣な表情で注目する中、アースが口を開いた。
「本日より王都人身売買組織に関わる捜査を開始する」
低く落ち着いているのに不思議と聞き取りやすい、統率者特有の声。
「やるべきことはたった二つだ。新たな被害の抑止と、組織本拠地の特定。各自巡回しつつ、疑わしい建物は調べ尽くせ」
「「「「御意!」」」」
団員が一糸乱れぬ仕草で胸に手を当てれば、アースは剣を抜き放ち堂々と天に翳した。これから危険な捜査に乗り出す団員たちを鼓舞するように、刀身が茜色に輝く。
「オルラリエの剣に神の加護を」
「「「「オルラリエに祝福を!」」」」
百余人のかけ声とともに捜査が開始した。
演習場の出口へ向かって歩くアースに付いていきながら、フロラは確認する。
「私たちはどこに向かいますか? 中心街か……それとも下町の方へ?」
しかしアースは首を横に振る。
「俺たちは関所だ」
「関所?」
戸惑いつつも、誘導されるまま辿り着いたのは、平民が使うような質素な馬車。二人が乗り込めば、御者は心得た様子で馬に鞭打つ。すぐにガタガタと音を立てて馬車が夜の街に走り出た。
「どうして関所なんですか?」
「この広大な王都で疑わしい建物を一軒ずつ見て回るのでは時間がかかりすぎる。そもそも王の膝元である王都で取引自体を行なっているとも思えない。
おおかた、王都で誘拐した人間を一時的な拠点に集めたあと、何人かまとめて王都外のどこかにある本拠地に連れ出し、そこで売買を行うといった段取りだろう。つまりその本拠地の方を押さえなければ、事件の根本的な解決にはならないというわけだ」
「それなら巡回と建物の捜査はただのパフォーマンスですか?」
「流石だな。話が早くて助かるよ」
アースの説明はこうだ。
今回の騎士団の動員は、国がこの件に勘づいて捜査を始めたということを敵に知らしめ、揺さぶりをかけることが目的。敵が慌てて"商品"を移動させようと関所を通るところを確認し、尾行して本拠地を特定ののち、騎士団を招集して人海戦術で組織を一網打尽にするという作戦である。
「関所に配する人数が多くては敵に勘付かれる可能性があるから、その位置は少数精鋭で担うつもりだ。南の関所にはジュドと副団長を行かせている。だが、地理的に考えて本命は俺たちが向かっている北の関所だ」
「早ければ今日や明日にでも事態が動くかもしれませんね」
「ああ。囚われた者たちを一刻も早く助け出さねばならない今、このやり方が一番効率的だというのが、イザークと俺の考えだ。何度も言っている通り、この作戦には危険が伴う。最後はおそらく乱戦になるだろう。
君にも戦力として参戦してもらうが、絶対に無茶はしないでくれ。自分の周りに結界を張るのを忘れるなよ」
「もちろんです」
答えながらもフロラは胸騒ぎを覚える。
敵も相当警戒しているはず。上手く作戦通りに行くだろうか、と。
***
「ものすごーく、こう……。目を凝らすと、人間のエネルギーのようなものが見えるんです。私も今気付いたんですけど」
「うん、それは敵も予想だにしないだろうな」
「ただかなりの集中力を要するので、継続するにはあるものが絶対に必要です。それは甘い物」
「甘い物」
アースは鸚鵡返しという詮無いことを人生で初めて実行してしまった。
本来であれば関所の係員の協力を得て、王都から出ようとする膨大な量の馬車をしらみ潰しに確認する予定だった。
ところが関所の物見台に陣取ったフロラは、馬車の中にいる人間の数がうっすら見えると言う。
それであれば予定していたやり方よりも、敵に警戒させるリスクは減るし、見落としもなくなるため、アースは一も二もなく方針を変更した。
おかげで仕事に来たはずが、物見台で婚約者とティータイムをしながら流れ行く馬車を眺めるという謎の時間を過ごすことになっているのだが。
「女神チート」
アースは思わず名付ける。そうとしか思えない。フロラは仕事がしたい、したいと口癖のように言うが、本来であれば常人ではこなせないレベルの仕事をすでに行っているのだ。ただそれが女神チートですぐに片付いてしまうだけで。
つまり彼女は、仕事がしたいのに、仕事が簡単に終わってしまう不毛な体質というわけだ。
集中のあまり若干目付き悪くなりつつ、時おり紅茶と甘味を入れながら馬車を目で追うフロラを、アースは眺める。なんだろう、この誰よりも仕事をしているのに漂う休憩中のような感じは。
「騎士団長! 定期報告に参りました!」
声を張って物見台に現れた報告担当の部下が、目に飛び込んできた優雅なティータイム風の光景に目を剥く。
「我らの敬愛する団長が職務をサボってデートなんてそんな馬鹿な……」などと動揺のあまり失礼な内容まで声に出てしまっており、見間違いではないかと目を擦ったりもしている。
もはや見慣れた反応に、アースはやや面倒な気持ちで重い口を開いた。
「彼女は実力ある魔法士なので馬車の中の人間の数を魔力で見分けられる。だからここから確認作業を行なっているのだ。報告を続けろ」
「はあ」
部下へのサボりではないアピール。人生初のことだ。
言われた人間はたいてい理解の範疇を超えた出来事に「へえ」「はあ」など気の抜けた相槌を繰り出す。普段であれば喝を入れるところだが、その気持ちに共感せざるを得なかったアースは今回だけ許しているのだった。
報告を終え首を傾げながら去る部下を、何とも言えない気持ちで見送った。
***
物見台で過ごすようになってから、三日が経過した。フロラはアースと共に、関所が開く朝6時から夜9時まで、毎日ひたすら馬車を眺め続けている。
「……なかなか来ませんね」
馬車の数が減ったタイミングでフロラは目頭を揉みほぐした。
実際、呑気なのは見た目だけなのだ。こうしている間にも過去に攫われた人たちがどうしているのかと思うと、湧き上がってくる焦燥感が抑えられなくて、フロラは呟く。
「早く、助けてあげたいのに」
「王都内の捜索は団員たちが十分に進めている。俺たちは焦っても仕方ないさ」
「そうですね……」
本来人間では見られないものを見続けているせいか、フロラの体調は着実に悪化している。アースにばれたら心配されるから隠しているが、今も視界がぼやける。
落ち着こうと深呼吸をした瞬間、こめかみがずきりと痛んでフロラは呻いた。それを皮切りに吐き気もしてきて、急激に血の気が下がっていくのを感じる。
「っ……」
ちょっとまずいかもしれない、と今更気付いたけれど、真っ直ぐ座っていられずに椅子から落ちかける。
「フロラ! 大丈夫か、頭が痛いのか!?」
アースが慌てて隣に来て肩を支えてくれるのに、上手く息ができない。フロラははくはくと唇を動かしながら、力なくアースに寄りかかった。
「少し、眼を……使いすぎたみたいです」
それを聞くと、アースの手のひらが瞼を閉じさせるように目の上を覆ってくれる。少し低い体温が気持ち良くて、全身の緊張がほぐれる。
アースが一定の間隔で背中をさすってくれるのに合わせてなんとか息を吸ったり吐いたりを繰り返していると、少しずつ呼吸が戻ってきた。
フロラはほっと息をつくと、姿勢を正す。
「ありがとうございます、アース。まだやれます」
「……すまない。簡単なわけがなかったよな」
「何ですか?」
「いや、こっちの話だ」
フロラには謝られる覚えが皆無だったので首を傾げたが、アースは言って満足したのか、フロラの髪をひと撫ですると立ち上がった。
「今日はもう当初のやり方に切り替えよう」
「でも」
「あと何日続くか分からないんだ。君の眼だけに頼るやり方だと限界が来るだろう?」
「そう、ですね」
もう夕方だし、今日は何とかなるだろう。そう思って立ち上がったが、首を横に振ったアースに椅子へ戻される。
「君は十分役割を果たしたから、今日はもう休んでいてくれ。俺が下で馬車を見てくるから」
「いえ、体調はもう大丈夫です。一緒に行きます」
無理やりアースについて関所の下に降りると、今日中に関所を出てしまいたい馬車のラッシュが始まっていた。
門に向かって三列になって馬車が連なり、がやがやと賑わっている。自分の番が回ってくると馬車から代表者が出てきて、馬車の使用目的と載せている物の目録を関所の係員に渡し、軽く中のチェックを受けてから門を滑り出して行く。手慣れた職員たちによって、列はみるみる進んでいく。
フロラは最後に一度だけ、と眼を凝らして全体を見渡す。鈍い頭痛と共に、無数の白いエネルギーたちがぼんやりと見え始め──息を呑んだ。
「アース、見つけました」
「どれだ」
「左の列の前から五つ目です」
アースが数えるようにして馬車の列に眼を走らせ、すぐに鋭く眼を細める。
「──あれか」
一見して商人が利用するものと見分けのつかない、木で作られた簡素な馬車。軛に二頭の馬が繋がれ、少し黄ばんだ幌で覆われた荷台の隙間からはぎゅうぎゅうに詰められた糸や織物が見え隠れしている。
見事なまでに違和感なく偽装されている。しかしフロラの目には、深い荷台の底、商品の下にあたる場所に、幾人もの人が埋められているのが白い靄の形となってハッキリと見えているのだ。おそらく二重底になっているに違いない。
フロラが小さく頷くのを確認すると、アースは素早く関所の係員の男を呼び出し、該当の馬車を確認するよう指示を飛ばした。
係員は緊張した面持ちで、しかし敵に気付かれぬよう平静を装って馬車のチェックを行っていく。数分にも満たない時間の後、彼はこちらに目配せして頷くと、同時に指を動かして何かのサインを出した。
「あのサインは?」
「まずいな。敵が広範囲の探知魔道具を使っているようだ」
「広範囲ってどのくらいです?」
「最低三キロ」
フロラは息を飲んだ。それはつまり、予定していた通常の尾行が不可能であることを意味するからだ。
これから暗くなる。夜道で三キロも距離を開けてしまえば、対象を目視することはまずできない。見えぬうちに分かれ道で見失なう、あるいは、気付かぬうちに馬車を乗り換えられて巻かれる可能性が高い。
でも、とフロラは唇を噛む。ようやく見つけた事件解決への直行便。決して逃すわけにはいかない。
もう一度馬車に目をやる。目の前に捕らわれている人だけでも──六人だ。それに本拠地に連れて行かれ、不安な気持ちでいつ売られるかと怯えている人も入れればおそらく数倍の人数になるだろう。それだけの人の運命があの馬車の尾行の成否に委ねられているのだ。
「アース」
確固たる決意を持って呼び掛ければ、嫌な予感を覚えたのかアースが眉を顰めてこちらを見つめる。
「私があの馬車に乗り込みます」
「いくらなんでも危険すぎる」
「アースは前に言いましたよね、私は今回の事件で被害者になりうる存在だ、と。つまり私なら"商品"として本拠地まで潜入することができます。しかも自分の身をきちんと守りながら。
アースは安全な距離を保って付いてきてください。私たちがお互いを見失うことはありません。双子魔石が繋げてくれますから」
「それなら双子魔石を敵の馬車に忍ばせれば」
「分かっているでしょう? それだと馬車を乗り換えられれば終わりです」
唇を引き結んだアースに、あと一息! とフロラは畳み掛ける。
「私は、捕らわれた人たちを絶対に助けたいです。アースも同じ気持ちですよね?」
揺れる漆黒に目線をしっかりと合わせて。
「双子魔石のもう一方を持っているのがアースだから、言っているんです。必ず助けに来てくれるって信じられるから」
彼の手を取り、ぎゅうと握り込んで。
「大勢の人の命がかかっています。決断してください、アース!」
挑むように見れば、しばらく抵抗するようにこちらを睨んでいたアースは、やがて根負けしたように空を仰いだ。
「──君は俺を追い込むのが上手すぎる」
「追い込まれてくれるんですね?」
フロラは瞳を輝かせた。アースはそれを見て、これ見よがしに胸の前で十字を切る。
「ああ、神よ。自らの手で婚約者を人身売買組織に差し出すことになるとは。俺は前世でどんな罪を犯したんだ」
「神からの伝言ですが、あなたの前世と今の状況とは特に関係ないそうですよ」
ほんの冗談なのに、出会ってから初めてのレベルでものすごく不愉快な顔をされた。
「……帰ってきたら覚悟しろ」
地を這うような声に、フロラはちょっぴり背筋を寒くする。一体何を覚悟しろというのだろう。あまりいい予感はしなくてそっと身を引く。
「あっ、制服じゃまずいので、潜入できる服に着替えてきますね!」
早口で言い残して、フロラはそそくさと関所の中に向かった。
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