第9話 すごく近かった

「ごめんなさい、アース。だけどどうしても」


 フロラが指令書を受け取ったのを確認するやいなや視線を背けてしまったアースに、急に不安な気持ちが兆して、彼の袖口をそっと引く。


「ねえアース」


「もういい。分かった」


 それだけ言うとアースはフロラの手を外して、目も合わせずに部屋を出て行ってしまった。初めてのことに、フロラは言葉も発せないままその後ろ姿を見送る。


 これまでフロラが名を呼んでアースが振り返らないことなんてなかった。

 いつだって柔らかい目をして、身体ごと振り返って少し微笑みながら、なんだ? と問いかけてくれたのに。


「アースが、怒った……?」


「本当に怒った叔父上はあんな物ではないから違うと思うな」


 あまりにも我を通す私に嫌気がさしたのだろうか。確かに、彼の心配や気遣いを分かっていながら何度も無碍にしてしまったから。

 たとえ嫌われたとしても自業自得──まずい、涙が出そうかもしれない。

 フロラは瞳が潤んでくるのを感じて、無意識にドレスのスカートをぎゅっと握る。


「たったこれだけの出来事でそんなにもショックを受ける姿を見ると、普段いかに叔父上が優しく接してたかってことを実感するよね。何だか一周回って惚気られてる気分だ」


 イザークのぼやきも耳に入らないほど混乱しているフロラは、ただ、親族だからかどこかアースと似た響きを持つ声に反応して、縋るようにイザークを見る。


「イザーク様、私……、わたし、アースに嫌われて」


「ないない。ちょっと急用を思い出したとかそんなとこだろ」


「……こんなタイミングで?」


 全く信憑性のないことを興味なさそうに告げるイザークを、疑わしさを込めた視線で見つめてみたが、当の本人は遠い目をして窓から空を見たりしている。


 アースが帰ってきたら謝って、これまでの感謝を伝えて、そしてすぐにもう一度話をしてみよう。

 そう決めることで、フロラは萎れそうになる心を無理やり立て直した。




 ***







 しかしその日、晩餐の食堂にもアースは来ていなかった。いつもは早めに来てテーブルで書類を眺めながら待ってくれているのに──今日に限って。


「ジェンキンス。アースはどうしたの?」


「急用とのことで外出されており、まだお戻りになっておりません」


「そう……」


 ずんと心が落ち込む。いつも必ず完食してしまう料理長の美味しい夕食は、今日は何だか味がしない。


「アースは、出かける時なにか言っていなかった?」


「いいえ、特に何もお聞きしておらず……」


「……そう」


 ジェンキンスが気遣わしげにこちらを伺っているのに反応する心の余裕もない。結局、夕食を半分以上も残してしまって、エバにもジェンキンスにも心配されながら、とぼとぼと自室に帰ってくる。


 情けないと自分でも思うけれど、こんな感情は初めてで、どうしたらいいのか全く分からなかった。


 エバには一人にしてほしいとお願いしておいたから、部屋の扉を閉め切れば周囲は無音になった。静寂のなか、途方に暮れてソファに腰掛ける。


「晩餐は一緒に食べたいって、来なかったら拗ねるって、言ったのはアースなのにどうして来ないんですか……」


 二人で手を取り合ってワルツを踊った時を思い出す。

 あの時アースは急に練習室に現れて、くだんの台詞を寄越したのだった。その時のアースの仏頂面を思い出せば、ほんの少しだけ気分が浮上した。


 孤独に過ごすことしか知らず、人間界に来てからずっと勉強に打ち込み続けていたフロラに、誰かと食事を楽しむ豊かさを教えてくれたのはアースだった。

 あの時のアースの言葉がきっかけになって、それ以降はフロラもできる限り晩餐に顔を出すようにしたし、アースもいつもそうしてくれていた──はずだった、のに。


「私が来ないのは駄目で、自分が来ないのは良いっていうんですか。……アースのばーか。ばかばか」


 虚勢を張ってみても、あまり効果はない。だって、本当に馬鹿なのはアースじゃなくて自分だって分かっている。

 過去に囚われて、抑えが効かなくて、猪突猛進な自分。アースの気遣いや優しさをすぐに跳ね除ける、仕事のことばかり考えていて、頑固で可愛げのない自分だから。


 人間界にきた瞬間から、ずっとアースが隣にいてくれた。彼の存在があったからこそ、知らない世界でも安心できた。毎日に楽しみを見出せた。

 もし彼に嫌われてしまったら。彼が隣に居てくれなくなってしまったら──これからの自分はどうなってしまうのだろう。


 婚約が形式的なものである以上、いつか別れの時が来るのは初めから決まっていることだ。だっていつまでも婚約者のままいるわけにはいかない。

 なのに、その時が今すぐ訪れるかもしれないと思うと、急に寄る辺なく心細い気持ちが湧き上がってくるなんて。本当に今更なことで、自分でも馬鹿みたいだと思う。

 自分はもっと強いと勘違いしていた。一人でも立てると。なのに実際にはアースが離れていく可能性を考えただけで、居ても立っても居られないほど不安に駆られている。


「頑固で可愛げのない私とは、もうごはんも一緒に食べたくないって言うんですか……」


 本当にそうだったらどうしよう。ごはんも食べたくない相手と一緒に暮らすなんて無理に決まっている。この屋敷を出て行くことになるのだろうか。

 でもアースがそれを望むならば、これまでの恩返しの意味も込めて、黙って意に沿うのがいいのかもしれない。

 そんなの想像もしたくないのに、どうしたって底なし沼のように落ち込んで、悪いことばかり考えてしまう。


『お姉様、それは恋ですわ』


 リリアンの声が脳裏にこだまする。──恋。

 アースのことを考えるとこんなにも心が乱れるのはどうして。分からない。


 恋なんて、知らない。これが恋かどうかなんて、今までずっと一人きりだった自分に分かるわけがない。


「………早く帰ってきてください、アース……」


 情けなくなるくらいに弱々しい声が静寂に溶けた時、ふいにノックの音が響いた。


「フロラ、少しいいか?」


 瞬間、フロラはもう部屋の扉に向かって駆け出していた。

 待ち侘びた人の姿を一秒でも早く視界に収めたくて、慌ててドアノブに飛びつく。


「!? どうした!」


 扉の先にいたアースが、酷く動揺した顔でこちらを見ている。

 どうしてそんなに驚いた顔を? 不思議に思っているとアースが指先でフロラの頬を拭う動作をした。それで初めて、自分の頬が濡れていることに気付く。


「……どうして、急に出て行ったんですか。晩餐にも来ないし」


「泣くほど寂しかったか?」


「そんなんじゃありません!」


「そこは意地を張るのか」


 ふ、と小さく笑うアースの表情があまりにもいつも通りだったので、また涙が込み上げてしまう。するとアースは慌てたように笑顔を引っ込めて、フロラの頭を胸に抱え込むとその頬をシャツに押し付けた。

 指で拭っても埒が開かないからだと思うけれど、その温もりが心地よくて、フロラはそっと目を閉じる。


「フロラ、不安にさせたならすまなかった。少し腹が立ってな。──いや、君にじゃない。自分にだ」


 腹が立ったという言葉に分かりやすく動揺して身を震わせれば、そんなフロラに気付いたのか、アースの指先があやすようにフロラの髪を梳いてくれる。


「君がこの世界に来た理由は始めから分かっている。それはきっと、君の本質に関わることなんだろう。止めることなどできない、サポートすべきものだと理解しているよ。

 それなのにいざとなると自分の感情を優先させて頭ごなしに反対してしまう自分自身に、腹が立ったんだ」


 聞き慣れたアースの少し低くて穏やかな声が、だから君は悪くない、と紡ぐ。


「無理を言って、すまなかった」


「……私の方こそ、心配させてごめんなさい。それから、いつも気遣ってくれてありがとうございます」


 アースの心配や優しさを分かっているのに、それでも止まれない。今回の事件だけは関わらないでくれと、その言葉を聞き入れることはそれほど難しいことだろうか。

 それは自分でも不思議なほどで、たぶんアースは悪くない。それなのに謝らせてしまうなんてと、不甲斐なくなってフロラはまた涙を溢れさせる。今日はもう涙腺が崩壊しているに違いない。


「君は本当に……感情表現が豊かで、変なところで意地っ張りなわりに妙に素直で。純粋で真っ直ぐで──心配になるよ」


「……悪かったですね」


 子どもみたいに泣いている自分が恥ずかしくて口を尖らせると、アースはまた笑った。


「悪口じゃない。可愛いってことだ」


「!? かわ……」


 顔に血液が集中するのが分かった。

 今は絶対に顔が赤いから見られたくないと思っているのに、そういう瞬間に限ってアースはフロラを解放する。そしてそっと横抱きにするとソファまで運び始めた。うん? 顔が赤いな? なんて呟きながら。


「…………見ないでください」


 持ち上げられているフロラは、無抵抗に顔を手で覆うことしかできない。








 一つのソファに並んで座ると、アースは懐から小箱を取り出した。


「あのあと、これを取りに行っていたんだ」


「これって」


 蓋を開けてみると、中には何だか見覚えのある透き通った石がペンダントの形になって入っていた。数は二つ。

 前回に見た時には埃を被った何の変哲もない石だったものは、今は磨き上げられ装飾を施され、柔らかいベルベットの上で誇らしげに輝いている。以前アースと共に訪ねた雑貨屋で見つけた──


「双子魔石」


「そうだ。特殊な石だから加工するのに時間がかかってな。まだ完成日ではなかったんだが、君が捜査に加わるならばこの石は絶対にあるほうが良いから。さっき街まで行って職人を脅──急がせて、作らせたんだ」


「今、脅してって言いかけませんでした?」


 アースは素知らぬ顔でペンダントを箱から取り出す。


「この魔石に魔力を注げば引き合うという説明は以前したな? 危険が及ばぬよう常に万全を期してはいるが、捜査中に予測不能な事態が起こるケースは珍しくない。だから、お守り代わりにこれを肌身離さず着けていてほしい」


 アースはペンダントのチェーンの両端を持って、フロラの首に腕を回した。顔と顔が近付いて少し緊張する。

 ……一、二、三秒。フロラが固まっている間に目的を果たしたアースがゆっくりと離れていき、フロラは自分の胸辺りで控えめに揺れるそれを見下ろした。


 二つで一つとなる双子魔石の片割れがランプの灯りに輝く。まるで夕暮れに瞬く一番星のよう。周りをぐるりと縁取る落ち着いた金の装飾が石を腕に抱き守っているようにも見える。優しげで、不思議と温もりを感じる。


「きれい」


 無意識に、唇からこぼれ落ちたのは感嘆のため息。


「君が気に入ってくれたなら良かった」


 言いながら対になるペンダントを自らも身につけようとするアースの手に、フロラは自分の手を重ねる。

 互いに引き寄せ合う双子魔石のペンダント。それを首にかけてくれたアースの気持ちが分かるから。何かあってもすぐに駆けつけてくれる──そういうことだろう。


(それなら、アースに何かあった時に駆けつけるのは?)


 フロラは、その役目はできれば自分でありたいと思うのだ。守ってもらうだけじゃない。守りたい。そう強く思う。

 そんな想いを込めて、アースの手から抜き取ったペンダントを自らの手で丁寧にアースの首にかけた。


「これでどちらかが窮地に立っても、どちらかが助けに行けますね」


「──フロラ、君は」


 間近で視線が交わる。手を取り合ってワルツを踊った時よりも、もっと、もっと近い距離。少し顔を上げれば唇同士が触れてしまいそうなほどの。

 急激に鼓動が激しくなって、フロラは思わずぎゅうっと目を閉じる。真っ暗に閉ざされた視界の中で、唇にアースの吐息を感じたような気がした。


 しかし時間が経過しても何も起こらない。フロラが恐るおそる目を開けた時には、アースはもうソファから立ち上がっていた。


「明日からは君も捜査に加わることになる。今日はしっかり休むんだぞ。あと、無茶は絶対に禁止だ。それじゃあ、おやすみ」


 くしゃりとフロラの髪を撫でてアースが去って行く。


「……今の、なんだったの……?」


 あとには真っ赤になって手のひらで唇を覆うフロラだけが取り残された。







 ***




「──危なかった」


 部屋から出たアースは、扉のすぐ横の壁に寄りかかって天を仰いだ。

 何故あのタイミングで目を閉じるのかと、無防備な女神の表情を何度も思い返しながら。

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