第5話 怒ると恐いらしい

 アースが知り合いに呼び止められて込み入った話を始めたので、フロラはそれを横目に眺めつつ、夜会の素晴らしい料理を堪能する事にした。


 実際に体験してみて思う。立食の良いところは、好きなものを好きなだけ、好きなタイミングで取れるところだ。

 と言ってもフロラに嫌いなものは今のところないのだけれど、たとえば魚よりも肉を少し多めに取ったり、食事の途中でスイーツを挟んだり……。そんなことができてしまうのは立食ならではだろう。

 ちょっぴり体に良くなくて、ちょっぴりルール違反。だけど立食だから全てが許される。絶妙に乙女心をくすぐる食事形式なのだ。


 そんなことを考えながら料理に舌鼓を打っていたフロラは、至近距離で聞こえた"パシャ"という不穏な音に動きを止めた。数秒停止。そして恐る恐る視線を下げてみる。

 エバが侍女のプライドに懸けて厳選してくれた艶やかな真珠色のドレスの、華やかに広がった裾部分。そこに、盛大に赤ワインが散っている。致命的な攻撃をお見舞いしてくれた当の少女はというと、床に転んだ状態のまま目に涙を溜め、華奢な身体をふるふると震わせていた。


 ひとまず直接の犯人は置いておき、ゆっくりと視線を巡らせてみる。するとテーブル一つ分ほど離れた場所に立っている女性の団体が、冷めた視線でこちらを観察しているのが見てとれた。


「なるほど」


 初めて感知した嫌な空気に、フロラは弱々しく怯え──ることはまったくなく、深く頷きながら興奮に打ち震える心を必死に宥めていた。


(これが……これこそが! エバから聞いた! 女の戦いというやつに違いないわっ!)


 エバ曰く、"デビュタントをとうに過ぎた年齢で社交界に参入する時点で目を付けられるのはほぼ必然"、"目立てば十割の確率で起こるイベント"だそうだ。気を付けてくださいと忠告した彼女の確信に満ちた表情をありありと思い出す。

 目立つことはしないつもりだから大丈夫、と返したフロラをものすごく物言いたげな真顔で見つめていたエバだったが、まさか彼女の予想が本当に現実になるとは。帰ったらエバに報告しなければと心のメモに書き込んだ。


「も、申し訳ありません。わたくし……っ」


 胸中でエバの慧眼に惜しみない拍手を送っていたフロラは、足元から聞こえる蚊の鳴くような声に我に返った。


(──こんなにも怯えて、可哀想に)


 おそらくこの子は、巻き込まれただけだろう。あの明らかに性質の悪そうな団体の誰かに押されたとか、足をかけられたとか、脅されたとか。


(うん、やりそう。というか確実にやったなアレは)


 過激な挨拶のようなものだろうか。こちらの反応を伺っているように見える団体を正面からまじまじと見返して納得したフロラは、ひとまず目の前で震えている少女を安心させようと、にっこり微笑んで手を差し伸べた。


「怪我はありませんか? 私なら、ドレスが濡れただけなので大丈夫です」


 優しく立ち上がらせると、少女は驚きに目を見開いたあと頼りなげに瞬いた。その拍子に、目に溜まっていた涙がころりと溢れ、まろい頬を濡らしていく。ルビーのような瞳がゆらゆらと揺らめいて、なんというか守ってあげなければという気持ちにさせる子だ。


「あ、ありがとうございます。本当にごめんなさい」


 それだけ言うと彼女は、深くお辞儀をして逃げるように去っていった。


(可愛くて目を引くから虐められているんだわ。社交界って怖いところだな。ご飯は美味しいけど)


 目を引くピンク色の髪の毛を見送っていると、後ろからトンと肩を叩かれた。


「少し目を離した間に水遊びでもしたか?」


 アースから遊ぶように投げられた冗談に、ふっと笑う。


「少し仔ウサギにじゃれつかれただけですよ。このドレス、このままでもいい感じの模様が入ったということで何とかなりません?」


「ならないだろうな。普通に」


「ちょっと言ってみただけです」


 正気かと言いた気にこちらを見てくるアースに、すかさず訂正する。冗談だったのに──7割くらいは。あとの3割、面倒だからこのままじゃダメかしらなどと考えていた事実は軽やかに抹消した。


「人目のない場所に心当たりはありますか? 汚れを分離させるくらい神力ですぐにできますが、流石に大勢の目がある場所でする訳にはいかないでしょう」


「至高の力を染み落としに使うとは贅沢なものだ」


「出し惜しみしても仕方がないじゃないですか」


「それもそうだな」


 アースは軽く肩をすくめると、フロラの手を取って休憩室へと導いた。







 フロラは感心するアースを横目に綺麗さっぱり染みを落として見せた。

 本当に一瞬で済んだので、もはやとんぼ返りのような滞在時間で休憩室を出た二人が会場に戻ろうとすると、廊下の端から慌てたように使用人が駆け寄ってくる。


「ゼルラント公爵、別室で陛下がお呼びです」


 陛下、の言葉にフロラは目を丸くする。もしトラブルならば急いで行ってあげる方が良いだろう。


「行ってきてください。私は会場に戻っているので」


「チッ」


「アース今舌打ちしました?」


 耳を疑うフロラの問いを流して、アースは無念そうに呟く。


「慣れない君を一人にはしたくなかったんだが」


「少しくらい大丈夫ですよ。大人しくしていますから」


「念のために聞くが、君の大人しくの定義は何だ? 会場中の人々の視線をたった一人で奪うのは大人しいに入らないが分かってるか? あと人の怪我を簡単に治すのも大人しいに入らないが。ちなみにワインの染みを綺麗に消し去るのも」


「いいから早く行ってください! しつこい!」


「……分かった。すぐ戻る」


 無念そうに去るアースを見送って会場に戻ると、先ほどのピンク色の髪の少女とばったり出くわした。


「あっ」


 思わず声を発すると、相手は肩をびくっと揺らして振り返った。


「あぁ……、先ほどは本当に、ごめんなさ──、ふぇ? ワ、ワインの染みは?」


「綺麗に落ちました」


「こ、こんなにも綺麗に落ちるなんて。信じられません。…でも、よ、良かったですわ。わたくし、取り返しのつかないことをしてしまったと思い……、ううっ」


 またルビー色の瞳からぶわっと涙を溢れさせるので、フロラは慌てる。


(ハンカチ、ハンカチ──持ってないわ)


 夜会用のドレスにポケットなど付いていない。アースなら持っていたかもしれないがあいにくの不在だ。

 フロラは諦めて、その白い指先をそっと少女の目元に滑らせた。


「せっかく綺麗な瞳なのだから、あまり泣かない方がいいですよ。腫れてしまったら勿体ないでしょう」


 ウサギのようで可愛い、などと考えながら慈愛の微笑みを浮かべるフロラの麗しい顔が、少女の瞳にドアップで飛び込む。


「ふわぁ……」


 謎の声を発して少女は床に倒れ込んだ。


「なっ、今度はどうしたんですか!?」


「──ぉ、お姉様……」


 恐る恐る覗き込むフロラを見つめ、少女は夢見るような表情で呟く。


「? それは形式上の姉ということですか? ……ふむ、人間界ではよくあることなのかしら」


 もちろん後半は小声である。


「まあ、何と呼んでもらっても構いませんよ」


 フロラが軽く返すと、少女はバネ仕掛けの人形のようにピョンと起き上がった。


「よいのですか!? まぁ、こんな、無礼ばかり働いておりますのに……! 不思議な方ですのね、──お、お姉様は」


 頬を赤く染めて早口でお姉様呼びを敢行した少女は、嬉しそうにニッコリと微笑んだ。


「わたくしったら、自己紹介がまだでしたわ。ブランシュ伯爵家の娘、リリアン・ブランシュと申します」


「私はフロラと申します。ただ、フロラと」


 少女──リリアンは目を輝かせた。


「ゼルラント公爵のご婚約者様ですのよね! わたくし、お二人が入場されるのを見ておりましたの! 分かっておりますわ、お姉様のように気品に溢れたお方が平民などとはあり得ないことですから、何か特殊なご事情がおありなのですよね。わたくし何も聞きませんわ。

 公爵様と手を取り合って歩くお姿は、言葉で言い表せないほど素敵でいらっしゃいました。それに普段彫像のように無表情な公爵様があのように優しげに微笑まれて。本当に、みなが見惚れて──まるで宗教画のように後光が差して見えましたのよ!」


 怒涛のトークである。フロラは押し負けて目を白黒させた。


「後光、は、差してなかったはずですけど。あはは…。リリアン様は意外とお喋りなんですね」


「ぜひ呼び捨てでお願い致しますお姉様」


「いいのですか? それなら……、リリアン」


 そんなやり取りを遮るように、カツカツと間近でヒールを踏み鳴らす音がフロラ達の背後で立ち止まった。

 振り返れば、ワイン騒動の際にこちらを嫌な視線で観察していた──恐らくリリアンを転ばせた──女たちの団体が立っている。


 こうなってようやく真面目に向き合ってみると、人数は五人。全体的に派手なドレスを着ている令嬢ばかりなので、寄り集まって立っていると、まるでひとかたまりの大きな布のようだ。

 そんな率直な感想を抱いていると、そのうちの赤いドレスの女が代表のようにして前に進み出てきた。


「お話が聞こえたのですが、フロラ様と申す方。あなた、家名がないのですって?」


「ええ。ありません」


「まぁ、嘆かわしい。聞き間違いではなかったなんて。神聖な王城の夜会に身分も持たない下賤のものが紛れ込むとは」


「下賤」


 生まれてこのかた言われたことのない罵倒にきょとんとしてしまうフロラに代わり、リリアンが怒りを顕わにする。


「まあ、なんと無礼な──」


 しかし言い返そうと前に出たその肩は小刻みに震えている。無理もないだろう。これまでも先程のように嫌がらせをされていたのならそのトラウマは計り知れない。フロラは彼女の細い肩にそっと手を乗せた。


「リリアン、ありがとう。でも構いません。気にしないで、あちらに行きましょう?」


 自分一人ならともかく、共にいるリリアンを怯えさせるのは本意ではない。フロラが素早くその場を去ろうとすると、赤いドレスの女はより一層甲高い声を出した。


「ちょっと、無視なさるおつもり!?」


「私たちのことが気に入らないのなら、わざわざ話しかけずに無視してもらえませんか?」


「信じられませんわ。このような振る舞い、到底許されるものではなくてよ!」


 冷静に対応するフロラの様子が癇に障ったのか、怒りに震えた女が大きな声を出した。


「家名も持たない女が公爵家の婚約者に収まるなど、どのような破廉恥な手を使ったのかしら?」


「破廉恥、とはどのような?」


 正真正銘、疑問に思ったがゆえの問いかけだった。人間初心者のフロラは、女の指す"破廉恥"が具体的にどんなことなのか想像できなかったので。

 しかし女はその発言を挑発と受け取ったようで、余計に頭に血を昇らせたらしい。


「そのような質問──おやりになった方が一番分かっているのではなくて!?」


 ヒステリックに声を荒げる。


「まったく、ゼルラント公爵様にも失望しましたわ! 立派な殿方と思っておりましたのに、女の色香に騙されて家名に泥を塗られるなんて。どうかしていますわね! 貴族を率いる立場でありながら浅慮としか思えませんわ! こんな女でいいのならば、わたくしの方がずっと」


 パリン、と。至近距離でグラスが割れる音が響き、女は口をつぐんだ。


「──今」


 フロラは女に向けて、それはそれは美しく微笑みかける。

 女は戸惑った。これほどまでに罵倒した相手が自分に向かって笑みを浮かべる、その歪さ。言い知れぬ不安感。


「今、彼のことを侮辱しましたか?」


 一方フロラは、腹の内が燃えるように熱くなり、逆に心の芯が凍りつくように冷えていくのを感じていた。両極端な現象が同時に起こるというごく不思議な現象を自覚して、気付く。これは"怒り"であると。

 今フロラは、世界に生まれ落ちて初めて、怒りの感情を滾らせているのだ。


 付き合いは短くとも、アースは初めて人間界に来て右も左も分からないフロラを拾ってくれた恩人であり、形式上とはいえ婚約者の名を冠する家族であり、この世界を手の届く限り共に守ろうと決めたパートナーである。そんな彼を第三者が、言われもない言い掛かりで侮辱した。しかもフロラ自身を理由にして。

 制御し損ねた神力が空気を震わせれば、周囲のテーブルや天上のシャンデリアがカタカタと揺れ、連鎖するようにグラスが割れる。周りの人間が肌で異変を感じ取る中、とうとう女が手に持っていたグラスが、高い音を上げて砕け散った。


「きゃあ!」


「私は彼に」


 悲鳴を上げる女を無視して、フロラは静かに言葉を紡ぐ。


「私の隣に立つことを許しました」


 我に返った女は、「何を傲慢な……」と本能的に震える声を無理やり絞り出した。それを黙殺し、フロラはコツリと一歩、女に近づく。


「彼も私に、彼の隣に立つことを許しました」


 コツリ、また一歩。女はつい先ほどまで罵っていた相手の瞳に宿る冷たい光に気付き、言葉を失う。


「それ以外に誰の許可が必要ですか」


 コツリ。ゆっくりと距離を詰めるフロラに気圧された女が、喘ぐように唇を開閉し、よろめいて後ろに下がる。


「私と彼は、互いに認め合い、互いを尊重して関係を築いている」


 ──コツリ、コツリ。そうして間近に迫った女の顎に指をかけ、つ、と顔を上げさせる。もはや涙を滲ませたその目を、氷のような表情で覗き込み、耳元に吹き込む。ゆっくりと言い含めるように。


「私は、おまえの名も知らない」


 その荘厳たる威圧。周囲で成り行きを見守っていた、政界で数多の経験を積んでいる爵位持ちの男たちですら、無条件に跪き、許しを乞うてしまいそうなほどの圧迫感。

 そんなものに、甘やかされて育った貴族の令嬢が耐えられるはずもなかった。女は震え上がり、とうとう床にへたり込む。


 会場に混乱と動揺の波紋が広がる中、ふいにざわりと空気が動き、息を詰めていた人々の壁が慌てたように二つに割れた。


「さすがフロラ義姉上。念のためにと私が出した結婚許可証は、無用の長物だったようだね」


「陛下」


 あえて、なのだろう。呑気な調子で話しかけてくる今上陛下──イザークに、冷静を取り戻したフロラは淑女の礼を返す。


「家族で会う時のように、気軽に名で呼んでもらっても構わないが」


「このような場ですので、体面は保たせていただきたく」


 周囲を牽制する意図か、わざとフロラとの親しさを強調するイザークに丁重な断りを入れていると、彼を押し退けるようにして見慣れた姿が現れた。


「陛下、そのように割って入るのは、婚約者たる私の役割なのでは」


 もっと言うと、こうなった原因はくだらない理由で俺を呼んだおまえだから、静かにすっこんでいるといい。などといくら親戚とはいえあんまりな口調でイザークを切って捨てるアースの小声が、近くにいたフロラだけに聞こえた。


「アース」


「何がそんなに君を怒らせたのかは分からないが、すでに勝負は着いているようだな」


 アースは腰を抜かした女を、庭の雑草に向けるような興味のない一瞥でもって、イザークの横に控える衛兵に示した。


「その女を摘み出せ。夜会の場に不適切だ」


 女は絶望に目を見開く。


「そんな──公爵! 陛下!」


 叫び声を上げながら、女が会場の外に連れ出されていく。それをなんとなく視線で見送るフロラに、アースはそっと呟いた。


「君、売られた喧嘩は買う方なんだな」


「……ムシャクシャしたという理由で人間界に来たこともあります」


「一貫していると言えなくもないか。しかし一切声を荒げる事なく、威圧のみで相手を戦闘不能にするとは驚いた」


「すみません、騒ぎになってしまいましたね」


「いや」


 大人しくすると約束したのに……と反省するフロラに、アースは首を振ると、その肩を抱き寄せて耳元で囁いた。


「君はやはり──最高だ」


 愉快そうに笑うアースをまじまじと見て「何が最高…?」と首を傾げていると、ダンスホールに音楽がかかり始め、今までそこに立っていたはずのイザークがいつの間にやら壇上に移動している。


「皆、今夜はよく集まってくれた。存分に交流を深め、楽しんでいってくれ」


 王の口上を皮切りに、会場の多くの人がダンスを踊り始めるのを見て、フロラはアースの様子を伺った。


「ええと、とりあえず。……踊ってみます?」


「せっかく練習したからな」


 二人は気が抜けたように笑い合うと腕を組んでダンスホールに踏み出す。


 一連のやりとりをルビー色の瞳で一部始終視界に収めたリリアンは、うっとりと蕩ける笑顔で二人の後ろ姿に手を振った。

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