第4話 楽しむのも礼儀のうち

「アース・オルラリエ・ド・ゼルラント公爵、および婚約者のフロラ様、ご入場です!」


 紹介の声と共に、一組の男女が王城で最も立派なダンスホールの扉をくぐる。その瞬間、談笑を楽しむ声で溢れていた広間が、水を打ったように静まり返った。

 さらり、と。ささやかな衣擦れすら響くような静寂の中、人々はそこに豪奢な美貌の女性を見る。


 美しく結い上げられた黄金の髪がシャンデリアの光を反射して目映まばゆく煌めく。理知的で深みのあるエメラルドの瞳に宿るのは、周囲の者全てをかしずかせるような静かな威厳。

 細い腰に豊かな胸、陶器のように白く滑らかな肌。非の打ち所がないその肢体をひけらかすでもなく、たっぷりとドレープを取った真珠色のドレスで上品に包む様は、教典に描かれた至高の女神を思わせる。


 そんな彼女をエスコートする公爵もまた、怜悧れいりな美貌で有名な人物だ。彼が好む漆黒に、金糸で刺繍の入った礼服を隙なく纏う姿。

 それは相変わらず目を引くが、その身分ゆえあらゆる公式行事で目にする機会があるために、この夜会に集まるような上級貴族達にとって、その姿はある意味見慣れたもの──のはずだった。

 しかし出席者達は彼にもまた驚かされることになる。なぜなら普段の公爵は基本的に、無表情で目つきが悪い。そんな公爵が、今夜は楽しげに目を細め、唇に緩い笑みすら乗せているのだから。


 仲睦まじく何事か囁き合いながら連れ立って歩く様はまさに神話を切り取った一枚の絵画。誰もが声を失い、ただただ感嘆の息を漏らす。




 ***







「どうだフロラ、みんなが君に見惚れている気分は?」


「今ドレスの裾を踏まないように集中しているんで話しかけないでください」


 現在進行形で目を奪われている幾百の招待客たちは、当の二人がそんな会話をしているとは夢にも思わないだろう。

 今転んだら終わる。フロラはそれだけを考えてドレスの裾を凝視していた。

 その様が逆に、周囲からは伏し目がちに歩む慎み深い女性と見えているのだから結果的には僥倖だろう。


 今夜は立食形式の夜会だが、やはり貴族の序列により開始時の大まかな立ち位置は慣例として決まっている。

 公爵は会場の最も上座、玉座の近くに立つことを許されているため、二人は美しく飾り付けられた広間をそのまま奥まで進んでいく。途中で優秀な給仕からシャンパンを手渡されるというトラブルはあったものの、フロラは無事転ぶ事なく目当てのテーブルの近くに落ち着き、ほっと息をついた。


「もう話しかけても大丈夫ですよ」


 申し出ると、アースは何が面白かったのか、ふっと吹き出した。

 それを軽く睨みつつ、フロラは今はまだ空いている玉座を眺める。自分達はかなり最後の方に入場したから、普通であればまもなく王であるイザークが壇上に姿を現すはずだ。


 以前親しく話して、彼の王としてではない無邪気な姿を見てしまったせいか、それとも義姉上などと呼ばれてしまったせいか。弟の勇姿を楽しみにする姉のような気持ちでフロラは少しソワソワしていた。


「イザーク様はいつ頃来られるんですか?」


「まあ、当分来ないだろうな」


 え? とフロラが首を傾げると、アースは声を潜める。


「この夜会は貴族同士の親睦を深めることを目的とした皇室主催の定期夜会、と名目上はされているが、最近は裏の意図がある」


「不穏ですね。一体何があるっていうんです?」


「それは──イザークの妃探しだ」


 エバに教えてもらったやや偏った知識…社交界の陰謀やドロドロを想像して身構えていたフロラは、思わぬ言葉にパチクリと目を瞬く。


「イザーク様って十七歳でしたっけ」


「ああ。結婚が嫌で逃げ回っている」


「ええと、王族で十七歳になっても婚約者がいないのは、わりと遅めですよね?」


「あいつの事だからいずれ腹を括るだろうが、このままだとあと十年は気が向かないだろう」


 それなのに虎視眈々と妃の座を狙う令嬢達が国中から集まる夜会に出席必須とはお気の毒に。


「王様って大変なんですね」


 夜会を前に、まだ出たくないと駄々をこねるイザークを想像する。いや人前では威厳を保つ彼だから、しかつめらしく理由を並べ立ててのらりくらりと時間を稼いでいるかもしれない。

 どちらにしても当分は姿を現さないということだ。フロラは苦笑した。


 そんな事を話していると一組の男女がこちらへ歩み寄ってくる。


「ゼルラント公爵、お久しぶりでございます」


「ああ、モールド侯爵ご夫妻。どうも」


 アースのひと言を聞いて、フロラはエバの講義の記憶を思い返す。

 たしかアースのゼルラント公爵領と領地を接していて、互いの領地の特産物などもたくさん取引している良好な関係の家だったはずだ。

 老齢に差し掛かろうとするモールド侯爵夫妻の皺の刻まれた顔には、好意が滲んでいる。


「婚約者のフロラと申します」


 淑女の礼をすると、侯爵は温かい笑顔で頷いて、そっとフロラの手を取り紳士的に口付けた。優しそうなおじいさまの優雅な動作にちょっとキュンとしたのは秘密だ。侯爵夫人も、フロラを見て上品に微笑む。


「これほど素敵なお嬢さんをご紹介いただけるなんて、本当に驚きましたわ。差し出がましいことながら、あのままずっとお一人でおられるつもりかと案じておりましたの」


「ゼルラント公爵は独身主義かと思っておりましたが、理想が高かっただけなのですな」


(……私たちのは形式上の婚約なので、アースが独身主義なのは間違いないと思います)


 フロラは心の中で返答しておいた。

 性格は全く違うアースとイザークだが、両方結婚に前向きでないあたり、親戚同士似たところがあるのかもしれない。


「あとは陛下が無事王妃をお決めくだされば、我が国は安泰なのですがなぁ」


 案の定モールド侯爵はイザークの婚姻に言及する。

 何だかんだこれが貴族達の、一番の関心事ということだろう。イザークの嫌そうな顔を想像してしまい、フロラは軽く吹き出した。


「陛下の王妃様には、どんな方が良いと思われますか?」


 フロラは興味本位で聞いてみる。

 すると侯爵夫妻は各々、真剣な面持ちで悩み出した。


「そうですなぁ。若く優秀な我らが陛下のお相手ですからな。生半可な方というわけにはいきますまい。まず、家柄・教養はもちろんのこと人脈やノウハウも兼ね備え、堂々と政治や社交の場を率いられるような威厳ある方が望ましいかと」


「あらあなた、重要なことを忘れていてよ。麗しい私たちの陛下の隣に立つのですから、当然、美貌もお持ちでないとね。そうだわ、ちょうどフロラ様くらいの美しさでしたら大歓迎ですわね」


 女神級か、とアースが小声でツッコミを入れている。


「うーむ、それから語学力と外交手腕」


「トレンドを先導するセンスと才覚も」


 やんややんやと条件を追加する二人に、フロラは微笑ましい気持ちになった。イザークが臣下から愛されているようで何よりだ。


 そうしてしばらく会話を交わしているうち、フロラはふと、モールド侯爵が何度も軸足を変えていることに気付く。


「脚がお疲れですか?」


「ああ、お恥ずかしい……。歳でね。最近、長いこと立っていると膝が痛むようになってしまったのです」


「それはお辛いでしょうに」


 夜会はまだ始まったばかりだ。今からその状態ではこれから大変だろう。気丈に笑ってみせるモールド公爵に胸が痛む。


「慣れておりますから」


 さらに、こちらを心配させないようそんな風に言われれば、フロラは余計に居ても立ってもいられなくなってしまった。

 初めての夜会であまり目立ち過ぎてはよくないとエバから言われていたけれど。でも。


「ああ、話し過ぎてしまいましたな。私たちはそろそろ」


「待ってください!」


 去ろうとするモールド侯爵を、とっさにフロラは呼び止めてしまった。おい、とアースが小声で嗜めてくるけれど、やっぱり、してあげられることがあるのに隠して黙っていることなんてできない。


「実は私、治癒魔法が使えるんです。少しだけ膝に触れても構いませんか」


 本当は魔法ではなく神力だが。驚いたように目を丸くする侯爵に断って、そっと跪く。ふわり、と真珠色のドレスの裾が、王城の磨き抜かれたフロアに花のように広がった。侯爵の膝に手をかざし、痛みが良くなるように願いを込めてゆっくりと神力を流す。

 手のひらから溢れる神力が虹色の光を放ち、患部を癒していく。それはほんの数秒の出来事だった。

 幻のように美しい光景に見惚れて呆然としていた侯爵は、その光が膝に吸い込まれて消えた瞬間、驚きに目を瞠った。


「──なんと! 痛みが一気に引きました!」


「まぁあなた、本当ですか!?」


 侯爵夫人は夫が何度も頷くのを見ると、次の瞬間フロラの身体をぎゅうと抱きしめた。


「夫のために素晴らしい才能を惜しげなく使ってくださって、ありがとう。これからあなたに何か困ったことがあれば、お手伝いしますから気兼ねなく声をかけてくださいね」


 熱心に感謝を告げながら去っていくモールド侯爵夫妻を、軽い会釈と共に見送る。誰かに抱きしめられたのは生まれて初めてかもしれない。役に立てたのなら良かった。心の底がほんのり温かくなる。

 横で黙って成り行きを見守っていたアースが少し眉を顰め、声を落として囁く。


「慈しみ深いのは君の美点だが、正体をバラしたくなければあまりやりすぎるなよ」


「大丈夫。あの程度なら気付かれませんよ」


 じっとりと見てくるアースの視線を躱して辺りを見回すと、会場のそこここに王城の料理人達が威信をかけて腕を振るったであろう料理が美しく盛られている。

 その種類は前菜からメイン料理、宝石のようにきらめくデザートまで多種多様。フロラは完全にそちらへ気を取られた。


「これは味わっておかないと食材と料理人に失礼というものよね」


 イザークは当分出て来ないだろうから時間はたっぷりある。人間界最高峰の食を楽しむ機会を逃す手はない。

 ウキウキと料理に向かって歩き出すフロラを、アースはため息で見送った。


「……まあ、君が楽しめているのなら良い」


 何だかんだでアースはフロラに甘いのだ。

 天上界にはなかった素晴らしい食文化を思う存分堪能すべく気合を入れる彼女を止める者はいない。夜会はまだ始まったばかりだ。

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