挿話 ある日の晩餐
私はジェンキンス。この広大なゼルラント公爵邸を取り仕切る、執事長を務めさせていただいております。
ちなみに孫のジュドはゼルラント公爵であるアース様の侍従、息子は別邸の執事として出張中。現役で三代揃ってゼルラント家に尽しているのが、年老いた私の誇りでございます。
そんな私が魂を捧げるアース様に先月、目出たくご婚約者様ができました。名前をフロラ様。
綺羅星の如く当家に現れ、翌日には陛下の婚約許可証を付与された、謎多き女性です。
そんな彼女とアース様のご様子を、今日はお伝えしたいと思います。
「今日は来たのか、フロラ」
「ええ。来なければ拗ねると、先日どこぞの婚約者様が宣言していたので」
本日の晩餐の場で始めに交わされた会話です。この時点で、私の胸中は新鮮な驚きに満ち溢れました。
まず、フロラ様に声をかけるアース様の表情。普段は表情筋が退化したのかと心配になるほど、無表情か不機嫌しか表現なさらないアース様のお顔が、薄らと笑みを浮かべているではありませんか。
さらにフロラ様の発言。夕食を共に摂りたいという趣旨のことをアース様が強請ったというのです。
アース様は元来、無駄話が嫌いで食事中は静寂を愛する方。そのアース様が他人に同じ食卓につくよう強請るなど、つい先日フロラ様が現れるまでは絶対にあり得なかったことです。去年の私にこんなことが起こったと告げても全く信じないに違いありません。
そんなこんなで胸中に感動の嵐を吹き荒れさせる私をよそに、本日の晩餐が始まりました。
「今日の晩餐も楽しみですね」
ワクワクしているフロラ様を見て、アース様がこちらを振り返ります。
「ジェンキンス、今日のメニューは?」
「本日はサーモンのマリネ、ラディッシュのポタージュ、新鮮な大海老のロブスター、仔羊のロースト…パンはフロラ様のお好きな甘いバターパンで、デザートにはチョコレートのテリーヌを用意してございます」
料理長に確認していたメニューを告げると、フロラ様は嬉しそうに目を輝かせました。
「わぁ、美味しそう! アースに晩餐に誘ってもらって良かったです。私、何かに夢中になるとすぐ食事を忘れてしまうんですけど、こんなに素晴らしい食事を食べ損ねるのは勿体無いですよね。
──ジェンキンス、料理長にもいつもありがとうと伝えてもらえる?」
「かしこまりました」
第一印象ではその美しさ上品さに加え、その威厳から、近寄りがたい方なのかと思ったものです。しかし少し接してみると、気取らずお可愛らしい性格をされていることが分かりました。さらには下の者への気遣いもきちんとできる方なのです。
こういう瞬間に、フロラ様の素晴らしさを痛感致します。
「ところでジェンキンス、せっかく美味しい食事なんだからあなたも一緒に座って食べたらどう?」
「いえ、いえ! 私は猫舌なので冷めた食事を食すのが好きなのです! お気遣いなく!」
フロラ様の発言を聞いた瞬間、楽しげに笑みを浮かべていたアース様の表情がいつもの不機嫌なものに戻りました。
行き過ぎたお気遣いはいけませんフロラ様! アース様は、フロラ様とお二人でお食事をなさりたいのです!
「猫舌? まぁ、猫舌は遺伝なのね。以前ジュドも同じことを言っていたわ」
もちろん私もジュドも猫舌などではありませんよ──とは言わず、軽く頭を下げることで視線を逸らす。
そうしてお二人は食事を始めました。
そうそう、食卓に使われているこのテーブルも、フロラ様の影響で用意された特別なものなのですよ。
それまで、この食堂に置かれていたテーブルは、お客様を呼んで晩餐会を開くこともできるような、十人掛けの大きなものでした。
ところがちょうどフロラ様が来られてすぐの頃、初めてアース様と晩餐を共にされるフロラ様が、マナーに則ってアース様が座られているのと逆の端にお座りになったのです。
するとどうでしょう。あんなにも頑丈だったテーブルの脚が偶然、その翌日にポッキリと折れたのです。アース様は、壊れたものは仕方ないとおっしゃり、代わりに今ある小ぶりな丸テーブルを置くように命じられました。
なぜあのテーブルの脚が折れたのか──などと野暮なことは追求しますまい。年季の入った執事たるもの、主人のなさることに余計な口は出さないものです。
そういうわけでお二人は、貴族の晩餐にしては異例の近距離で、会話を楽しみながら食事をなさるのが習慣になりました。
「それでね。私の部屋のバルコニーから下を見ると、いつも同じ猫が日向ぼっこをしているんです。薄茶に濃茶の縞模様が入った可愛らしい猫で。この屋敷に住み着いているんでしょうね」
「ほう。それは知らなかったな。実際に見てみたいものだ」
「あなたの屋敷なのに知らなかったんですか? 今度見せてあげますから私の部屋に来てみてください。本当に可愛いんですから」
「それは楽しみだ」
おっと、我が主人が婚約者の部屋に入室する権利を得たようですよ。動物が好きという話は聞いたことがありませんから、楽しみにしているのは猫ではなくお部屋を訪問することの方なのでしょうね。
アース様はご機嫌でロブスターにナイフを入れていらっしゃいます。
そんな調子で、晩餐の時間は和気藹々と流れていきます。
その間フロラ様はずっとアース様に話しかけていらっしゃり、フロラ様限定で聴き上手なアース様も、穏やかな様子で相槌を打たれるので、会話が途切れることはありません。
食べることが大好きなフロラ様は時間とともに、前菜・スープ・魚料理・肉料理と残すことなく平らげていき、最後に幸せそうな顔でチョコレートのテリーヌにフォークを刺しました。
「あ。そういえば」
食後の紅茶を提供したメイドがついでに注ぎ足した水差しを見て、思い出したようにフロラ様が声を上げます。
「昨日エバが言ったんです。あの特別な水を瓶詰めして売ったらいくらになるんでしょうか、って。アースはどう思います?」
あの水には本当に驚きました。フロラ様は実に気軽な様子で屋敷の使用人たちに配って回っておられましたが、飲んだ瞬間に身体に力が漲るような心地がしたのですから。
フロラ様いわく、「少し魔力を込めてみただけだから! 喉が渇いたらどんどん飲んでね」とのことでしたが、あれは本来あのような雑な扱いをして良い代物ではございません。薬よりもはるかに即効性が高く、効能も良いのです。扱い方によってはあれだけでひと財産築けることでしょう。
アース様も同じ考えだったようで、今までの会話とは違って少し考え込む様子でお答えになっています。
「あの水は──下手な薬よりもずっと高く売れるだろうな。しかも元手はただの水と瓶と君の魔力のみだ。投資すれば成功率は十割だろう」
「やってみたいですか?」
「それをすると君はこの屋敷で水の入った瓶に魔力を注ぐ作業を永遠に繰り返す羽目になるがいいのか?」
「ダメですね。やめておきましょう」
フロラ様はぶんぶんと首を横に振っています。ひと財産の話は一瞬で無くなりました。
「公爵家の財産は潤沢だから、そんな事で稼がずとも大丈夫だ」
アース様がそう仰って苦笑したところで、食堂の扉が外から押し開かれ、孫のジュドが入ってきます。
「お食事中に申し訳ございません。アース様、そろそろお時間が」
「……もうそんな時間か?」
去りがたそうにするアース様に、フロラ様はあっさりと手を振ります。
「公爵の仕事って本当に忙しいですよね。デザートもゆっくり食べられないなんて。行ってらっしゃい頑張って」
ああ、駄目ですフロラ様! そのように興味がなさそうにしては。少しくらい引き留める素振りを見せて差し上げるべきなのに。
そんなことを考えていると、案の定アース様は納得できなかったのか、不満げに眉を寄せています。
そして少し首を傾げた後、何を思ったのかおもむろにフロラ様の頬へ顔を寄せました。
「な、なななな、なにを!?」
ガタガタ! と大きな音を立ててフロラ様が席を立ち、アース様と反対方向に後退ります。その顔は真っ赤に染まっていて、手で頬、それもかなり唇に近い所を覆っています。
この立ち位置からだと決定的な瞬間は見えませんでしたが、アース様が何をなさったかはだいたい想像できるというものです。ごほん。若さとは素晴らしいものですな。
「チョコレートが付いてた──甘いな」
悪戯成功とばかりにアース様は唇を舐めています。
「そっ、そういうのはマナー違反だって本で読みました!!」
「その本では婚約者との間のマナーについて触れられていたのか?」
「そ、それはっ! でもここここんなっ」
フロラ様が叫ぶように抗議しています。そんなフロラ様に、アース様はわざとらしく片眉を上げて見せました。
「さっき頑張れと言ってくれただろう? デザートもゆっくり食べられない俺を憐れんでくれたよな? ──今のデザートのおかげで頑張れそうだ。じゃあな」
ハハハ、と珍しく声を出して笑いながら、アース様は部屋を去っていきました。あとには真っ赤なまま涙目で沈黙するフロラ様と私だけが残されます。
……本当に、感慨深いものです。ずっと独り身でおられるつもりなのだと諦めていたアース様に、こんなにも可愛がれる婚約者ができるとは。
もちろん私は知っております。お二人のご婚約が形式上のものであるということを。
お二人ともお互いを憎からず思っているのは傍目に見ても明らか。それにも関わらず、実際にいまだ恋人同士には至っていないご様子です。
フロラ様には何やら特別なご事情がおありのようですから、その辺りもお二人の関係性が今一歩のところで進まない原因のうちの一つであるのかもしれません。
ですが遠くない未来、お二人はきっと本当のご婚約者になられるだろうと、私は思うのです。
──不肖ジェンキンス。そんな日が来ることを楽しみに、今後も誠心誠意お二人にお仕えさせていただきます。
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