第2話 流された気もする
人間界に降臨した翌日の昼下がり。フロラレーテ──もといフロラは、着飾って馬車の中にいた。
その首にあった痛々しい傷は、すでに跡形もなく消えている。というのも、自分の傷でも自分で治癒を施せば治すことができるのでは? ということにあの後気付いてやってみたら、案の定成功したのだ。
生まれて初めて負った怪我だったので、その発想に至るのに時間がかかった。おかげで無駄に長時間痛い思いをしてしまったのは……まあそれも学びというものだろう。
そんなこんなで無事傷を治したフロラは、首元が華やかに開いたデイドレスを問題なく身に纏い、外出することができたのだった。
「ええと、復習すると……この国の名前はオルラリエ。陛下のお名前はイザーク様。歩くときはアースの腕に軽く掴まるように腕を組んで、背筋を伸ばして静かに進む。ドレスの裾を踏まない。謁見の間に入ったら視線は伏し目がちにして、陛下を真っ直ぐ見るのは禁止。
部屋の中程で立ち止まってお辞儀。名乗って、台詞"オルラリエの太陽にご挨拶申し上げます"でさらに深くお辞儀。陛下から指示があるまでは頭を上げない。話の内容は陛下やアースのことを話すんじゃなくてあくまで自分を対象とした言い方で」
限られた半日という時間の中でアースから聞き出した王との謁見の作法を、ぶつぶつと頭に叩き込む。
そう、謁見。展開が早くてフロラ自身驚いているが、この馬車が向かう先は王城で、今から国王に挨拶をするのだ。
フロラの正体は原則伏せると決めたが、もちろん王は数少ない例外にあたる。女神の降臨という一大事をアースの甥でもある王に報告しないわけもなく、アースが朝一番に王城に手紙を送り、その日の午後には謁見の予定が組まれてしまった。
忙しいだろうにこの国の王様はたいそう仕事が早いのだな、というのはフロラの素朴な感想である。
「──で、謁見が終わったら最後に一礼して台詞"オルラリエの太陽に神のご加護がありますように"……さすがに自分で言うのは違和感があるわね。何とかならないのかしら」
そんなフロラをまじまじと眺めていたアースがポツリと呟く。
「……性格だろうな」
「え? なにか間違っていましたか間違っていたなら指摘してください」
「いや。ただ神から見れば、人間が勝手に作ったようなマナーに価値を感じるのは難しいだろうに、なぜそれほど一生懸命になれるのかと不思議になっただけだ」
「ええ? 神をなんだと思っているんですか」
フロラは心底嫌な顔をしてしまった。
「人間の文化は神にも創れぬ素晴らしい至宝ですよ。世界の安寧を保つためにこんなにも詳細な規範を練り上げるなんて、人間という種に対する尊敬の念に絶えません。人間の身体で生きる以上、当然私も規範を守らなくては。──で、さっきの合っていました?」
「安心してくれ。完璧だったよ」
その言葉にフロラは安心して胸を撫で下ろした。が、次の瞬間、もうひとつやりたい事を思い出してアースに真剣な眼差しを向ける。
「馬車から降りたらもう一回だけお辞儀の練習をさせてください」
「ああ。好きなだけやってくれ」
***
王城の控え室で散々お辞儀を復習したフロラは、満を持して謁見室の扉の前に立っていた。もちろん、打ち合わせ通りにアースと腕を組むことも忘れてはいない。
物々しい謁見室の扉を、これまた物々しく守る二人の兵士と半ば向かい合うように立ちながら、謁見室に入ったら目を伏せることは勉強したけれど、謁見室の外ではどの辺りを見ておけばいいのだろうとフロラは考えていた。
知らないもの同士お互いペアになって黙って向き合っているというのはなかなかに気詰まりだが、そう感じているのは自分だけなのだろうか。
平然としているアースをちろりと盗み見れば……どこを見ているんだろうこれは? 兵士の頭の横にある扉の唐草模様あたりだろうか。
自分もそうしようなどと埒もないことを考えている間に、室内から合図があり、目の前の兵士が厳かに扉を開けた。
背筋を伸ばして静かに歩く。ドレスの裾を踏まない。視線は伏し目がちに。
それだけを意識して謁見室を奥に向かって歩くと、アースがぴたりと立ち止まったので慌てて一緒に立ち止まる。イメージトレーニングよりも謁見室がややコンパクトだった。そして、一礼。まずはアースが挨拶を述べる。
「アース・オルラリエ・ド・ゼルラントがオルラリエの太陽にご挨拶申し上げます」
アースってそんな名前だったのねと今さら知りつつも次は自分の番、と口を開きかけた瞬間に、王がよく通る声を発した。
「みな、表に出るように」
そのひと言で、その場にいた王の側近や護衛兵士までも、全ての人間が部屋を出ていった。
(これは想定外の展開ね……)
フロラは内心慌てる。王が言葉を発したあとに挨拶をするのは変ではなかろうか。とはいえ何も言わないのも……などと思考して頭を下げたまま固まるフロラの横で、アースがわざとらしいため息をついた。
「こら、イザーク。虐めるんじゃない」
「ええ? だってこちらの女神様は昨日人間界に来られたばかりなんだろ? 人間のマナーなんてご存知のはずがないと思って」
慌てたように弁明するオルラリエの若き王──アースの甥にあたる人物。まだ少年と言っても差し支えないような年頃の王は、事前に聞いていた通りアースと気の置けない関係性のようだ。
ぽんぽんと交わされる会話に、もうマナーも何もあったものではないが、かえって開き直ったフロラは悔し紛れに予定通りの挨拶を告げることにした。
「女神・フロラレーテ、人の名でフロラと申します。オルラリエの太陽にご挨拶申し上げます」
優雅さを意識しつつ丁寧にお辞儀。
「ほら、練習してたんだ。完璧だろう」
アースがイザークを軽く睨むと、イザークはもはやつけていた王冠を外してぐちゃぐちゃと頭を掻きむしった。
「ああー。フロラ嬢、申し訳ない。というか女神様だと思うと本当に違和感がものすごくて、できれば今すぐ跪かせていただきたいのですが、本当に許されないのですか?」
「わたくしはすでに人の身でございますので」
「最初の言葉遣いにしろ」
二人から圧をかけられ、イザークは王座に座ったまま撃沈した。
「じゃあせめて! せめてフロラ嬢も私に普通に話してくれないか? 人払いをしたし、アース叔父上とも人目がないところではこんな感じで接してるんだ。だからせめて! どうか!」
縋り付くような目でお願いされれば、フロラには特に拒む理由もなく。
「分かりました。陛下が気にされないのであれば、そうします」
そのひと言でパァっと表情を明るくしたイザークは、途端に立ち直って二人の背中を押した。
「じゃあ早速! 隣の部屋にお茶を用意させてるんだ。家族でティータイムにしよう!」
家族? と思った時には滑らかに椅子へとエスコートされ、美しいカップに紅茶をサーブされていた。テーブルには目にも楽しい色とりどりの菓子たち。
叔父のアースではなく、あえてフロラの正面に着席したイザークがいい笑顔で書類を取り出す。
「これが婚約許可証」
頑張って急いで用意したんだから失くさないでくれよ、とイザークは軽い感じでアースに手渡した。
「これでフロラ嬢が私の叔母さんになるわけだな。めでたい!」
そう言って満足気に笑うイザークに、フロラは慌てる。
「ちょっと待ってください! 婚約は形式上なんですよね?」
確か昨日はそういう話だった。急に求婚されて驚いたけれど、とりあえず婚約者ということにしておけば、周囲に違和感なく行動を共にしやすいから、と。
「ねえ、アース、わざわざ許可証までいただかなくてもいいんじゃないですか」
信じられない気持ちで言い募れば、当の本人は素知らぬ顔で書類を胸ポケットに仕舞っている。
「男女が一緒に暮らして、しかも事件があれば一緒に旅までするんだ。形式上でも──いや、形式上だからこそ、こういったことはきちんとしておかないとな」
「そ、そういうものです……?」
戸惑うフロラを、イザークが真正面からニコニコと眺めている。二人共がそういう認識なら、そうなのだろうか。
「君は現在、身元不明・住所不定・無職だが」
「言い方!!」
フロラが耐えきれずにツッコミを入れるのを流して、アースは滔々と続ける。
「この婚姻許可証があれば話は別だ。君がどこの誰だろうと、陛下が俺との結婚を許した以上は、なにか深い訳があって身分は伏せられているだけでこの人は良家の子女なんだと周りは想像する。君は社交界でも俺の領地でも仕事し放題」
見ていたイザークが、すげぇ、無愛想で定評のある叔父上がめっちゃくちゃ喋ってる……と唖然と呟く。
フロラが、アースってそうなの!? と一瞬そちらに気を取られたのを引き戻すように、アースは恭しくひと筋、フロラの金の髪を持ち上げた。
まるで相手を洗脳しようとでもするかのように、真っ直ぐにフロラと視線を合わせるアースの漆黒の瞳。フロラはその不思議な視線に絡め取られ、目を離せなくなった。
「もう一度言う。この許可証があればどこでも仕事し放題。どうだ?」
「それなら、まぁ……」
気付けば承諾っぽいことを口走っていた。待ってましたとばかりにイザークが拍手する。
「形式上でも書面を交わしたからには、私たちは家族のようなものだ! よろしく、フロラ義姉上。……正確には義理の叔母上だけど、私たちはそれほど歳が離れていないようだから義姉上と呼ばせてもらうよ!」
そう言って嬉しそうにするイザークに半ば絆され、まぁいいか…と考えてフロラはお茶をひと口飲む。
(美味しい!)
驚きに目を見張るフロラに、アースが笑う。
「紅茶が好きなのか? それなら君はきっと甘党だな。このケーキも試してみるといい。それからこの焼菓子も」
フロラの手の届かないところにあった菓子まで引き寄せてくる。
「ええ? まあ、ご丁寧に。ありがとうございます」
「せっかくこんな所まで来たんだ。たくさん食べてくれ」
イザークは、王の前で城のこと"こんな所"って言っちゃうのどうかと思う、などとコメントしながらも、相変わらずニコニコとフロラを見ている。
(形式上の叔母がそんなにも嬉しいものかしら?)
疑問に思いながらも、人間界の食の素晴らしさに気を取られ、フロラはお腹一杯になるまで最上級の甘味を楽しんだ。
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