第1話 突然すぎませんか

 一番印象的なのは、夜闇を閉じ込めたような漆黒の髪と瞳だった。


「何者だ?」


 唸るように問いかける男は、漆黒の瞳に鋭い威圧を宿らせている。まるで獲物を狩ろうとするしなやかな獣のようだ。

 その手の剣は牙。フロラレーテが明確な答えを返さなければ、彼の牙が瞬く間に喉元を食いちぎるだろう。


 恐怖に縮こまってもおかしくはない状況だが、フロラレーテは一歩も怯まずに堂々と微笑んでみせた。だって、怯む必要がない。


「私は、フロラレーテ。この世界を守護する女神


 たじろぐ男から一寸も目を逸らすことなく、その背中に隠された神の証を解放する。


 全身が粟立つような凄まじい神気がその場に渦巻く。そして次の瞬間、小さな泉などいとも簡単に覆い尽くしてしまうほどの荘厳な翼が、フロラレーテの背からその姿を現した。

 聖なる光の粒子が、羽根の一枚一枚から立ち昇っては虹色の雫となって弾ける。光を受けたもの全てを捻じ伏せ、跪かせ、浄化し尽くす。それは理不尽で暴力的なまでの、神の証。


 男は信じられないとばかりに息を呑むと、慎重な手つきでフロラレーテの首から剣を離した。それからほとんどの人間がそうするように自然とその場に跪こうとした。フロラレーテは一気に慌てる。


「やめてください!」


 フロラレーテは役割を終えた翼を急いで仕舞うと、すかさず男の動作を押しとどめる。


「この身はすでに人間の身体を受肉しました。私はこれから人間として生きるつもりです。だから跪くのはやめてください!」


 男の瞳を覗き込むようにして言い募れば、男は理解し難いようで、難しげに眉を顰めた。


「許されるのであれば、何故人間界に降臨なさったのか、その御心をお聞かせいただく栄誉を──」


「敬語もやめてください。何故このような行動に至ったかというと、そうですね……」


 フロラレーテは少し俯くと、無数に存在する理由の中から一番の物を突き詰めようとする。


(世界を救うため? ……そんな大層な理由ではないわ。人間界を見てみたくて? ……これもちょっと違う)


 うんうんと考えた結果、脳内でこれというものが弾き出されると、フロラレーテはすっきりとした気持ちで顔を上げた。


「ムシャクシャしてやりました。後悔はしていません」


 この世のものとは思えないほどの美貌に浮かぶのは、艶やかで軽やかな微笑み。

 男が、あり得ないものを見る目でフロラレーテを凝視した。




 ***







 泉で出会った人間──アースと名乗る男に導かれて、現在フロラレーテは彼の屋敷に向かっている。濡れそぼった身体をふるりと震わせたらアースが目ざとく気付いて、落ち着いて話をするために自分の屋敷に来るべきだと提案したからだ。

 寒いし行くあてもない中、一晩だけでも室内で温まれるのはとても魅力的だった。


「ふぅん。立派なお家に住んでいるんですね」


「ああ。これでもそこそこの身分は持っているからな」


 十五分くらい歩いたところで進行方向に見えてきた立派な屋敷に、フロラレーテは感心する。

 夜なのではっきりとは見えないが、屋敷の右端と左端がいっぺんに視界に収まらないくらい大きいのは確かだ。白い壁が月光を受けてぼんやりと浮き上がっていて、いったい何部屋あるのか、たくさんの窓からキラキラと明かりが漏れている。


「ちなみにこれは母家で、離れが三つある。あと君が現れた泉も我が家の敷地内だ」


 そんなに広くする必要があるんだろうか。ととっさにフロラレーテは思った。人間の偉い人ってすごい。


「それにしても、自分から申し出ておいてなんですけど、よく一瞬で態度を切り替えられますよね。先程一瞬示してくれた敬意は本物だったというのに、器用というかなんというか」


「他でもない女神様の言いつけだったので従ったまでだが──やはり敬語でお話し奉りましょうか? 偉大なる女神様におかれましては」


「嘘です冗談ですやめてください。今の私はしがない人間なので。身分もあなたが上なので」


「女神にこちらが上と言われるのは妙な気分だな」


 軽口を叩き合っている間に大きな玄関ホールが近づいてきたので、そこから入るのかと思ったら、アースは直前で右に曲がった。


「どうしたんですか?」


「……色々と説明が面倒だ」


 アースはふいと目を逸らした。たしかに濡れそぼった女性(しかも明らかに刃物でできた首の傷から出血している)と二人で家に帰ったら、説明はややこしくなるだろう。フロラレーテは納得し、いかにも暖かそうな玄関ホールを眺めつつ素通りする。

 そしてさらに歩き続けること五分。ようやくアースが立ち止まったのは一つの窓の前だった。


「窓から入るんです?」


「ああ。ちなみに目の前の窓じゃなくて、上の窓だ。あと翼は目立ちすぎるので使用しないでもらえると有難いんだが──木登りはできるか?」


 示された立派な木を見て、フロラレーテは真顔になった。


「できると思いましたか?」


「失礼。抱えても?」


「……許可します。家に招いていただく身ですから、仕方なくですからね」


 フロラレーテは渋々、アースの首に腕を回す。次の瞬間には軽々抱え上げられて、ぐんぐんと木を登っていった。

 器用に木の枝を伝ったと思えば、すとんとバルコニーに降ろされる。


「ようこそ我が家へ」


「ご招待感謝します」


 芝居がかったやり取りをしながら連れ立って室内に入ると、誰もいないと思っていた部屋の隅からパリンと音がして、アースが苦虫を噛み潰したような顔をした。


「な、な、な──」


 音がした方に目をやれば、赤色の髪を一つに束ね眼鏡とスーツを身につけたひょろりと背の高い青年が、持っていたらしいティーセットを取り落としてこちらを凝視していた。


「全身ずぶ濡れの美女! 首からの出血! アース様、なんて事を。これはひどい。今までで一番ひどい!

 女遊びはほどほどにと常日頃から申し上げているのに、どんな趣向に目覚めればこんな有様に!? これでは巷で密やかに噂される、エスエムぶほっ!」


 青年が何かを言いかけて昏倒する。近くに落ちているのはきちんと鞘に収まっているアースの剣。どうやらそれが目にも留まらぬ速度で投擲され、青年に命中したらしい。

 フロラレーテは倒れた青年と剣をまじまじと見比べたあと、アースに視線を戻した。


「女遊び」


「反芻するんじゃない」


「エスエムって」


「知らなくていい」


 目を回していた青年がハッと身を起こすと同時にアースが唸る。


「ジュド」


「はい!」


「風呂に湯を沸かして下がれ」


「はいっ!」


 ジュドと呼ばれた青年は、ピャッと立ち上がると隣室に駆けていった。






 初めての入浴に四苦八苦しつつもその心地良さを存分に堪能したフロラレーテは、いつの間にか用意されていた着心地の良い部屋着に着替えて浴室を出た。

 最初の部屋に戻ると、アースはソファに腰掛けて何かの書類に目を通している。伏し目がちな目を覆う長いまつ毛。すっと通った鼻筋。その横顔は、神族だと言われても納得してしまうほどに整っていて、俯いているせいで額にかかる黒髪すら、彼の独特の色気を引き立ててている。


 先程ジュドという青年が、アースの女遊びがどうとか叫んでいたが、それも頷けるわとフロラレーテは思った。

 まじまじと観察していると彼の視線が上がり、伏せられていた瞳が正面からフロラレーテを捉える。


「温まったか?」


「ええ、はい」


「それは良かった。じゃあ、君について聞かせてもらおうか」


 詳しく、と言い添えてアースは念押すような視線を寄越した。フロラレーテがその視線を正面から受け止めて向かいのソファに腰掛けると、アースは机の端にあった水差しからグラスに水を注ぎ、フロラレーテの前に置く。どうやら長期戦前提らしい。


「何から聞きたいですか?」


「とりあえずは、あそこに現れた経緯と目的から頼む」


 アースの返答に、フロラレーテは了承を返した。

 初対面の人間にあれこれ話しすぎるのはリスクがあるが、ここまで会話した印象から、彼になら話しても悪いことにはならないだろうと自分の勘を信じることにする。


(……最悪、不利益がありそうなら記憶を無くすほど神力でボコボコにして逃げれば良いわ)


 不穏なことを考えていると、少し顔に出てしまっていたのかアースが胡乱げに眉を寄せた。フロラレーテはごほん、と一つ咳払いをする。


「ではまず前提から。神族というのは、自分が司る世界を一人ひとつ持っていて、それを守るために生まれ、それを守りながら永い時間を天上界で過ごします」


「なら君は何歳なんだ?」


「私は、おそらく二十五、六歳だと思います。先代の神から代替わりして間もないなので。神族としては生まれたての部類ですね」


「なるほど。では生まれてから今までどんな事を?」


「代替わりのときは世界の均衡が乱れるので、それを元に戻したり、他の世界担当の神から回ってくる膨大な量の書類を捌いたりと、そこそこ忙しく過ごしていました」


「ふむ」


「去年までかけて世界の均衡を戻したんですけど……ただ、それ以降は私が存在しているだけで世界は勝手に栄えていくので、手がかからなくなります。時折この世界を眺めながら、書類を捌いて、眠って。その繰り返しでした」


 空虚な一年間を思い出して、フロラレーテは息をつく。あのままだとあれが今後数千年続くことが確定していたのだ。


「では、それが嫌で人間界へ?」


 フロラレーテは曖昧に首を傾げる。


「半分正解、半分不正解ですかね。あの仕事自体が嫌という訳ではありませんでした。むしろ仕事は好きな方なんです。自分のやっていることが、人間界のためになっていると思えばやりがいも無いわけではなかったし。

 ただあまりにも、私には自分が司るこの世界を知る機会がなかった。知ることさえできれば。もっと近付ければ。学ぶことができれば。他にもたくさんできることがあるはずなのにって。現場を知らずして何が神なんだ! って、そう思っただけです」


「急にやり手の領主みたいな発想になったな」


「領主! そう、領主です!」


 フロラレーテは我が意を得たりと身を乗り出した。


「私はこの広大な人間界を束ねる領主なんです! もっと知らなければならないと思いました。私の世界を。人間を。それに」


 フロラレーテはキュッと唇を噛む。


「天上界からでは、世界の均衡を保つことはできても、一人ひとりを救うことはできない」


 人間界には飢饉がある。災害がある。搾取がある。それが見えているのに、天上界からでは何もできない。

 くだらない書類を作成して、印を押して、他の神に回すだけ。そんなことで本当に、この世界を守っていると言えるだろうか。


「なにか手助けしたいと思ったんです。この手で……」


 そう言って黙り込めば、アースはフロラレーテの表情をじっと見つめた後、納得したように頷いた。


「なるほど。つまり君は神であるにも関わらず現場主義で、わざわざ人間界に来て人間になってまで忙しく仕事をして暮らしたいというわけだな」


 その言い方だと何だか私が救いようのない仕事中毒みたいでは? と抗議したいような気もしたが、解釈は間違っていない。フロラレーテは不承不承ながらも肯定した。

 するとアースは少し考えてから、それなら、と口を開いた。


「俺が力になれるかもしれない」


「あなたが?」


「ああ。自己紹介がまだだったな。俺はこの人間界の大国・オルラリエの国王の叔父であり、広大な領地を持つ公爵であり、皇帝直属の騎士団を束ねる団長だ。この国に異変が起これば全て俺の耳に入り、重要な場合は直接出向く。

 俺が君に情報提供するとして……君がもし、特殊な能力かなにかで仕事を手伝ってくれるのならば、それは俺にとっても大きな助けになるだろう」


「それは──私にとってもすごく理想的です」


 願ってもない状況に、フロラレーテは瞬く。

 アースから情報を共有してもらい、共に動くことができれば、それはフロラレーテがしたかったことを今考えうる限りで最も早く実現することに繋がるだろう。

 いくら元が神とはいえ、今は人間の身体。自分の身一つでできることには限界があることを、フロラレーテはきちんと分かっていた。

 身を乗り出すフロラレーテを見て、ただし、とアースは続けた。


「そうは言っても君をやみくもに連れ回すわけにはいかない。俺の行く先にはたいてい危険が伴うからだ。君には、何ができる?」


「なるほど。私の能力が重要ということですね」


 それも当然だ。自分を連れ歩いたところで、元女神という以外に特に能力がなければ、アース側にメリットがなさすぎる。

 フロラレーテは、改めて人間になった自分の神力の具合を探ってみることにした。目を閉じて、ゆっくりと神力を体内に循環させる。


「ええと、そうですね……。人間の身体が耐えられる範囲内でなら、神力の使用が可能のようです」


「身体が耐えられる範囲、か。考えたことがなかったな。具体的には?」


「うーん。とりあえず無理なのは、天候を操ったり、死んだ生き物を生き返らせたり、時間や空間を越えたり。そういうのは人間の器だと耐えられないです。

 それ以外のことなら大体できそうですが、神力の容量が限られているから……限界は試しながら探っていくしかなさそうですね。少なくとも二、三十人規模の結界を展開するとか、重症の患者を数人まとめて治癒するとかくらいならできそうなので、そこそこお役には立てると思うんですけど。どうです?」


「は……。十分すぎるくらいだ」


 そこまで言うと、アースは真剣に思考する様子でしばらく無言になった。


(やっぱり出ていけと言われたらどうしよう?)


 フロラレーテが固唾を飲んで見守っていると、アースはやがて決心したように、こちらに指を三本立てて見せた。


「よし。ここまでの情報を加味して、君に三つ提案したい。ひとつ、フロラレーテという名は人間が名乗る事を許されない貴き女神の名だ。人間として暮らしてもらうためにも、君のことはフロラと呼ぶことにする。ふたつ、女神だと知られたら自由に動けなくなるだろうから、君の正体を伝えるのはごく一部の人間に留める。それからもう一つ」


 アースはおもむろにソファから立ち上がるとテーブルを回り込み、フロラレーテの目の前に跪いた。


「俺と、婚約してくれ」


 フロラレーテは生まれて初めて、驚きで言葉を失うという経験をした。

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