第4話
これは夢だ――。
珍しいことに、それはなんとなくわかっていた。ただ、だからといって行動を変えられない。そこまで思考が追いついていなかった。それよりも喫緊の問題は、こらえきれないほどの尿意だった。僕はトイレを探して走るが、体が重く思うように動かない。
見慣れた景色。通っていた大学のキャンパスだ。そのなかを、僕はひたすら走っている。どこにトイレがあるのかはわかっている。わかってはいるはずなのだが、どういうわけかたどり着かない。ただ無我夢中で足を動かす。と、景色が変わる。
いつのまにか、僕は追われていた。僕は、犯罪者だった。振り返ると、公安の姿がある。女性だ。遠目でも、三谷ナナだとわかる。前を向きなんとかして逃亡を試みるが、まったく体がいうことをきかない。また尿意を思いだし、逃げながらトイレを探す。背後からは三谷ナナが迫ってくる。息遣いが間近に感じられ、手が伸びてくる。それでも、僕の体は動かない。
と、目が覚めた。
心臓が痛いほどに脈を打っている。上半身を起こす。夢のなかほどではないが、体が重苦しい。と、めまいがした。酔いのせいだ、とすぐに理解する。慣習でスマートフォンに手が伸び、時間を確認する。夜中の3時。まだ脳も体もアルコールで侵されたままなのも当然の時間だ。一息つくと、急激な尿意に襲われ、立ち上がりトイレのあるキッチン側の部屋へ向かう。おびただしい乳房があるはずだが、背に腹は変えられない。
引き戸を開けると、想定通りの状態だ。あちらこらに生えている乳房が、記憶にあるものよりも全体的に大きくなっているように感じられた。そろり、と足を踏み出し、トイレのドアを開ける。と、想定通り壁にも天井にも乳房が溢れている。幸い便座にはなかった。ズボンとパンツを下ろして、おそるおそる便座に座って用を足す。
目の前の壁はびっしりと出来たての乳房群に覆われているが、まだ酔っているおかげか、それほど現実味が感じられない。僕はいつもの慣習でスマートフォンのディスプレイに目を落として、無心でタップしていく。そろそろアルコール飲料の在庫が尽きることに思い至り、〈世界樹の館〉が運営する通販サイトを開く。そこで芋焼酎やウイスキー、ワインなど、ひととおりのラインナップはいつでも手に入る。海外とは情報は遮られて鎖国状態になっているが、貿易が途絶えたわけではないため、洋酒も問題なく手に入ることは僕にとってはありがたい。僕はウイスキーと炭酸水を選んでカートに入れ、そのまま精算をクリック。一週間以内には届くはずだ。注文が問題なく発信されたことを確認してスマートフォンのカバーを閉じる。と、同時に立ちあがり、水を流すためのノブをひねる。
その瞬間、勢いあまってスマートフォンが手から滑り落ちる。あ、と声を発したときには、すでに筐体は便器のなかだった。水は流れ続けていたが、ちょうど便器の底の部分に引っかかって微妙に揺れる程度になっている。瞬時に、防水仕様だったかどうか思い出そうとするが、記憶からは出てこない。
流水がおさまるまで待って、思いきって手を突っこんでみる。指先でスマートフォンの表面を触ることはできるが、どうしても掴んで引き上げることはできない。目のまえにあるのは間違いなく、引き上げさえすればまだ使える可能性は高い。だが、色々と手の角度を変えてみたり、さいばしなど家にある道具を駆使してみるが、どうにも救い出すことはできない。
20分ほど粘っていると、額にはじっとりと汗が浮いているのがわかった。粘りつくような油を含んだ嫌な汗だ。急速に、酔いも覚めてきた。いったん、その場を後にして、入念に手を洗ってからベッドルームの方に戻った。一直線に芋焼酎の瓶を目指す。蓋を開け、そしてストレートで飲み下す。喉から胃にかけて、いっきに熱くなる。もう一度、飲み下す。さらに、飲む。もうこれ以上は無理だ、と体の悲鳴を感じた僕は瓶を地面に置き、ベッドに腰をおろした。
心臓は脈打っていて、眠気もまったくない。むしろ、目が冴えてしまっている。反射的にスマートフォンに手を伸ばしかけて、あ、と気づく。今は便器のなかなのだ。もう一度、芋焼酎の瓶をあおり、電気を消してベッドに横になる。目をかたく閉じ、酔いがまわるのをひたすら待つことにした。
翌朝は唐突にやってきた。
目覚めて上半身だけ起こし、反射的にパソコンデスクのデジタル時計に目を向ける。8時半。勤務開始時間より前に目が覚めたのは僥倖だ。いつもスマートフォンのアラームに頼っていたのだ。そのことがまったく頭から抜けていた。シャワーを浴びている時間はない。まず、足元に放りだしてあるミネラルウォーターのペットボトルに手を伸ばす。少し口をつけ、ほっと息をはく。完全な宿酔だったが、気にしている場合でもない。重い体に鞭打って回転椅子に座り、出しっぱなしにしてある会社支給のパソコンを開く。そしてキーボードを見た瞬間、全身に怖気が走る。そのまま、一度閉じる。
予想できなかったわけではない。むしろ、いつかはそうなるだろう、という漠然とした思いはあった。今日ではないだろう、という油断もあった。しばらくはそのまま動くことができなかった。が、自ずと勤務時間は訪れる。なにもしないわけにはいかない。おそるおそる、ノートパソコンを開いてみる。
ほぼキーボード全域が、無数の乳房に変わっていた。昨日まではいくつかのキーのみであったが、見る影もない。びっしりと乳房が増殖している。様々な色と大きさの乳首が整然と並んでおり、それがまるで見本市のようで滑稽にすら感じられた。
ひとつずつ、指で押してみる。弾力もそれぞれ微妙な違いがある。
――いったい、これは何なのだろうか?
奇妙なことに、このような素朴な疑問が今はじめて生じた。最初に壁に乳房が生えてきたときは、気持ち悪い、という思いはあったものの、しばらく見ていて慣れてしまい、そんなものなのだろうと勝手に飲みこんでしまっていた。しかし冷静に考えるとありえない現象なのだ。
乳房の膨張現象が話題になった当初、その原因についても各方面から言及がなされた。未知のウイルスや細菌類、また、未知の宇宙線、集団的な精神の病気、などが挙げられたが、今ではいずれも否定されている。日本人の食生活の変化が体質にあっていない、という説が盛りあがった時期は過去への回帰が叫ばれ和食ブームが訪れたが、それも一過性の流行に終わった。
女性の乳房が膨張しているという事象ですら、過去に幾多の専門家が考えてもわからなかったのだ。ましてや壁から乳房が生えてくる現象など常軌を逸している。自分のような一介の会社員がいくら頭を絞ったところで、解決するわけもない。そう結論をつけ、思考停止して置時計に目を向ける。8時55分。もう勤務時間だ。そう思い反射的にいつもの電源ボタンに指を持っていく。
と、そこも乳房になっていることに、はじめて気づいた。考える前に、とりあえず指を持っていく。乳首の真ん中から、ある程度の力をこめて押してみた。素晴らしい弾力で跳ね返してくるが、パソコンが立ち上がる気配はない。もう一度、今度はさらに強く、押しこんでみる。が、結果は同じだった。
ほかの方法を考えてみたが、電源を入れる手段は思いつかない。諦めて時計をみる。もうあと2分ほどだ。このままでは遅刻になってしまう。緊急の対応として、仮病で有休にしてしまえ、と思いついて、ハタと気づく。それをいったいどうやって会社の上司に伝えるのか。パソコンの電源は入らず、スマートフォンは今便器に沈んでいるのだ。
じわじわと焦りが出てくるが、すぐに開き直る。勤務開始に間に合わなかったことなど、あとでなんとでもいいわけができる。問題は、今のこの根本的な状況だ。
落ち着いて会社パソコンは閉じ、奥にどけていたプライベートパソコンを立ちあげる。こちらもキーボードの乳房化は進んでいたものの、まだどうにか最低限の機能は失っていなかった。ネットを立ちあげる。〈世界樹の館〉のトップページには相変わらずのニュースが並んでいるが、特別この部屋の現状に近いような記述は見当たらない。どうやら全国的に起こっているわけではないようだ。
パソコンの画面はそのままにして、僕は席をたった。忘れていた尿意に襲われたのだ。覚悟を決めてキッチンスペースの引き戸を開ける。相変わらず乳房に覆われているが、承知の上だ。トイレの扉をあける。増えてはいるが、まだ用を足すことはできる。水没しているスマートフォンを視界にとらえつつ、便座について小便をする。
立ち上がり出るときに手をかけたノブに違和感を覚え、手元を見ると、丸いノブの表面にいくつか、ごく小さな乳房が発生していた。
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