第5話
しばらくの時間、〈世界樹の館〉に深く潜り、情報を読みこむ。ただの現実逃避だ。
ふと、会社のことが頭によぎる。僕がログインしていないことに誰かが気付いて、問題になっている可能性もある。ただ、それほど頻繁にコミュニケーションをとりながら進めるような業務内容ではない。しかも、現在の上司は基本的には放任主義だ。いちいち全員のログインチェックなどしていない可能性が高い。それも合わせ、おそらくまだ誰にも気づかれていないだろう、というのが僕の希望的観測だ。とはいえ、このまま放置して状況がよくなるとは考えにくい。
しばらく悶々と考えていたが、とりあえず動きながら考えることとした。一度、外出して気分を変えよう。そう決めた。とりあえずのコンビニだ。アパートのすぐ隣にある。そこで、食料品やスイーツを調達しよう。とりいそぎの酒も買っておこう。そう思うと、すこしだけ気分が上向く。
床に生え揃う乳房を避けながら、キッチンスペースを歩きドアのノブに手を伸ばす。と、握る前に、どうにか気付いた。それはノブではなく、乳房だった。ひとつの丸い乳房だったので、危うく気づかないところだった。乳房が擬態しているのか、というフレーズも脳裏をよぎったが、すぐに思い直した。どう見てもただの乳房だ。それ以外の何者でもない。おかしいのは僕の感覚の方だ。もう当たり前になりすぎて、乳房に麻痺してきている。
ノブのあったはずの場所の乳房に手を伸ばす。鷲掴みにしてひねってみるが、ただ肉の弾力が押し戻してくるのみだ。時計回りにも、反時計回りにも動く気配はない。これ以上力を込めると、ちぎれてしまうというところまでは試みて、そこで断念した。
ドアノブだったはずの乳房は、手を離すとその跡にほんのりと赤みだけ残して、ほぼ元どおりの形に戻った。乳首の上、横や上、下側から、指で押してみても、ただ肉が押し返してくるだけだ。ノブは諦めてドアそのものを両手で押してみる。ぴくりとも動かない。腰を落としてドアに肩を当て、息を止めて身体全体の力を振りしぼって押してみる。が、冷たい感触が伝わってくるのみで、なにも起こらない。力を緩めて背中をドアにあずけて、ゆっくりと息を吐きだした。
と、急に鼓動の音が耳に大きく届いてくるのが意識された。なぜだか涙腺にこみ上げてくるものがあり、必死でこらえる。恐怖、不安、また、それだけではないパニック発作のような、自分のものではないような感覚を必死で抑えこんで、ドアの方を振りかえる。そのまま鉄のドアに拳を叩きつけてみる。何度か試してからしばらくじっと外からのリアクションを待つが、それも無駄に終わった。
いったい、なにがどうなっているのか。必死で落ちつきを取り戻し、思考をフル回転させる。まずは状況を整理しなければならない。会社に遅刻する程度のことは、もうささいなことだ。それよりもじりじりと迫り来る生命の危機を脱することを考えなければならない。
まず、外に続くはずのドアは乳房に変わり、開く気配がない。窓の鍵もガラス部位もすべて乳房で埋めつくされている。連絡をとろうと思っても、スマートフォンは便器のなかで、会社のパソコンの電源は乳房だ。唯一残されている外界とのつながりは、プライベートのノートパソコンだ。
ここまで考え、すぐにベッドルームの方へ戻った。パソコンデスク前の回転椅子に腰掛け、すで立ち上げてあるパソコンのスリープ状態を解除する。さいわい、まだどうにかキー入力ができる状態だ。〈世界樹の館〉のサイトから、メール画面にログインする。
この数年、家族や友人とのやりとりにこのメールを使うことはなくなった。使うとしてもスマートフォンの方のアドレスだ。〈世界樹の館〉サイトのアドレスに関しては、まだ生きているのかどうかも怪しかったが、どうやら削除されてはいないようだ。望みは薄いが、もうこれしかない。
受信ボックスをざっと確認してみる。ほとんどが通販サイトなどからの宣伝メールであったり、迷惑メールと思われる正体不明の宛先からのものだ。過去をさかのぼってみると、残念ながら1年以上前の履歴はない。保管期限がそこまでにされているようだ。〈世界樹の館〉のなかでは重視されていないサービスなのだろう。今はそれでも十分だ。
僕は新規メール作成をクリックし、宛先にカーソルをあわせる。この1年で使った覚えはない。つまり、過去の履歴からアドレスを検索することはできないということだ。家族や友人のメールアドレスなどは、記憶していない。すべての情報はスマートフォンのなかにある。そちらは諦めるしかない。すぐに入力できそうなのは会社の同僚のアドレスだ。迷惑メールとしてシステム側に排除される可能性が高いが、それでもなにもしないよりは気持ちの面で楽だ。
本文になにを書くか、迷った。ただただ、家に閉じこめられた。助けてくれ、とだけ入力してみて、手を止める。これではインパクトがない。不審なアドレスからの怪しいメールだとして即削除されるだけだ。
考えた結果、壁から乳房が生えてきた、ノブが乳房に変わって外に出られない、スマートフォンを誤って便器に水没させてしまった、という内容を、乳房化が進むキーボードをどうにかやりくりして、ありのままに記載することとした。それでも同じように削除されるかもしれないが、逆にここまで書くと公安へ通報を検討するかもしれない。それはそれで恐怖感はあるが、背に腹は変えられない。少なくとも今の状況を打開することにはなる。その後のことはその後に考えれば良い。ひととおり、考えつくアドレスへ別々のメールを作成して送付する。合計数十件、無心に書いては送付、を繰り返す。
作業を終えて手を止める。
そして、公安、というワードに引っぱられるように、ひとつだけ今でもそらで言うことができるアドレスがあることに思い至る。かつての恋人だったはずの女性――三谷ナナのものだ。〈世界樹の館〉で知り合った彼女との交際は、まずはメールのやりとりから始まった。もう二度と連絡することなどないと思っていた。僕は宛先欄に、記憶にこびりついているNanaから始まるアドレスを打ちこんでいく。
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