第3話
翌朝、会社のノートパソコンを開くと、いくつかのキーが乳房になっていた。もう驚きはしなかったが、現実問題として困ることになる。冷静に確認してみると、プライベートのパソコンと同じようにシフトキーがひとつ乳房になっているほか、バックスペース、F4、F12、数字の7、ローマ字のJのキーが変化していた。Jのキーが使えなくなっていることで不便は生じるが、『じゃ』などの変換はZキーを使えば事足りる。とり急ぎはなんとかなることはわかったが、先のことを考えるとすでに破綻が見えている。Jのキーにある乳房を右手の人差し指で弄びながら、漠然とした不安感が胸に広がっていく。それでもなにをどうするわけにもいかず、目先の仕事をこなしていく。
誰か会社の人に相談してみるか――という考えもよぎるが、パソコンのキーがいくつか乳房になっている、などと伝えようものなら、そのまま公安に連絡されてもおかしくない。そう思うとどうしても行動には移れなかった。
この日は悶々とした気持ちを抱えながらそれでも業務は滞りなく終え、17時きっかりにパソコンをシャットダウンする。そのままプライベートのパソコンを開いたところで、一瞬、言葉を失った。シフトキーの位置にあった乳房が明らかに巨大化して周辺のキーを侵食し始めている。
電源を立ち上げて確認してみると、上矢印、エンターキーなどはどうにか使えるようだった。一方で、シフトに隣接する『ろ』キーや上側の『む』キーは半分以上乳房に変化しており、押してみてもただ肉の弾力が感じられるだけでディスプレイ上にはなんの変化もない――つまり、機能が死んでいるということだ。
僕は立ち上がり、なんとなく壁の乳房へ近寄り、手のひらに収めてみる。心なしかまた大きくなっているように感じられた。天井へ視線を向ける。と、ふたつの乳房の隣に、ごく小さいものではあるが確実に乳房の形の突起が生まれつつあった。ぐるり、とめまいを感じた僕はその場で目を閉じて、大きくゆっくりと深呼吸する。地に足がついた感触を得ると、急に喉の渇きを覚えた。
キッチンスペースへ向かうため、引き戸に手をかける。
あるかもしれない、と、なんとなくは予想していた。短期間でこれだけ増えているのだ。キッチンスペースのほうになにも起こっていないとは考えにくい。
――が、その予想を軽々と超える事態に、絶句してしまう。
壁、天井にとどまらず、シンク、水道のレバー、ガスの元栓――。部屋じゅう、いたるところに乳房があった。昼食のためにキッチンに来たときにはなにもなかったのだ。生えたてということなのか、すべてがごく小さいものだ。ただ、平らな面に無数の突起物が生えている様は生理的に嫌悪感を禁じえない。全身に怖気が走る。手の震えが止まらない。焦燥感が湧きあがってきて、思わず引き戸を閉じてしまった。
ベッドまで戻りその縁に腰掛ける。なんとなくスマートフォンに手を伸ばした。そのブラウザのホーム画面も〈世界樹の館〉だ。震える手でタップしていき、検索ワードとして『乳房』『壁』を入れてみる。数百件がヒットするが、そのほとんどは今の状況とは関係のない話題だ。スクロールしていくと、『壁から乳房が……』というサイト紹介文があり、反射的にタップした。心臓が高鳴る。しばらく通信中の表示が続く。数秒後、出てきた表示は『このページは削除されています』の文言。思わず胸をなでおろした。安堵なのか落胆なのか、その感情が自分でもわからない。
『生える』や『天井』など、ワードを変えて検索を続けるが、めぼしいと思われるサイトはすべて削除の記載であった。十分ほどは粘ったものの、気力をなくした僕は、スマートフォンを置いてベッドに横になる。これ以上際どいワードで検索を続けていても、公安の目に止まる恐怖もある。
このまますべてなかったことにして眠りに落ちてしまいたいが、交感神経が高まった今の状況ではそれもままならない。とにかく一度、リセットする必要がある。その考えにいたり、また喉の渇きを思い出した。秋から冬になろうかという季節だ。エアコンは常に稼働しっぱなしの状態だ。室内もかなり乾燥しているだろう。と、しばらく外の空気を吸っていないことに気づく。
ベッドの上で上半身だけ起こし、この部屋の唯一の窓に目をやる。思い返すと、初めて乳房が現れたときに閉めてから、一度もカーテンを開けていない。僕は立ち上がりカーテンに手をかける。おそるおそる、開いていく。すべて開かなくても、なにが起こっているかはわかった。
採光できるガラスのスペースがまったくない。すべて乳房で埋まっている。鍵の部分が完全に乳房になっているため、開くこともできない。それだけ把握した僕はそのままカーテンを閉じた。
足元にはペットボトルの水と飲みかけの芋焼酎の一升瓶がある。迷わずに一升瓶に手を伸ばして蓋をあけてそのままあおった。感覚が麻痺してしまっているのだろう。強烈なアルコールの刺激も匂いも、なにも気にならない。水のように飲む。それを何度か繰り返した。数分で一升瓶の液面がみるみる下がっていく。最後に、ペットボトルの水で口内をすすぎ、飲み下す。そのままパソコンデスクにつき、スリープモードになっていたプライベートパソコンをもう一度立ち上げる。いくつかのキーは相変わらず乳房に変わっているが、もう気にしない。いい感じに酔いも回ってきて、気にもならない。右手小指をシフトキーの乳房の上にもっていき、その指の腹で、ころころと乳首をこね回す余裕すらでてきた。
――〈膨張禁止令〉の歴史的経緯。
〈世界樹の館〉に、こう銘打たれた記事が新しくアップされていた。
なぜ『乳房禁止』ではなく、『膨張禁止』なのか、という基本的なことから丁寧な説明が入っており、膨大なテキストの量がありそうだ。現実はいったん棚上げして、とりあえずこの記事を読み込むことに決める。そこに今の状況を打開できるなにかがあることを期待しているわけではない。アルコールで急速に麻痺していく思考が、ただただ現実からの逃げ道を探していただけだ。今この瞬間を逃避することだけを考える。あとのことはまたあとで考えればよい。世界のどこかで、そんなことわざもあったような、なかったような。
サイトの記事はある学者が書いた論文からの抜粋が大部分を占めていた。内容は、もともと知っていたことが大半だが、忘れてしまっていたことも多い。
〈膨張禁止令〉――。
そもそもの発端は、日本国内で統計学上明らかな乳房の膨張現象が確認されたことだ。このまま女性たちの乳房が膨張を続ければ日本じゅうが乳房で覆われる。そして、最終的には国が滅ぶ。その声明が、有名国立大学の人間科学部からの正式な発信だったこともあり、その後の世論の高まりに応えるように行政も動いた。
複数の団体による入念な調査が行われ、膨張していることはほぼ間違いないとされたが、その原因追求は難航し、現在まで科学的な原理の解明には至っていない。
一方で哲学者、宗教者も独自の視点での声明を発表し始めた。
――乳房というのは元来、不浄なものだ。そもそも忌むべきものであり、目に入れるべきではなく、触れることなどは言語道断だ。昨今の若者を中心とした国民の乳房に対する意識の低下が神の怒りにふれ、今回のような膨張現象を引き起こしている――。
俯瞰してみると、一笑にふされてもおかしくはないような稚拙な説だ。じっさいに海外からはトンデモ宗教者として切り捨てられたらしい。
ただ日本国内では、ある一定数の共感を得て〈乳房不浄説〉と呼称されるようになる。その背景には、原因究明がいっこうに進まないことによる、当事者である女性たちの不安の高まりがあった。その影響はまず、ファッションの流行に現れることになる。胸の膨らみを強調するような服や胸部の露出が多い服が廃れていき、体のラインがわからない服が主流になった。当然ながら、テレビや雑誌、ウェブサイトにも波及していった。今では、乳房の存在を感じられるような画像や動画は、どこを探しても見当たらない。
海外に目を向けると、まったく事情は異なる。夏にもなると、若い女性のなかには、全裸に近いような格好で街を歩く人も普通に存在し、またメディアでも胸を強調するタレントは連日目にすることができる。またインターネットを少し潜れば、直接乳房を目にすることも比較的容易にできる。もっとも、『できるらしい』というのが僕のもつ情報だ。公安による情報統制がしかれた今の日本では、一般市民が海外の情報を入手することはできない。すべての知見は、〈世界樹の館〉に記載されるテキスト情報から得ている。
比較的早い段階で、〈乳房不浄説〉は一般市民のあいだに広がっていった。そうして誕生したのが現在まで長期で政権を担っている〈女性党〉だ。全党員が女性で構成されたこの党の基本理念は『女性に優しい国づくり』であり、その政策決定における根本原理に〈乳房不浄説〉があった。当然、海外からは批判の声が上がり国際的に孤立した日本国は、それでも自説を曲げず、結果として半鎖国のような政策を推し進めることになる。
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