スイッチ

エイドリアン モンク

スイッチ

 Sは高名な精神科医だ。今まで多くの患者を快方へ向かわせてきた。彼の診療所には、他の医者が匙を投げた患者が藁にもすがる思いでやって来る。


そんなSでも悩んでいる患者がいた。半年近く通っている若い男Aだ。

 AはSに会うたびに「死にたい」と口にしていた。だが、Aは心に深い傷を負うような何か大きな出来事があったわけではない。

 それどころか安定した職を得て、友人や恋人にも恵まれている。家族関係にも問題は抱えていない。


 それでもAは人生に失望していた。自分にできないこと、失敗したことを並べては「自分には生きる価値が無い」と嘆き続けた。


 こんな話を聞くと、コップに入った半分の水の寓話を思い浮かべる人がいるだろう。コップに入った半分の水を見て「まだ半分もある」と安心する者もいれば、Aのように「もう半分しかない」と悲嘆にくれる者もいる。要は何事も心の持ちようということだ。


 だが、そんな話をAにしたところで何の意味も無い。A自身でなんとかできないからここに来ているのだ。


 優秀で責任感の強い医師であるSは、なんとかAを助けたいと考えていた。様々な医学書や論文を読み漁ったが、これだという決定打は無かった。


 同業で、長年の友人でもある医者と飲む約束をしていたので、SはAのことを相談してみることにした。

「人間も機械みたいに心のスイッチがあって、操作できたらいいのにな。この仕事をしているとつくづくそう思うよ」

友人の医者はそう言った。

「そうなったら、俺たちは廃業だな」

「確かにな。まあ、それでも病院が繁盛する世界ってのも健全とは思えないけどな」

「……違いない」


 話はそこで終わったが、家に帰り寝床に入ったとき、Sは友人の医者との会話を思い出して、あるアイデアが浮かんだ。


 これは意外と悪くないかもしれない。


 今日はAの診察日だった。

「調子はどうですか?」

「ええ、まあ……」

 診察室に入ると、Aはいつもうつむきがちで、Sの問いかけにも歯切れの悪い返事しかしない。

「死んでしまいたいという気持ちは変わりませんか?」

「はい……もう何もかもどうでもいいかなって……」

消え入りそうな声だ。

「そうですか……」 

 穏やかに答えたSだったが、自分のアイデアを実行に移せると、内心は心が躍っていた。

「分かりました。では、これを差し上げましょう」


 Sが渡したのは、五センチ四方くらいの小さな箱だった。


「上の部分がカバーになっています。開けてみてください」

カバーを開けると、小さなボタンがあった。

「先生、これはなんですか?」

「これは現在、政府が極秘で開発を進めている安楽死スイッチの試作機です」


 真面目な顔で答えるSを見て、Aは苦笑いした。

「馬鹿らしい。からかわないでくださいよ」

「いや、本当ですよ。考えてみてください、年々社会保障費は増加して、財政は火の車です。それに加えてこの国の自殺率は世界でもトップクラスで、国際機関から非難轟々だ。社会保障費を減らし、自殺者を減らし、代わりに尊厳ある死を提供できる方法として、最適解だと思いませんか?」

「でも、そんなものがなぜ先生の手元にあるのですか?」

「Aさんはなぜ私の所に来たのですか?」

「先生が優秀な医者と聞いたからです」

「政府も、データが欲しいから私のような医者に試作機を提供してくれるのですよ」

「じゃあ、使った人がいるんですか?」

「はい。Aさんが初めてではありません。いずれも成果は出ています」


 「成果」という言葉を聞いて、Aは少し怯えたようだった。

「色々検討しましたが、Aさんはこの機械のデータ提供者にピッタリです。スイッチを押せば、苦しむことなく死ねますし、いくばくかの保証金が遺族に入るそうですよ。どうします?」

 

 Aの手がスイッチに伸びる。かと思うとその次の瞬間引っ込めた。

 迷っているのだ。「死にたい」と言っていても、生への執着を完全に失ったわけではない。

「こんなチャンスはもう二度とないと思いますが……」


 Sの言葉がAの背中を押した。Aがスイッチをつかんだ。

「先生、俺、このスイッチ使います」

「分かりました。ただ、使用するには私の方から役所への手続きが必要で、十日ほどかかります」

「十日も……」

「お役所仕事ですからね。十日したら勝手に使えるようになっていますので、それまで、残された時間を大切にしてください。」

「分かりました……」


 Aが椅子から立ち上がった。

「もし、スイッチを使わなかったら、返しに来てくださいね」

「いや……たぶん使うと思います」

Aは診察室から出て行った。


 十一日後、Aが診察に来た。Sの予想通りだった。

「使わなかったのですか?」

わざと少し驚いたふりをした。

「はい」

 前回診察に来た時とは打って変わって、Aを覆っていた曇りが取れたようだった。

「十日間、どんなふうに過ごしたか教えてもらえますか?」


「はい……どうせ死ぬならと思って、色々やってみたんですよ」

「例えば?」

「仕事です。いつも仕事では、自分には能力が無いと思って、他の人のサポートに徹していたのですが、思い切ってずっと温めていた企画を提案してみました。そうしたら、その企画が好評で、プロジェクトリーダーを任されました。上司に言われました。『ようやく本領を発揮してくれたな』って」

「それは良かった。他には何かありましたか?」


「恋人とのことですが、自分で言うのもなんですが、彼女は結構美人で人柄も良いので、なんで自分なんかと付き合ってくれるのか自信が無くて、引け目を感じていたんです」

「それが変わったと?」

「はい。やっぱりどうせ死ぬならと思って、最後に一緒に旅行に行って、彼女と色々話をしました。彼女は本当に俺のことを愛してくれていると分かりましたし、ますます彼女が愛しくなって、ずっと一緒にいたいと思うようになりました。」


「それはそれは……。じゃあ、このスイッチはいらないですね?」

 そこでいつもの歯切れの悪い話し方をするAに戻った。

「その……相談なのですが、もう少し俺に貸してもらえませんか?これがあると色々吹っ切れる気がして……」

「それはできませんよ。このスイッチは使わなかったら、速やかに返す決まりになっているのですよ」

「そこをなんとか……」

 

 Sは机に置かれたスイッチを掴むと、いじり始めた。

「困りましたねえ……」

Sがスイッチのカバーを開ける。

「ちょっと先生、何をするんですか?」

「こうするんんですよ」

 

 Sがスイッチを押した。


「何をするんだ」

Aが声を荒げた。

「……Aさん、生きてますよ?」

Aが我に返る。

「安楽死スイッチなんてあるわけないでしょう?」


 Sがスイッチをごみ箱に捨てた。

「いいですか、Aさん。あなたはこのスイッチのおかげで変われたかもしれない。しかし、それはただのきっかけです。あなたはこのスイッチを持つ前からそれだけ立派な人間だったのです。もっと自信をもちなさい」

狐につままれたような顔をして、AはSの話を聞いていた。


 本日の診療を終えて、Sはカルテの整理をしていた。ふと「がんばってみます」と言って診察室を出て行ったAの姿を思い出した。


 患者を救うことができた。Sの心は晴れやかで、少しだけ自分が誇らしかった。

今日は祝杯をあげたい。友人の医師に連絡した。


 待ち合わせの酒場に友人の医師はだいぶ遅れてやって来た。

「すまんな、連絡もせずに遅れて」

「別に構わないが……急患か?」

「違う違う。この店の前も、救急車やパトカーが通り過ぎていっただろう?」

「ああ。どっかで事故でもあったのかな?」

「駅前だよ。信号無視のトラックが、横断歩道を渡っていた若い男を撥ねたんだ。たまたまその場に居合わせたから、畑違いだけど救急車が来るまで、できる限りの手当てをしていたんだ」

「それは……大変だったな。で、その男は……」

 友人の医師が首を横に振った。

「たぶんダメだと思う。ちゃんと信号を守って渡っていたのに気の毒すぎる」

「……一寸先は闇だな」

言葉が見つからずSはそう言った。


 トラックに撥ねられたのがAだったことをSが知ったのは、次の日の朝のニュースだった。

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