第27話 古典表現と詠唱文
いつものように地下室で魔法の練習をしていた日のことである。
「あ、そうだ。モバイルバッテリーって今ある?」
「はい、袋に入れてます。珍しいですね、スマホですか?」
橘は魔法袋から取り出して吉野に渡した。
「うん。詠唱文を作るにしても良い語彙が出てこないのは深刻なんだよね。でね、スマホに類語辞典を入れてたのを思い出したの」
「そういう辞書も最近ではスマホに入ってるんですね。類語辞典か。僕は開いたことないですね」
「ちょうどセールで安かったからついポチッと買っちゃってね。類語辞典は持ち運ぶには大部の辞書だからいいかと思って」
吉野が起動させたアプリで検索した「回復」の類義語には、たとえば、治癒、平癒、快癒、全癒、全快、全治、完治、根治、快気、快復、快方、本復、平復、リカバー、リカバリーなどがある。
「へえ、こんな辞書があるんですね。言い換えに便利かも」
「だからって、今すぐに活用できるわけじゃないけど、こういうのがあるだけも詠唱文のヒントになるかなと思ってね」
今度は橘がスマホを借りて検索する。自身の中にあるいくつかの詠唱文の語彙を入れると、別の候補の語が並べられている。すべてが置き換え可能ではないが、別の候補の方が雰囲気が出るように思えてきた。
「先生、全然使ってませんね。履歴がほとんどなかったですよ」
「し、仕事の時は本のタイプのを使うからね。それにしてもリカバーか。発想としてはまさにリ(re)・カバー(cover)よね、私たちの回復魔法って。これだけでも魔法として成り立つように思えるよね」
「確か、『リカバー』と唱えてた漫画もあったように思います。回復というよりは状態異常をなくす感じでしたけど」
吉野は状態異常ってなんだ?という顔になったので橘が例を出して説明をした。
「あっ、そうだ」
吉野が今度は魔法袋に手を入れた。
「これにも類語辞典入ってるんだった」
「それって新入生用の電子辞書ですか?」
「ええ、君たちのとはモデルが変わって、今年からこの中には類語辞典も入れられていたんだよ。私、説明担当だったのにすっかり頭から消えちゃってたわ。橘くんも活用してみるといいよ。スマホよりはこっちの方が電池の消耗も少ないからね。私もこの辞書を使っちゃおう。いや待てよ、自分の電子辞書にも入ってたのかも」
あははと言いながら、電池を入れて、それを橘に渡す。橘はすでに一台持っていたが、詠唱文作成のためにはいくつもの言葉を引くための道具が多くあっても問題はない。
なお、全生徒の電子辞書は吉野の魔法袋に収納されていた。そして、吉野が個人的に使っていた電子辞書にも類語辞典は入っていた。
「先生、使ってないのバレバレですよ」
「はい、すみません。見栄張ってました」
詠唱文を作る際の便利なツールを手に入れた二人は、すでに作ってあった詠唱文の一つひとつの言葉を吟味し、ゴロやリズムなども考慮し、交換できるものは交換していった。類語辞典の活用は、ただでさえ強力な二人の魔法をさらに強固なものに変えていった。
「そういえば、前に古典の表現でという話をしましたけど、たとえば和歌や漢詩だったらどうなるんですか?」
「言われてから私もいくつか考えてみたんだよ。ただ、なんというかすごくぼんやりするというか」
「ぼんやりですか?」
「ええ、たとえば菅原道真が左遷される時に詠んだとされる『東風吹かば』の歌なんて、どうなるかなと」
東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな
ノートに綺麗に縦書きで書いていく。
「これは春の歌というか、日本の和歌だと部立といってね、春の歌や恋愛の歌、旅の歌のようにまとめられることが多いのね。去年教えたけど」
恋歌、羈旅、物名と吉野は続けて書いていく。
「『古今和歌集』とか『新古今和歌集』とかですよね。勅撰和歌集、三代集、八代集、そういうの習いました」
「うん、この歌だと動詞は三つあって、『吹か』と『おこせよ』と『忘る』で、『吹かば』は仮定の話だから魔法の発動は難しいし、『忘るな』も難しいかな。唯一『おこせよ』は命令形になるけど、これは可能性が高い気がする」
「まだ試してないんですか?」
「うん、部屋の中だと怖いしね」
「じゃあ、ここでやってみましょう。ゲームの詠唱文でも、歌の形というか、『~しろ』タイプじゃなくても状況を歌うように発動する魔法ってありましたから、可能性はありますね」
まずは試してみないと、と橘がうながした。
「そうだね。たぶん大魔法にはならないよね?」
そう言って吉野は立ち上がり、前に広がる空間の遠い場所にうっすらと梅の木があるかのごとく設定をし、それらが風に吹かれていくイメージを思い浮かべて、ゆっくりと和歌の詠唱を行った。
(和歌は心を詠ったものでもあるのだから、その心が反映される? それとも和歌を享受した私の解釈が反映される? それとも単に動詞の動作が出てくるのかな)
詠唱を終えると、橘が変な表情をしている。
「なんだろう。鼻がむずむずするというか、変な匂いがしますね。それに風も少し吹いてますね」
「もしかして梅の木って見たことないの?」
橘とは対照的に吉野は微笑みながら立ちこめた空気を吸いこんでいる。
「はい。おかげさまでそういう暇はなかったもので」
「これ、梅だよ。うん、間違いない。木はないけど、香りはある。不思議ね。なんだか懐かしいな」
そして、どこかせつない気持ちになる。会えない、二度と見られない哀しみが歌の根底にあるからだろうか。
香りは昔を思い出すもの、そういえばそうだったなと吉野は思い直す。
「『花ぞ昔の香に匂ひける』ですね」
意外な言葉に吉野は驚き、そして喜んだ。
「そう、紀貫之。『ひとはいさ心は知らずふるさとは』ね。よく知ってたわね」
「百人一首だけは中学生の時に暗誦させられたものでして」
すごいすごいと吉野は橘を褒めていた。
橘がお受験で難しいと言われる私立の中高一貫校に通っていたことを思い出す。それなのに、高校は地元の公立高校を受験したのだった。
(歌は知っているのに見たことも触れたこともないっていうのは哀しいものね)
中学生時代の橘の姿を吉野は想像していた。
「『古今和歌集』の影響で花といったら桜を思い浮かべがちだけど、古い時代だと梅だと言われているんだよね。美味しい梅酒を飲みたくなってきたなあ」
「『万葉集』では多く歌われたのは萩って授業で言ってましたっけ。さすがに梅の実を生じさせることは難しいですかね」
「いくら魔素が変化するといっても、どうなのかな。黒い炎の竜を出せるくらいなら、梅の実一つくらい出せたって驚かないけどな」
そんな話をしながら、有名な詩歌の表現について二人は議論していったのだった。
「月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして……」
「何の歌です?」
「『伊勢物語』って読んだじゃない? 他の章段にこんな歌があったなと今思い出したの。簡単そうでいてちょっと難しい歌なんだけどね」
「それを詠唱しても何も起きそうにはなさそうですね」
そうだね、と吉野は答えた。月も春も我が身も、この世界と地球とではすっかり変わってしまったのかもしれない。
「なんだか、先生の授業を思い出してきました」
「ふふ、私もだよ。去年なんかは毎日授業があったよね。『また先生?』って、そりゃお互い様だよ、と思ったもんだよ」
もしこの世界に来ていなかったら、すでに秋頃になっていただろうか。橘も高校2年生になり、高校生活も半分終わった時期になるだろう。生徒たちの進路指導が本格的に始まっていく時期だ。
(この子は何になりたいと言っただろうか)
すでにその問いがこの世界では無意味だということはわかりつつも、それでもどういう道を選び取るのか、それは是非見たかったなと吉野は思っていた。梅の香りはいつの間にか消えていた。
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