第17話 回復魔法

「まるで主が現れたかのように清らかな曲でした」

 教会関係者の偉い人が絶賛しており、カイナも悔しい思いがないわけではないが、それよりも新しい曲を知ることができた喜びの方が勝っている表情をしている。

(主って神様のことよね。宗教曲というのがあるのだから、音楽を通じて神の姿を想像することだってあるんだろうな)

 そんなことを思いながら、橘たちのことを見ていた。

「なるほど、魔曲か……」

「魔曲?」

 クリスが気になる言葉を呟いた。思わず聞き返してみると、魔曲について説明をしてくれた。

「これは伝説や神話の類なのだが、精霊や妖精などの存在が魔素を帯びた楽器を奏でると、魔法のような効果をもたらすという話がある。もちろん、もともと魔法の使える者が楽器を通じて魔法を使ったという見方もできるのだろう。いずれにせよ、もしかしたら、彼の曲はそういう類になるのではないかと思えてな。まあ、単にそれだけの魅力のある曲だという意味にも使用されるが」

 魔法は詠唱文が必要だと習ったが、もしかすると音階やメロディーは一つの言葉として存在していて、魔法の行使と同じことがあるのではないか。あるいは、魔法と見紛うほどに感動的な曲に過ぎないのか。

(帰ったらグレンくんに聞いてみてもいいかもしれない)

 トニー、カイナ、そして橘が音楽について語り合っている光景を見ながら、吉野は今日一日の様々な出会いに感謝をしたのであった。

 男を投げた際の腕の痛みはすっかり消えていた。


 初めての町への観光から3ヶ月が経った。

 この世界の1年は14ヶ月だが、吉野たちがやってきたのは2番目の月であった。すでに6番目の月になろうとしている。地球の四季に対応させるとすれば、初夏の季節を過ぎているようである。

 アルム国は年中穏やかな気候のことが多く、雪も降り積もる年は少ない。

 しかし、転移者がやってきて魔素が増えたことにより、周辺の気候が変わるようであった。

「大気や雨、雪に混ざって地表に舞い落ち、魔素が自然に広がっていく傾向があるんだよ」

 吉野と橘はグレンの授業を受けている。とはいえ、世間一般の常識程度のことはすでに学び終えており、この時間はグレンとの会話を楽しむ日となることが多い。

 吉野は文字を覚え、400程度の単語も書き取ることができた。引き続きそれらの単語を使って文も作り、ケルナーに見てもらっている。

 それとは別に、翻訳効果のある腕輪を外してケルナーと口頭で会話をする練習もしている。こちらの方はまだまだ先が長かった。

 橘の方もトニー以外にカイナとも交友を深め、また楽隊のメンバーからも温かく迎えられていた。教会へも密かに足を運んでいるようだ。人脈も増え広がったが、グレンとの会話は吉野よりも楽しみにしているようであった。


「この国が富んでいくことは良いことだと思うけど」

 吉野には正直不安な気持ちもある。

「ああ、前に町で絡まれていたんだってね。ああいう輩が増えてくるだろうね」

 クリスがあの酔っ払いの男たちをそのままにしているはずはなく、実は密かに吉野たちを監視していた部下に後を追わせた、という話をマルクスから吉野は聞いた。酔っ払いたちはいち早く稼ぎ話にかけつけた人たちであった。

 「何も教えなかったのは申し訳ありませんでした」と、マルクスから謝られたが、むしろそこまでして見守ろうとしてくれたことに感謝をしている。クリスはその部下たちのことに気づいていたようだ。

「あれからあの村も騒がしくなっているのよね。なんだか申しわけないな」

 あの村とは、吉野と橘が最初に立ち寄ったサイカ村のことである。

 王都のある場所から馬車で1時間程度の距離にあるこの村は、もともと王都へ向かうには遠すぎるために数十年前に作られた臨時の村であるらしかった。周囲の林や森、山、湖など、資源も比較的豊かにあり、時の為政者によって作られたという。

「この城からも兵が定期的に派遣されているしね。それに、サイカ村もこれをきっかけに町くらいまで大きくなればいいわけだし。というか、たぶんそうなる」

「魔素がもとになった魔石が採掘できているんだっけ?」

「俺もなかなか見ることのない貴重な石が多くて、とても楽しみよ」

 すでにいくつかの魔石が王宮に運び込まれてきているのだろう、グレンは大喜びである。貴重な資源を守るためにも兵の派遣が必要で、人が増えれば住まいも必要となる。一種の公共事業のようなものであり、特需を迎えているのだった。城下街に出かけた際にもすでに大がかりな工事が行われていた。サイカ村はその比ではないのだろう。


「僕は楽器が楽しみだな」

 橘も期待しているようである。

 クリスから聞いた魔曲のことをグレンはほとんど知らないようだったが、せっかくなので魔素を豊富に含んだ木材を加工して、楽器を作って弾いてみてはどうかと橘に提案をしたのだった。

 すでに木材は入手したが、魔素を含んだものを加工するには特別な処理が必要なのだという。それに楽器は繊細なものであるので、なおさら慎重に手をかける必要がある。

「他国の楽器職人に頼んだって話だけど」

 詳しい話は聞かせてくれなかったが、いずれにせよまだ時間がかかるということなので、橘も密かな楽しみにしているのだった。

「それより、二人とも詠唱文の候補はいい加減に出来たかい? 俺ももうさすがに待ちくたびれたよ」

「詠唱文ね……」

 グレンがふてくされた表情をしている。

 初めての魔法からすでに時間が空いてしまった。最近では吉野も橘も魔法どころではない忙しさで、たまに時間が会った時に二人で意見交換をしていただけだった。

(橘くんの方はすでにいくつもの候補はあるからなあ)

 といっても、見せられた橘の詠唱文には不穏な響きの語彙や表現が多くて、吉野は却下したのであった。ただ、橘の詠唱文を見て、日本のゲームやアニメの詠唱文の奥深さを吉野は痛感するのだった。吉野の方でも使えそうな言葉や言い回しを少しずつ書きとどめていたり、自作の詠唱文もそれなりにあった。

「どうしても攻撃に特化しちゃうようなものが多いし、それにどれほどの威力があるかわからないから困るんだよね。少なくともあの練習場よりも広くて誰も影響を受けないような場所がなければ試しに使うことだってはばかられてしまうし」

 正直な気持ちである。お試しで使って人工的な大災害など、笑い話にもならない。

「回復魔法は?」

「『かの者を癒し給え』のような簡単なものはあるけど、今ひとつ傷が癒えていくイメージがはっきりとしないというか」

 グレンにそう言いながらも、たとえば四肢を失った人が魔法によって癒えるというフィクションの世界を知っている吉野や橘にとっては造作もないことであった。さらにいえば死者が蘇るということだって概念化できないわけでもなかった。


 回復魔法は、基本的にこの世界では身体の表面をコーティングするようなものであった。回復魔法の定型文は「傷よ、癒えよ」という簡素なものであるが、傷は血の流れのことであり、それが癒えるということは血が止まるということであり、止血のレベルに留まっている。

 だから、細菌による傷の悪化や内出血の場合はあまり効果がないどころか、下手をすると回復魔法を使うことで致命傷になってしまうことだってあると吉野と橘は考えていた。グレンの話によれば、そのような単純な詠唱文でも差し出す魔素量を増やせば、治療の効果も変わるようだったが、著しい効果があるとはいえなかった。

 転移者からもたらされた医療技術や知識はいくつかあるにしても、人間の身体の細部については未知の部分が多く、このアルム国でも神秘の領域が多いようである。橘が持っていた生物の教科書に人体の図があったが、それはこの世界にはまだ少し早い知識なのかもしれない。

 大きな怪我をした場合、外科手術や専門の薬師が調合した回復薬を使うことが多いのだという。

「どこまでこの世界の知識が私たちのと一致しているかは、まだまだわからないことが多いよ。下手に使っても人体実験のようで、後味が悪いし」

「そうか。回復魔法だけでも特化した詠唱文ができたらと思ってたんだけどね」

 グレンは残念そうに言って、それじゃあねと言って去って行った。

 残された吉野と橘は昼食の時間まで二人で魔法について話し込んでいた。


「……と、グレンには言ったけど、先生には思うところはあるんでしょ?」

 グレンが去った後、橘が吉野に真意を尋ねていた。

「そうね。少なくともいろんな詠唱文ができたとして、一番まずいパターンは私たち二人にしか使えないことよね」

「先生もだいぶ異世界のことがわかるようになってきましたね」

「もう、冗談はよして」

 古い年代からやってきた転移者が、強力な魔法を使えるとなったら多少なりとも自分たちの今の生活に影響を与える危険性がある。もちろん、もうすでにその姿を一度見られているが、なんとか火消しが上手くいっているようで静かである。吉野も橘も今の生活は気に入っているのであり、この日常を脅かされたくないというのがなかなか詠唱文に着手できない理由の一つである。

「僕たちの魔素量の多さはそうだとしても、やっぱりフィクションの影響が強いんじゃないですかね」

「そうなんだよ。私も気になってこの世界のフィクションについて少しだけ学んだけど、どうやら小説とか戯曲のようなものって数が少ないようなんだよね。比較対象が多いのか少ないのかわからないけど、噂話とかゴシップは多いけど、言葉が散りばめられる表現形式やその媒体が少ないというのは、概念化と関係があるのだと思う」

「……。僕らの時代はいろんなものが映像化されてましたしね。だから、それが嘘か本当かは関係なく、一定のイメージが出来てしまうんですよね」


 たとえば、地獄の概念の場合、昔の人々は死後の世界を語り、地獄絵のようなものまで生み出して、視覚的にも凄惨な場面を作り出し、絵解きをして人々に恐怖を与えることになった。図面いっぱいに罪人がそれぞれの罪に応じて罰を受けている光景など、吉野は大学生の講義でいくつか見たものだった。

「映像の力、絵の力、つまりは視覚的な力ってすごいわよね。たとえば、日本に落とされたあの爆弾の映像なんかをもとに爆発する魔法を使ったとしたら、しかもそれを繰り返し見ている人が使ったとしたら……」

「ちょっとそれは想像したくないですね。たぶん、この王都は消えてなくなるように思います」

 戦争の兵器以外にも、自然災害、たとえば津波や大地震、暴風雨や火山の大噴火など、吉野と橘の記憶の底にはいくつもの映像が流れ込んでいる。年齢の関係上、それらを多く見てきたのは吉野の方だと思いながらも、今は何でも動画として配信されていたので単純に橘の方が少ないとも言い切れない。少なくともゲームやアニメや漫画の享受は、橘の方が多い。

「つくづく、私たちの世界は壊すことが多かったものね。だからなのかな、逆に回復魔法のイメージはフィクションの世界に頼りっきりなのかもしれない」

 天に祈りを捧げて大樹が成長していく、人々が光に包まれて傷が癒されていく、大きな攻撃から皆を守るためのバリアが張られていく、そんな記憶もたぐり寄せていく。

「傷は癒えるというよりは、元通りになるというイメージで回復魔法を使った方がいいのかもしれないですね。魔素がいろんなものに変化するというのなら、人体の組織に変換すれば元通りになるって感じかな、復元というか」

「人間の人体なんて、私たちが思っているよりも交換可能なんだろうね」

 そういえば人体を構成する元素を特定して人間を作るという漫画があったことを思い出した。

「命って案外軽いものなのかもしれないですね」

 橘も同じことを考えていたのだった。

 自己犠牲で誰かを生き返らせることができる魔法について、橘はゲームの話をした。

「でも、身体も突き詰めたら物質なんだから魔素を割り当てたらいいだけの話だと思うんですけど、魔法を使った人の生命と交換って割に合わないと思うんですよ」

「そうだね。橘くんは手に穴が空くのと足に穴が空くのと、治せるならどっち?」

 軽い冗談で言ったつもりだったが、存外真剣に考えている。

「僕は手ですかね」

「そう、私は足かな。でも、私たちの主観や好みとは別に魔法って治しちゃうんでしょ? これが脳と小指でも同程度の穴であれば同じ量の魔素消費量だと思うんだよね。まあさっき橘くんが言った話のまんまなんだけどね。魂とかがあるとして、そういうものとの関係があるのかな。稀少なものだから、それを生成するためには莫大なエネルギーが必要となる、みたいな」

「魂ですか。そんなに高尚なものなんですかね」

 自分が転移をしたという事実からすれば、魂という存在も認めてもいいのかもしれないと吉野は考えていた。現に転移の最中に肉体が作り替えられたとするならば、魂は別個に存在するのではないかとも思える。

 しかし、橘の言う通り、仮に魂というものが存在するにせよ、それだけの価値があるのかは正直わからない。うっかり死生観や宗教観にもつながるこの手の話は、この世界の人間だけでなく地球出身の人間とも議論になる。ケルナーの講義によれば、来世や転生を語る宗教もあるようだ。もちろん、「神隠し」という言葉に包まれた人さらいや人狩り、誘拐のようなことも起きているのだった。

 こうして橘とざっくばらんに話ができることは、吉野としては普段通りの生活では決して知り得なかった生徒の一面を知る良い機会であると内心会話を楽しみにしているのだった。

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