第18話 ジーノ
昼食を二人で食べた後は自由時間となる。最近では講義は午前だけに留まっている。ケルナーも多忙らしく、また安易に講師を変えることもよくないというマルクスの判断があった。いろんな講師がいた方がいいのではないかとも吉野は考えていたが、その判断に従った。
「それじゃあ、私は身体を動かしに行きますか」
「あ、じゃあ僕も見学してます」
吉野は動きやすい服装に着替えて、練習場に向かっていった。
戦争はなくても、いつ何時何が起きるかわからない世界なので、王宮では兵が男女問わず訓練をしている。便利だからといっても魔法は万能ではないので、身体の強化も必要なのだ。
魔法兵は身体を鍛えないことが多い。マルクスはそうでもないが、グレンは特に顕著である。
「魔素量が多いとある程度の身体強化もできるんだよ。だから俺は鍛えなくていいの」
グレンからその話を聞いた時には「まさか」と吉野は思ったが、実際その通りだった。
魔素は魔法だけに使われるものではないようだった。グレンの言葉によれば、人体の魔素量が多い人間の場合は意識をしなければ垂れ流しのような形で身体を魔素が覆うのだ。そしてそのままの状態だと地面や大気などの自然に還元、吸収されてしまうだけであるが、魔法を使いこなしている人は外に逃がさずに魔素の操作である「魔力操作」という方法を会得してコントロールするのだという。
「僕らはどうなるの?」
橘がグレンに聞くと、吉野と橘も例外ではなく、垂れ流しに近い状態だった。だから、意識して魔素を供給しなくても吉野と橘が魔法を使えたのである。
しかし、それぞれ二人が魔法を使った後に、「魔力操作を」というマルクスの指示によって、二人は体内の魔素を外に出さずに身体全体に巡らせて循環させる練習をグレンに教えられたのだった。最初に習ってからもう数か月は経っているため、馴染んでいると言ってもよかった。
「今はそこまで心配しなくてもいい、っていうか、二人はどんな精神統一をしてるんだ? 普通、そこまで早く習得できるもんじゃないんだぜ」
魔素という地球にはなかった物質を二人が明確に感じ取れたわけではなかったが、二人の中にはそれぞれ二人だけの特別な集中法があった。
頭の中を空っぽにするわけではなく、他の雑念をなるべく無くして、しかしゼロにするのではなく、ただ一つのことを思い浮かべる、という平凡な思考法は、他人が見れば非凡のなせる業である。
「私は自分が試合や組み手、乱取りをするときに心を落ち着かせるようにやってるだけだけど、橘くんは音楽?」
「そうですね。風薫る草原の中で一人でバイオリンを弾いている自分の姿を見つめている、って感じですかね」
「あとは、徹夜で読み更ける読書みたいに、もうそれ以外はない、って感覚でやってる感じかな」
あえて二人に違いがあるとすれば、吉野は雑音が耳に入っても影響を受けることはなく、逆に橘は雑音によって乱れやすいところである。
雑念は魔素を霧散させ、一念は魔素を凝縮させる、簡潔にグレンは説明をした。
「言葉によって方向付けられる魔法は、強固な概念とセットで発動をするけど、二人はそれぞれ強固な概念を思い浮かべる鍛錬が元の世界でもできていたんだな」
素直にグレンは感心をしている。
「そういわれても困るんだよね。あまり実感がないし」
橘が発動した強力な魔法を防いだ時も、同じだった。あの時はただ祈りに近いものだったことだけは吉野は覚えている。
「循環した魔素が適度に身体を覆ってるよ。まあ、俺たちとしては二人の魔素がこの国に流されても良いと思ってたんだけどね」
「私たちは資源じゃないのよ。失礼しちゃうな」
グレンの口調にはすっかり慣れっこだった吉野は少し怒るそぶりをして答えた。
「はは、ごめんごめん。暴走されるよりよっぽど良いよ」
これまでの転移者はいわば未来の地球の知識や技術の方に注目されていたが、今の二人は魔素量の方に、魔素の活用法に期待をされている。含みを持たないグレンの言葉からはそのような意味に受け取れる。
マルクスの考えはわからないが、この国の王族が自分たちを自由に生活させているのはそのような狙いもないとはいえないのではないかと吉野は考えていた。
(何よりもこの国の王様が私たちと会おうともしないのよね。そういうものなんだろうか)
橘とも少しその話題になったことがある。
うぬぼれでもないが、転移者が現れたのに一国の王が自分たちに接触してこないのは気になっている。一国の王だからこそ容易に動けないということもあるだろうか。
さすがに他の人間がいない時に話をするだけであったが、一方で自分たちを世話をしてくれる人間やこの国に対しては申し訳ないという気持ちもある。
そして、自分たちが危害を加えられることは少ないと言ったマルクスの言葉は、果たしてどこまで真実なのか、十分に怪しいようにも吉野には思えてきた。
(悪い人間じゃないというのはわかってるけど、そのままを信じることができないというのは辛いな。何か考えがあるからなんだとは思うけど)
この手の質問はグレンにはしたことはない。たぶん、グレンに訊けば求めていた以上のことを口に出すと吉野は思っていたが、それはマルクスの好意に対して不誠実であるように思えて、躊躇してしまうのだった。
吉野は元々身体を動かす人間だったので、マルクスに相談をしていくつか訓練を紹介された。
「訓練ですか、あなたが? 魔法ではなく?」
いぶかしげに吉野を見たマルクスだったが、もちろん、ここにクリスの口添えがあったことは言うまでもない。
武器を使う組み手が多いが、武器を持っていない場合の組み手もある。吉野は武具を扱うことは拒否し、マルクスもそれには渋い顔をしたので、互いに素手で相手を倒す格闘術の訓練に参加している。
(空手はやったことないけれど、案外面白いものね)
最初は女性同士だったが、今では男性と組み合っている。
グレンの言うとおり、自分にも身体強化の兆しが見られるからだろうか、不思議と力量の差を感じることがない。
(面白い。地球にいた時より身体が動く)
練習は相手の肩や背中を地面につけた方が勝ちである。投げたり相手の身体を崩して足をかけたりする小技を吉野は得意としている。この世界にもいくつかの流派があるらしいが、投げ技や小技にそれほど大きな違いがあるわけではなくパターン化されているので、相手の動きや仕掛けてくる技、それへのカウンターもある程度は対処可能である。橘の耳が良いように、吉野は目が良かった。たいていのスピードは見切れる。顔面への攻撃が来ても、目をつぶることは一切なかった。
今また一人、男が軽く投げられたのだった。
「俺やっぱりどこかとろいんですかね。ヨシノの動きに翻弄されっぱなしで」
この男はこの練習場でしばしば相手をすることになったジーノという。
「ジーノは素直過ぎるんだよ。フェイントも適度に入れなきゃ相手はなかなか思い通りに動いてくれないものだよ」
「素直過ぎる……ですか。昔から言われてます」
「性格ってなかなか変わらないものでね、悔しいかもしれないけど、今はいろんな技を受けるのも勉強だと思うよ」
聞けば吉野よりも数歳年下のジーノであるが、この国の兵士としても優秀な人間なのだという。吉野はジーノと組み合うことが多かった。
当初、二人の出会いは好ましいとはいえないものであった。
吉野が女性の兵と戦い、何度も吉野が軽く投げていたのを練習場の兵たちは眺めていた。吉野の一つひとつの技を評価する者、相手の弱点を喝破する者、ただただ賞賛する者などがいたが、ジーノはそうではなかった。
「どうせ遠慮してるんだ」とか「転移者だから傷を負わせないようにしているんだ」とか、そのような不平の交じった声があったのを吉野は聞いていたが取り合おうとは思わなかった。
一方で、ジーノの存在を確認してから練習風景を眺めていた吉野は、「この人は強いな」と感じていた。たぶん、この中でも上位の強さだろうと思っていた。
お互いの存在を認識しつつも、そのまま練習を終える日が続いていた。
(なんだか居づらくなっちゃってるな)
ここでの練習はあまり良いことではないかもしれないと思っていた吉野だったが、ある時「女のくせに」という声が耳に入った。
声の方向を見ると、ジーノが他の兵と談笑していたのだった。冗談の中でつい口から出てしまった言葉なのだろう。きっとにらむとジーノも負けずににらみ返してきた。この時、初めて二人は対峙したといえる。
ただし、負い目を感じているのかにらみ合いではジーノが負けていた。
怒りではないが、理不尽さには辟易していた吉野は、ついにジーノの前に歩み寄ってきた。
「お相手願えますか?」
「なぜ俺が?」
初めて口を交わす相手が攻撃的なのに軽い驚きを覚えているのか、ジーノに戸惑いの色がある。
「戦えば相手の力量がわかるはずです。それとも私が相手では遠慮してしまいますか? 転移者だから? 女だから?」
鈍いジーノもさすがに吉野の言葉が挑発だということに気がついた。
その日はマルクスもグレンもおらず、知っている人間といえばクリスと橘、そして何度か練習をした女性兵たちだけである。
吉野がクリスの方に顔を向けると、何も言わずに目で「やってみよ」と合図があった。それはジーノに対しても同じだった。クリスの横にいる橘が少し不安そうな表情を浮かべているのが吉野の目に入っていた。吉野は橘に「大丈夫だよ」と無言で伝えた。
「負けても文句は言うなよ。全力でいくからな」
「私としても全力でお願いします。じゃないと意味がないから」
始まってすぐにジーノは左腕を前に出してつかみかかってきた。
(やっぱりこの人、私の試合をよく見てたのかも)
ジーノに感心した吉野だったが、すぐに相手の左腕を弾く動作をして距離をとった。なおも同じように攻撃をしかけてきた。吉野が投げ技を出すのは、決まって相手が右腕を前方に出した時だった。これは酔っ払いの男への投げ技と同じ技である。
右腕さえ守れば、投げられることはない、ジーノはそう踏んでいた。これがジーノの分析であり、そして油断であった。
再度、ジーノが左腕を出した時、にやっと目の前の女が笑ったように見えた。
(なぜ笑った……?)
二人からは見えなかったが二人の試合を見ていたクリスもこの時、誰にもわからぬよう笑みを浮かべていた。
瞬時に何かおかしいと感じて防御態勢に入ろうとしたジーノだったが、判断が遅かった。次の瞬間には左腕を引くことができず、それどころかただただ前方へと身体全体が流れていく感覚しかなかった。
吉野は右腕と同じように左腕を引き込んでジーノを投げたのだった。
自分の身に何が起きたのかジーノにはわからなかった。背中には軽い衝撃を受けただけだったが、今起きたことに理解が及ばないことの方が大きかった。
「私、こっちの投げ込みの方が得意だから」
利き手の違いにどれほどの意味があるのかを上手く理解できなかったが、笑みを湛えて吉野は左手をジーノに差し出した。静かにその手をとって立ち上がって、一言「すまなかったな」とジーノは吉野に言ったのだった。
もともと性格に暗いところのないジーノは、それ以来、吉野には心を開いていった。最初こそぎこちなかったが、今では普通に会話もできる。ぞんざいだった口調も、吉野に対しては謙虚さを含むものに変わっていった。
吉野の方は、それまで溜めていたことをジーノに言っていた。
「ジーノはもうちょっと相手のことを考えなきゃ。たとえば……」
そう言うと、相手を投げた後の処理の仕方について説明をした。投げた方が何も考えずに投げたら、相手は受身をとれずに大怪我をしてしまう。特に、地表に落とされれば後遺症も考えられる。
「だからね、投げた後も相手の腕は放さずにきちんと自分の身体の方に引いてあげるだけでも、相手の衝撃は和らぐものなんだよ」
まあ、投げられた回数が多ければ多いほど、上手く処理ができるようになるんだけどね、と吉野は付け足した。
「でも、試合には勝者がいる」
このあたりの感覚はこの世界と地球の武道の精神とでは異なることはむろん吉野も理解しているつもりだった。練習といっても、本番は殺し合いになるのだろう。相手を慮ることなどあっては却って命を落とすことにもなる。
「でもね、試合は相手がいるんだよ。こういうことって一人じゃできないんだから」
武道に限らず、個人戦でも団体戦でも相手へのリスペクトがあって成り立つのが地球のスポーツの精神である。それが著しく欠いた試合は、吉野の中ではもはやスポーツとは言えないものであった。
スポーツ感覚の吉野と、実践を重んじるジーノとの違いであり、その垣根が乗り越えられないところもあるだろうと思いながらも、たとえ建前だとしても、こういう練習の場だけは相手をいたわる精神を忘れたくない吉野だった。
「お、そうだ。よく効く傷薬を手に入れたんです。擦り傷が多いでしょうから」
ジーノは吉野に傷薬を渡した。何かの印のあるケースに入った黄緑色の薬だったが、擦れた所に塗っていたら次の日には傷がなくなっていた。
(この世界の傷薬ってすごいのね)
吉野はすっかり感心していた。
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