第12話 夢の世界

 吉野と橘は、それまでは一日中一緒に講義を受けていたが、午前中は共通の講義を受け、午後からはそれぞれ違うカリキュラムとなった。

 吉野は主に言語体系や魔法について学び、橘は楽隊への賛助さんじょ、アドバイザーとなっていた。ヴァイオリンを橘が弾き、トニーがピャーノで伴奏するということもやっている姿を何度か見た。

 ケルナーがマルクスたちに言ったのか、橘にぴったりの楽隊の制服や、さらに演奏会の正装を用意していた。一度だけ袖を通した姿を吉野は見た。橘がどこか遠くにいるように思えた。


「橘くんには才能があっていいなあ。私は音楽方面はからっきしだから」

「でもコーミにも言葉の知識があるんでしょ? そういう仕事だってカナタが言ってたよ」

 今、吉野の相手をしているのは、グレンである。人との距離感が近い彼は、二人を名前で呼ぶようになっていた。こういう距離の詰め方をする生徒がいたなと別の生徒を吉野は思い出していた。

「この世界からしたら私の持っている知識なんて死んだようなものばかりだよ」

 自分で自分の職業をおとしめることに落胆する。しかし、それは事実のように思えた。

 元の世界の職業の知識や体験が何にもならないことに気落ちしている吉野であるが、グレンはそうは見ていない。マルクスも橘も実はそうは思っていなかった。

「そうかな? 少なくとも兄さんや俺よりもカナタの魔法に危機感を覚えたのはコーミの方が早かったよ」

 長い髪をさっと耳元で整えながら、グレンは言った。ささいな仕草でも絵になるものなのだなと吉野は思った。

「どうだろ。言葉と概念との問題は興味があるというか、そういう職業だったからというのもあるのは確かだけど」

 グレンから教わったこの世界の魔法は、火の魔法と同じように言葉をきっかけにして魔素が変換されていくものであった。すでに火と水と風の魔法については見ていた。他にも橘が土や光の魔法を使ったのを確認している。

 それぞれの魔法は、発生させるべきものの名前をつぶやき、そしてそれをどう変化させるのか、という単純なものである。

 「○○よ、□□!」というのが定型文のようで、後者は「飛べ」以外にも「広がれ」「閉じ込めよ」「飛び上がれ」「貫け」など、いくつかあるが、「○○」の物体がどのように動くのかを命令する言葉が大半のようだ。

 その動きもまた概念化する必要がある。静的なものの概念化よりも動的なものの方が難しいようである。五感の中でも視覚による情報把握が重要になる。

 たとえば、「飛ぶ」の場合は吉野は漠然ばくぜんと矢をイメージするが、どうやらこの世界ではそのイメージを抱くことはせずに違うものを思い浮かべるようだった。それは鳥であったり、風に飛ばされた塵であったり、多くは自然現象である。もちろん、吉野と同じ映像を浮かべる者はいる。ただ、吉野の場合は映像で実際に何度も見たことがあり、その記憶が強いために「飛べ」に迷いがないのであった。

 地球では映像の繰り返しが常である。プロのアスリートの名場面を視聴者の意思とは無関係に何度も流す。意思に関係したら何度でも流れ続ける。

 映像の時代、いわば視覚の時代に生きている吉野と橘の二人は、この点でもこの世界の人間より魔法の行使が容易だったのだが、それがわかるのはもう少し先のことである。



渾沌こんとんより生まれでたる冥界めいかいの王よ……」

万斛ばんこくの涙をすすり、数多あまた禍殃かおうにえとし……」

煉獄竜れんごくりゅう炎舞えんぶもって、我が前にあだなす愚かな者を蹂躙じゅうりんせよ!!!」



けまくもかしこ大御神おおみかみ……

 諸々もろもろ禍事まがこと・罪・|穢《けがれあらんをば……

 はらえ給ひ清め給えともうすことを

 聞こし召せとかしこみ恐みも白す……

 天にします我らが神よ……

 かの者の深き慟哭どうこくこたえ……

 最愛なる慈悲を以て受け容れ給え……」



 あの日、自分と橘が口に出した詠唱文をノートに書きとどめて何度も読み返す。

「『最愛なる』は『最上なる』『至上なる』の方がいいのかな。『我らが』よりも『我らの』の方がいいのか、いやここは『我らが』の方が雰囲気が出るよなあ。『慈悲の涙」にしたらどうなったんだろう。私の魔法で全てを受け止めきれなかったから空に逃がした……のか?」

 気になっているのか吉野は自分の即興の詠唱文の添削てんさくをしていく。どこか自分が中二病と呼ばれる病に陥ってしまったのではないかと思うほどに、この頃から詠唱文の文言を考えることが増えてきた。

「俺には違いがよくわからないんだけど、そんなに差があるもんなの?」

 グレンの言いたいことはわかる。傍から見ればささいな違いに過ぎないのだろう。

 実際、橘や吉野の言葉の一部は、グレンには上手く聞き取れていないようであった。

 魔道具の効果で吉野と橘の二人も話す言葉も聞こえる言葉もエリュミ語であるが、不思議なことに、グレンには聞き取れない言葉でも二人は通じ合っている。たとえば、吉野が話す『慟哭どうこく』という言葉はグレンには「ドウコク」に似た音が聞こえるにせよ意味は理解できない。しかし、橘には『どうこく』と聞こえて意味も理解できている。同じように『万斛ばんこく』という橘の言葉を、吉野は『ばんこく』と聞き取れて理解ができている。

(転移者同士には通じているということ?)

 つまり、翻訳魔法では変換できない語は日本語としてそのまま処理される。したがって、吉野と橘は腕輪を付けてエリュミ語を話し、聞いているが、日本語の場合も理解ができているということになる。

 目の前で強大な魔法を見たにもかかわらず詠唱文の差異に注目しないのは、二人の際限ない魔素の方に秘密があるとグレンが考えていたからである。


「そうだね。たとえば橘くんの詠唱文の『渾沌より生まれ出でたる冥界の王よ』なんかは、『渾沌から生まれ出た冥界の王様よ』でもいける。微妙な違いだけどね。その違いがどう魔法に影響するかはわからないけど」

「へぇー。それって重要なことなのか。俺には同じに聞こえるけど」

 橘からは彼自身が知っている詠唱文をいくつか教えてもらってノートに書きとどめていた。橘がほとんど暗誦しているのには舌を巻いたが、頭の出来は雲泥の差であった。吉野も参考にして自作の詠唱文を作っている。

 日本語で書いているので吉野と橘以外には誰も読み取れない。

 教えてもらったゲームやアニメの詠唱文の韻律や修辞技法などについても考えてみる。

「なんていうんだろうな、教えてもらったこの世界の詠唱文って素っ気ないというか、よく言えば飾りのない言葉だと言えるんだけど、少し面白みに欠けるというのかな……」

「面白みねぇ……」

「面白さを追求して甚大じんだいな被害が出てしまったら元も子もないんだけどね」

 あの日、せっかく使えた魔法なのに、橘が少なからずショックを受けていたというのが吉野にはずっと気にかかっている。あまり危険のない詠唱文であれば、自信にもなるだろうし、賢い彼だから自分よりももっと良い詠唱文を思いつくだろうにと吉野は考えていた。今は音楽の方に集中しているので問題はないとはいえ、なんとかできないものかと悩んでいた。

「まあ、まずは短い詠唱文から作ってみるのが一番いいと思うよ」

「やっぱりそうよね。それに、火とか風のように被害が出そうなものはやめて、もうちょっと癒やし系で進めた方がいいのかも」

 癒やし系、自分でそう言ったもののどういう方向性の魔法になるのかは定かではない。

「回復魔法や支援魔法なら需要はあるね」

 回復魔法は傷を治す魔法であり、それはある程度想像ができる。

 しかし、支援魔法の方が今ひとつピンとこない。グレンの説明では、たとえば敵からの攻撃を防いだり軽減したりするものがあり、これは先日マルクスとグレンが張った結界が当てはまるという。

 その後、橘に話を聞くと、「仲間の攻撃力や防御力、素早さをアップさせたり、逆に敵のをダウンさせたりするもの」と説明をされ、前者は「バフ」、後者は「デバフ」と呼ばれることがあるようだった。「ゲームでは基本ですよ」と言っていた。


「いろんな魔法がないといけないんだね」

「だって、夢の世界からの侵略もあるわけだし」

「夢の世界?」

 これはケルナーから聞いたことのない話だ。

「まだ習ってなかったのかな。えっと、俺たちのいる世界はここにあるわけだけど、どうやら別の世界もあるらしいってことは言われていて、それを俺たちは『神の夢』とか『悪魔の夢』とか、そんな名前で名付けているわけ。で、空間に亀裂が発生して、たとえば『悪魔の夢』の世界から魔物がやってきたら、戦うんだよ。元々この世界にも魔物はいるけどね」

「私のいた世界も夢なのかな。ただ話を聞く限りでは、私たちの世界と同じように、この世界にやってくる存在がいるってことなんだろうね」

「比喩的な表現だけどね」

 科学的な根拠はないが、宇宙空間の画像がまるで一つの大きな生命体の一部であり、私たちはその中のとても微少な存在であり、反応なのである、そんな話を聞いたことがあったのを思い出した。

 あるいは人智を超えた存在の夢の世界に自分たちが生きているともいえるかもしれない。


「何が現実かわからないね。胡蝶こちょうの夢みたいな話ね」

「何、そのコチョウの夢って?」

 『荘子』と呼ばれる作品に「胡蝶の夢」という有名な話がある。

 荘周そうしゅうという人物がある時、蝶になった夢を見て、楽しそうに飛んでいたが、自分が荘周であることの自覚はない。

 その後、夢から醒めた荘周が考えたのは、自分が蝶になった夢を見たのか、それとも蝶が自分になった夢を見ているのかということであった。

「だから、今グレンくんはこうして私と話をしているけど、実はグレンくんは蝶であり、蝶が見た夢の主人公であり、私も蝶であるグレンくんが見た夢の世界の住人ではないか、という話にもなる」

「そっちには不思議なことを考える人間もいるんだな。夢と現実の境界線ね」

「自分が何者であるかという確乎かっこたる根拠に乏しいという話としても考えてもいいのかもね。それにしても魔物の侵略か。人類が争っている場合ではないんだろうね」

「でも、人間の欲望ってとめどないからね」

 その冷たい言葉にギクッとする。ケルナーからこの世界の外交関係についての説明を思い出す。

 吉野たちのいる国はアルムと言い、大陸というよりは海に囲まれた島国である。そのため、外国と陸で接してはいないため、滅多なことで戦争ということが起きるわけではないということである。

 しかし、実際には他国では領地争いや資源を獲得するための侵略戦争は起きている。その際に転移者の技術が利用されているかはわからないが、もしそうだったとしたらその時の転移者の心境はいかばかりのものだろうか。

「どこの世界にもいつの時代にもそんな人間はいるものなのね」

「それが人間だから」

「それも人間だから、かな」

 人間だから、と使われる時の「人間」は愚かで失敗もし、多くの苦汁を嘗め、小さな存在でありながらそれでも内に大いなる可能性を秘めている、という意味にも使われる。グレンの場合はどうだろうか、醒めた目の人間観に思える。

 時折どこか達観している表情を見せるこの少年はこの世界をどう見ているのだろうか、そしてどうしてそのように見つめるのだろうか、と吉野は思った。


「そうそう、今はこの国はホットスポットだからね。熱いよ」

「ホットスポット? どうして?」

 グレンがいきなりカタカナ語を使うので、面白いなと思った。

 エリュミ語にはホットスポットという意味の言葉があるのだろう。それをホットスポットと翻訳して理解させる未来人の魔法は偉大である。

「まず、コーミたちが転移してきたからこの国の魔素量が増大したこと、そのために魔素が凝縮した良質な魔石の発掘が盛んになったり、大きく成長した魔物を討伐したり、つまり資源が豊富になったってことかな」

 魔素が様々な影響を与えるということは聞いていた。転移者には需要がなくても転移者が落ちた場所には需要があるのである。むしろ、普通に生きている人にとっては転移者のことなどどうでもいいのかもしれない。

「それと、あのカナタが使った魔法は上空で霧散したけど、あれも大気や雨に形を変えて、この国に恵みをもたらしていると思うよ」

「へぇ。魔法って省エネなんだね」

 「省エネ」という言葉もエリュミ語で翻訳可能の言葉であるようだった。

 考えてみれば、魔素だって世界に無尽蔵むじんぞうにあるものではないのだろう。いつか尽きてしまうこともある。ただ、過去に度々転移者がこの世界に来ているのであれば、転移とともにもたらされた魔素量の総量はいかほどのものだろうか、それはきっと無尽蔵に近いものがあるのではないのだろうか。

 もしあの時、「消えよ!」のように魔法をなかったことにする詠唱文にしていたら魔法と一緒に魔素も消えていたのだろうか、そんなことを吉野は考えていた。

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