第11話 異世界の楽器

 ケルナーの講義は20日ほど続き、定期的にマルクスやグレンが顔を覗かせていた。

 詰め込みすぎるのも良くないということで休みの日も設けられたが、休みがあるからといって吉野にはやることがあるとはいえなかった。

(文字も読めないんじゃ、一人で読書もできないし……)

 したがって、吉野は私物の本をパラパラと読み返すことが多かった。トートバッグに入れていたのは、辞書類や事典類に偏っていた。あの転移をした日に、帰宅後も授業準備をしようと思っていたため、純粋な小説というものは別の場所に置いたままだった。

 ただ目的のない辞書引きは眠気を誘うだけのものだった。一冊だけ持ち込んでいた文庫本を繰り返し読んでいた。

 一方、橘はこの世界に持ち込んでいた楽器、ヴァイオリンの練習は欠かさずに行っている。

「マルクスさん、ちょっといいですか?」

 橘はマルクスを呼び止めて、楽器の手入れのための道具について尋ねていた。幸いなことに、この世界にも弦楽器はあり、橘の求める道具もあるようだった。それを聞いて橘はひとまず安心したようだった。

 また、この世界の音楽や楽器について興味を抱いていた。

(橘くんにはいろいろとあったけど、音楽だけは手放さなかったんだよね)

 自分とは違って日課があるのはうらやましいと吉野は感じていた。


 ケルナーの講義の中で、文化や伝統の話の際に音楽のことが話題となった。

 かつて音楽家の転移者がいたのか、それともこの世界で自然に発生したのか、あるいは両者が融合したのかははっきりとわからないが、地球の楽器に似たものは数多く存在していた。ケルナーが持ってきた図録にも地球で見たことのある楽器に似ているものがあった。

 存外興味を抱いていた橘にケルナーが言った。

「それじゃあ、今からちょっと行ってみます?」

「いいんですか?」

 いいのいいのと、ケルナーの提案で、音楽棟に顔を覗かせることになった。

 広い王宮の全容はまだわからなかったが、目的の部屋に近づいていくにつれて楽器の音が大きさを増して聞こえてくる。

 楽隊というのだろうか、音楽は一つの文化としてこのアルム国には定着しており、王宮内にもその部署がある。

 ケルナーを先頭にして入っていき、目に付いた楽器のもとに近づいていった。

「これ、やっぱり転移者が持ち込んだ知識がもとになっているんじゃないんですかね」

 橘がピアノらしきものに触れていた時のことだった。

「どうしてそう思うの?」

「だって、黒鍵の位置が地球のと同じですし、鍵盤も88だし」

 確かに地球にあるピアノとよく似ている。音楽方面には疎い吉野も、そう感じた。それに名前が「ピャーノ」という楽器のようだから、その可能性は高いように思える。

「ケルナーさん、これ弾いてみてもいいですか? あ、いや関係ない人間が弾くのはまずいですかね」

「それはいいけど……橘くん、もしかしてそれ弾けるの?」

「たぶん」

 鍵盤に両手で触れて感触を確かめていた。

 そこは楽器庫というよりはもっと広い小さなホールと呼ぶべき部屋であったが、中にはすでに何人かの楽隊の人間がいる。

 吉野たちの姿を見ると、全員急に音を出すのをやめ、転移者が何をするのか、興味津々の様子である。

(転移者だっていうのはこの人たちにはもう知られているよね。勝手に弾いちゃってもいいのかな)

 吉野の心配をよそに、ケルナーはその楽器を扱う人間に許可を得ようともせず、橘に許可を出した。

 すると、橘は順番にゆっくりと3つの音を弾いた。

 これは吉野にもわかった。基本の音だ。

「ドレミ、ね」

 吉野が橘に聞くと、橘はなぜか笑っている。

「何を笑っているの?」

「いや、昔のことを思い出しちゃって」

「昔のこと?」

「先生、なんで僕が『ドレミ先生』って呼ぶのか不思議がっていたでしょ?」

「うん、今でも不思議なんだけど、絶対に答えてくれなかったよね。卒業したら教えてあげると言って」

「まあ、もう卒業の可能性は低いから答えちゃいますけど、先生の名前、『香実』って、あれ僕には『ドレミ』って変換されるんですよ」

「えっ、そうなの?」

「ええ、そうなのです」

 話には聞いたことがある。絶対音感、共感覚、というものと関係があるのだろうか。吉野にはその方面の知識がないので詳細はわからないが、確か有名なアーティストがそのようなことを本に書いてあったのを覚えている。

 しかし、橘が自分のことを名前で呼んでいたということだけはわかった。彼にしかわからない方法で。

「はあ、なんだそういう理由だったのね。もっと深刻な理由でもあるかと思ったよ」

「へへ、疑問が解決されて良かったですね」

 この世界にやってきてからの橘はどこか開放された感じを受ける。彼の中で密かに背負っていたものから解放されて自由になったのだと思えば、異世界にやってきたとはいえ喜ばしいと思う。


「何だ、冷やかしかよ」

 室内から誰かの声が冷たく聞こえてきた。声の方に目を向けると、鋭い目つきの楽隊の人間がいる。わざと聞こえるように言ったのだろう。

 少年、いや青年の顔立ちだろうか。吉野よりは橘の方に年齢は近い。

(せっかくの練習中に突然やってきて、ドレミしか弾かないなんて、何やってんだって思っちゃうよね。あの人がこの楽器の管理者かな)

 なんだか申し訳ない気持ちになって、吉野は頭を軽く下げる。

 一方、ケルナーもその人物に向かって鋭い目つきでキッと睨みをきかせていた。青年がケルナーの視線に気づくと、やばいという顔をして姿勢を正していた。

「すみません、僕のわがままで……」

「いいのよ、橘くん。あの子、悪い子じゃないんだけど、音楽にはちょっとうるさくてね」

 ケルナーは明らかに青年に聞こえるように声を大きくしながら話していた。

 ちょっと、ケルナーさん、と吉野が抑えようとするが、ケルナーは意地悪く青年を見ていた。

(二人は知り合いなのかもしれない)

 このまま険悪な空気になってしまうのもよくないと思ったので、吉野は橘にリクエストしてみた。

「せっかくだから、一曲何か弾いてよ。このままじゃ、ちょっとあれだしね。それにしても思い出すね、去年の校内合唱コンクールの伴奏……」

 あれも橘が弾いていたんだなと吉野は少しずつ思い出していく。

「ああ、先生ブチ切れた事件ですね!」

「忘れてよ、あの件は」

 言葉につられて、その時の記憶が鮮明に蘇ってきた。

(あれから一年も経つのか……)


 初夏の季節のとある日の放課後、クラスで伴奏者を決めることになったが、誰も手を挙げなかった。

 クラス単位で合唱をし、半日かけて近くのホールで全校生徒が歌うイベントだった。

 元々新しいクラスになって、早い時期に生徒たちの親睦を深める狙いがあったということで、伝統的な行事なのであった。

 社会情勢に鑑みて前年度は中止となっていた。社会の風潮から今年度も中止だろうと考えていた教員も多くいたが、教員の中には是が非でも行事を決行しなければならないと生徒よりも躍起になっている人もいた。保護者も参加して鑑賞することのできる行事であるため、もちろん保護者からの要望も強かった。

 結局、全校生徒が一同に集まることはせず、時間をずらして学年単位で開催することが条件となって決行されたのが昨年度の校内合唱コンクールだった。

 吉野は伴奏ができる子は把握していたが、担任からの押しつけというのも心苦しい気がして、生徒たちで話し合わせたのだった。

 大会前で早く部活に行きたくてうずうずしている生徒たちは弾ける女子を指名して、「決定決定!」と騒いでいたが、その子は絶対に嫌だと拒否していた。

 後日、吉野がその生徒に話を聞くと、中学生の時にも同じような合唱会で伴奏をしたことがあって、本番でミスをしてクラスメイトから心ない小言を言われたことがショックだったと事情を語った。

 その事情を知らなかったが、流れでその子に決定しそうになり、この流れは良くないと思った吉野が一言言おうとしたら、すっと「僕がやります」と手を挙げたのが橘だった。

 芸術の授業で音楽を選択していた生徒たちの中には橘がピアノを弾けることを知っている者はいた。吉野も音楽科の教員から「橘くん、いいですよ」と褒め言葉を受け取ったこともあった。

 吉野はこれなら大丈夫かなと思ったのだった。

 しかし、最初に指名された女子生徒がほっとしたのも束の間、続けて男子生徒が冗談めかして「男子がピアノ?」と茶化しながら底意地の悪い笑顔をたたえて言った言葉が耳に入った瞬間、吉野の中で何かがはじけた。

 これが橘の言う「先生ブチ切れた事件」である。


「武勇伝ですよね。あれからクラスもなんとなくふざけた感じで何かを決めようってことも少なくなりましたし」

「それはそうだったけど……」

 その時、吉野はその生徒たちを怒鳴りつける、ということはなかった。

 ただ「男性がピアノを弾くことの何がそんなにおかしいの?」「男性でもプロのピアニストだって沢山いるじゃない?」「バンドでもキーボードを男性が弾くのは珍しくないでしょ?」と理詰めで追い詰めていったのだった。

 高校に入学して間もない生徒たちには、そんな吉野に新鮮な怒りの姿を見たのであった。それは何がその人を怒らせるのかに配慮する危機アンテナを身につけたともいえる。

「……でも、あれは僕も嬉しかったんですよ。だから、あの時はとっても楽しくピアノを弾くことができました」

 橘が感謝しながらそう言い終えると、吉野でも聞いたことのある曲が奏でられていった。

(これってクラシックの世界で有名な曲よね。確か、相当な難曲で知られているはず)

 吉野の思いとは裏腹に、橘は軽やかに弾き続けていく。

 表情が、あの魔法を使った時のものに似ていると吉野は思った。

 まるで、感情が顔から吸い取られ、腕に、指、そして音に還元されていくかのようだった。誰も音を立てない部屋に橘の音色が広がってどんどん敷き詰められていく。

 それはわずか数分程度の曲であった。

「ちょっと間違えちゃいました」

 声をかけるのも躊躇われた吉野だったが、「すごい」とありきたりな言葉で褒めようとしたら、近くにある別の影に気がついた。

 いつの間にか、先ほどにらんでいた青年が近づいてきている。敵意とは違う、しかし挑戦的な目をしている。

「どうやったんだ?」

「えっ?」

 橘は少しうろたえていた。何か踏んではいけない地雷を踏んだかのようである。

(これ、まずいパターン?)

 すぐに仲裁しようと思ったが、ケルナーが「このままでいいから」と吉野を制止した。

「だから、最後の、この部分だよ! どうやって弾いたんだ? どうやったら弾けるんだ?」

 青年は橘の隣に近づき、終盤に弾いていたフレーズを再現していた。どうして一度しか聴いていない音を再現できるのか、吉野には不思議で仕方ない。

「ん? ああ、ここはね、ちょっとコツがあってね……」

 涼しげな顔で橘は弾きこなしていく。青年が弾いた時には聞こえない音が混ざっている。

「じゃあここは?」

「ここはこう展開して、こうやれば解決するようになるよ……」

 青年と橘は交互に弾いていく。

 すると、堰を切ったかのように青年以外の楽隊の人々が橘を囲むように集まってきた。興奮気味の楽隊に若干恐ろしさを感じたが、橘が満更でもない表情を浮かべていたのでそのままにした。

「あの子ね、私の弟なんですよ」

 本当、音楽馬鹿なのよ、とケルナーは笑いながら言っていた。

 ケルナーの弟はトニーと言い、この日の出来事をきっかけに橘と交友を深めていくことになる。

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