第10話 ケルナーの講義

 箝口令かんこうれいのおかげなのか、王族であるマルクスやグレンの影響のせいか、練習場での一件は大きな話題にはならなかった。

 それどころか、事情を全く知らない人間には竜が空に向かって行くという瑞祥ずいしょうや奇跡の話として伝わっていった。王城にかかる虹を見た者の中には、わけもなくじわっと落涙する者もいた。

 その時に急激な魔素の変化に気づいて王城の練習場を偶然見た数名の人々の中には、黒竜から聖竜、そして虹に変わる姿を記憶に刻んでいた。


「竜っているんですか?」

 翌日からは多忙のマルクスに替わって、別の人間が吉野と橘に講義を行っていた。主に世界の地誌に詳しいケルナーという若い女が講師である。吉野よりは数歳ほど年上のようである。

「竜はいます。といっても、人里に現れるような存在ではありませんね。私も小さいころに見たことがありますが、言葉では表現し尽くせませんね」

 竜、と言われても二人はフィクションの中でしか見たことはない。だから、この世界の竜の姿は気になるところであった。

 そう思っていたら、察したのか、ケルナーは図録をひもといて二人に見せた。高名な画家が描いたとされる竜の絵が載ってある。

「実際にはもっと種類がいるらしいですけどね」

 イメージの竜というよりは蛇に近いものであった。あるいは大きなトカゲなどと言ったら失礼に当たるだろうと思って、吉野は黙っていた。橘の生み出した竜とは似ても似つかない姿である。


 ケルナーの講義は全体的にわかりやすく、しかも転移者にとって知りたいところから説明が始まった。

(なるほど、教え方の参考になるなあ)

 時間、単位、宗教観や人生観、社会制度、エネルギー問題や外交問題、だんだんと広い視点での話になっていく。吉野は忘れないように私物のノートにメモをとっているが、橘はただ聞いているだけであった。

(くっ、これが現役高校生との差か!)

 橘は成績は優秀であり、授業担当者からも度々名前が挙がるほどの生徒だったので、地頭は良い方だろうと吉野は思っている。

 実際、勉強時間に比べてその成果もしっかりしたものであった。しかも本人にはまだ余力がありそうなのがにくい。守秘義務のため本人には言えなかったが、高校入試では橘の総得点はひときわ目立っていたことを思い出す。吉野は橘が入学する前から彼のことを知っていたのだった。

 成績に興味のなかった橘は成績開示はしていなかったので、本人はそのことを知らない。

 吉野自身、聴きとって内容を消化するのにギリギリだったが、橘はケルナーの話を聞きながら疑問に感じたことを素直に述べた。中にはケルナー自身もドキッとする話題にもなったが、表面上は疑問に対して上手く答えて説明をしていた。

 吉野にとっては幸いなことだったのか、転移者の歴史、つまり吉野たちの地球の歴史の先にどのような出来事があったかは話題には挙がらなかった。

 ただ、マルクスが説明をしていない転移者のこの世界での歴史についてはケルナーが詳しく説明をした。


 遠い過去の時代、しかも地形をも一変させるほどの魔法が数多く存在し、幻想的な動植物の世界が散りばめられた時代を神話時代と呼ぶ。魔法に限らず、今では失われてしまった知識や技術が満ちあふれていた時代である。この時代の出土品を「聖遺物」と呼び、しかるべき機関が厳重に保存しており、しかし数は少ない。


 その後、今から1万~6千年前あたりを英雄時代、あるいは伝説時代と言い、記録には残されていないが、転移者が存在していたとおぼしき痕跡こんせきがいくつもある。5千年ほど前に文字ができたが、すでに英雄・伝説時代には原始的な文字が見られるという。神話ほどではないが、今世よりは遠い時代であり、同じくこの時代の文物ぶんぶつも保管されている。


 そこから時代が進み、今から3千年前が戦国時代と呼ばれ、世界の国々が覇権はけんを争ったとされている。この頃になると記録文書も残されているため、世界の歴史がはっきりとわかるものが多くなる。また、戦争が多かったため、そのせいで発達してしまったいくつかの技術があると言われる。

 歴史的にはこの時代に人類の凄惨な姿があったはずであるが、文書にほとんど残されることはなく、口承で語り伝えられているに過ぎない。

(人体実験とかしたんだろうな……)

 吉野は話を聞きながら、漠然と地球で起きたいくつかの人体実験を思い出していた。

 そして、ある程度大きな国家が出来上がり、束の間の平和な時代が築かれていった。今から1500年前に翻訳魔法が作られて、その甲斐もあって転移者の知識や技術がこの世界に数多くもたらされたのである。


「つまり、転移者は犠牲になったということですか?」

 橘が問いただしたのは、言語翻訳の魔法についてだった。言語学者である転移者が言語データベースと魔法とを組み合わせた魔法である。

 原理としては、世界に点在している魔素をネットワークとして利用し、この世界の人間に共有されるとのことだった。魔素のない世界では通じないが、少なくともこの星に生きている者には比較的容易に使える魔法ということのようだ。その魔法はやがて魔道具としても効果を発揮できるようになっている。二人がマルクスから渡された腕輪がそれである。

(だからこの魔法は例外的なものだったわけか。それに言語学者って私たちの時代の言語学者とはちょっと違うのかも)

 火や水の魔法とは明らかにスケールの異なる魔法である。「共有魔法」という名もあるようだが、確かにこの世界の人々に共有された魔法である。

「私たちのはるか先の子孫は、そういう複雑な魔法を発想可能で、しかも実現させるほどの転移者だったってことだよね。すごいなあ」

 地球の言語とこの世界の言語を結びつけるだけでなく、魔法に転化させる。どのような思考回路や思考実験を経て実現させたのか、想像すら及ばない。

「ワンチャン、僕らにもそんな大魔法が使えるってことかぁ」

 何気なく呟いた橘の言葉に、ケルナーが引っかかった。吉野は橘が「ワンチャン」という言葉を使うんだと別の点で引っかかった。

「だ、駄目ですよ! そのせいでその転移者が魔素を大量に消費して命を縮めてしまったと言われているんですから」

 ケルナーの説明では、その魔法は大気中の魔素のみならず、決して少なくない膨大ぼうだいな量の魔素が転移者からも放出されたのだという。結果として、寿命を縮めてしまった、というのが定説である。

「えっ、じゃあその魔法の使用が原因ってわけでもないんです?」

「はい。実際、この頃の転移者の歴史ってまだ明らかにされていないことも多くて、何が起きたのかはわかったもんじゃないんです」

 1500年も前の出来事である。正史というものが作られていない上、短命な人間の宿命か、歴史の姿は断片的な事実から推測することしかできない。

 未来人がある意味神話的な存在になっていることの不思議さを吉野は感じていた。

 いずれにせよ、その人のおかげで自分たちは魔法や魔道具を介して言葉で理解がしあえていることへの感謝は尽きることはない。

「しかし、できれば文字も読めるようになっていればよかったんですけどね」

 橘が口をとがらせて言う。

 腕輪の力で話したり聞いたりはできるが、読んだり書いたりはできない。橘としては、そういうのも翻訳するのが転生者特権なのに、ということであった。

「こうして話せるだけで十分感謝だよ」

 吉野の正直な気持ちだった。

(でも、確かに読み書きもあればよかったのに。できなかったかな)

 この話の中でケルナーのふとした質問が出た。

「そういえば、さっき橘くんが使っていた『ワンチャン』ってどういう意味です? 上手く意味が理解できなくて……」

 おや?と吉野は首をかしげた。

 一方、橘はエサにかかったと言わんばかりの表情をしている。

「えっと、『機会がある』『可能性がある』っていう意味になるのかな。もしかして、橘くんの言葉が伝わってなかったですか?」

「ええ、ちょっと」

 若者言葉やネットスラングのたぐいの語彙であるが、やっぱりと思い、橘は尋ねてみた。

「翻訳魔法の翻訳の元になったデータベースが遙か未来の日本語すぎて、僕たちの時代の言葉は完全には反映されていないのかも」

 そう思い、普段生徒が使っている言葉の中からいくつかケルナーに吉野は尋ねてみた。吉野も知っている若者言葉やネットスラングについて訊いてみた。

 結果、二人の予想通り、いくつかの言葉はケルナーには通じなかった。二人はこの世界の7、8割の人間が使っているというエリュミ語を話していることになるが、日本語由来の言葉のいくつかはケルナーには翻訳不能の言葉として伝わっており、ただ音だけが聞こえている。

「それでも、いくつかは数万年後まで伝わっていたんだね」

 吉野はあらためて言葉の歴史の不思議さを実感する。

「今から翻訳魔法に追加するってのは、無理なんですよね?」

「はい、おそらく」

 橘は残念がっていたが、それも仕方のないことだろうと吉野は思う。


 橘が手洗いのために部屋を出た後、ケルナーが感心した様子で吉野に言った。

「橘くん、とても優秀な子なんですね。私は彼よりも年上の子たちにも講義をしますけど、あれほど好奇心のある子は久しぶりです」

「優秀過ぎるのがまた問題なんですけどね」

 吉野の実感としてはそう捉えていた。人間一人の知には限界がある。その知をどう使えばいいのかも一人の責任には余りあることだってある。しかし、優秀な人間はすぐに乗り越え、しかし時に慢心まんしんおちいる。いつ橘がそうなるか、そうなる前になんとかなればいいと吉野は考えていた。

「優秀すぎるといえば、グレンもそうですね。あの子もああ見えて、同年代に比べて頭一つ飛び抜けてましたし」

 吉野は自分のことはさておき、グレンも王子の一員であるのに、どうしてケルナーが「グレン」と呼び捨てができるのか不思議だったが、この場では流すことにした。

「あの二人、年齢も近いから気が合うといいんですけど」

「たぶん、合うんじゃないですかね。この前も橘くんのことも話題に出ましたし。久しぶりにグレンがウキウキしているのを見ましたよ」

 まるで姉が弟のことを話しているようである。

 吉野はほっと胸をなでおろす。一人でもこの世界に理解者がいてくれればいいなと思った。

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