第9話 異世界の詠唱文

「ほんっとに、申しわけありませんでした!!」

 吉野と橘はマルクスに頭を下げていた。もう何度目の謝罪だろうか。吉野は何度も何度も謝っていた。すでに周囲から人々はいなくなっていた。

 練習場に異常があったと聞きつけた人々が集まってきたが、グレンが気を利かせて情報をいくつか操作をして対応していた。もちろん、実際に目で見た者たちには箝口令かんこうれいいたが、すべてを隠し通せるとも限らない。

「いえ、私も迂闊うかつでした。あなたがたが転移者であることをもっと考慮していたら、あんなことは絶対にさせるべきではなかったのに」

 マルクスは吉野たちが考えている以上にこの事態を深刻に捉えているようだった。

 さすがに何度も謝罪をされると怒るに怒りきれないマルクスであった。しかも、自身にも責任があるだけに二人だけを責め立てることもできなかった。

 何よりも……。

「兄さんだって感動したんじゃないの?」

 グレンはどこか嬉しそうな顔をしている。その問いかけに、マルクスはたじろぐ。思わず吉野も問いかけた。

「感動、ですか?」

 魔法を体得した者にとって、先ほどの光景はにわかには信じがたいものであった。特に魔法に秀でた者にはなおさら興味引かれるものである。

「少なくとも、俺たちの魔法の常識をかなりの部分ぶちこわしたと思うよ。まさかあれほどの魔法が生まれるなんて、誰だってびっくりするよ。いや、詠唱文だけの問題ではないのか……」

 最後はグレンは自問するようにつぶやいていた。

「それは、確かにそうだが……」

 そのことはマルクスも認めざるをえなかった。


「橘くんだったっけ?」

「はい、橘です」

 呼吸を整えたグレンが橘の表情をじっと見つめて尋ねる。体内から失われた魔素を補給する道具があるのか、それを使ってマルクスとグレンは回復したようである。

「一体どういう詠唱文だったんだい? かなり長めだったと思うけど」

 橘が最初の一節を唱えた時に吉野は、火のように見えるものではなく、見えないもの、抽象的な言葉が選択されていたことにすぐに気がついた。そして、抽象的な概念への理解はかなり知識や体験の差があると思っていた。つまり、個人差があるのである。

(「渾沌」「冥界」「万斛ばんこくの涙」「禍殃かおう」「煉獄れんごく」「あだなす愚かな者」、これらは橘くんにとって暗く、強固なものになっていたに違いない。あるいはいろいろなフィクションによって肉付けされていったというべきなのかも……)

 吉野は橘の姿を思い返していた。モヤッと嫌なものが頭をかすめる。

「ゲームや漫画……まあ物語の中の台詞をつなぎ合わせただけなんですけど」

 詠唱文の中のいくつかの言葉を説明する橘であったが、それだけで済ませることはできないように吉野には思える。


「まあ、その辺は追々検証するとしても、その後の結界の方も驚いたよ」

「結界、ですか……」

 次は吉野に向けられた問いかけだった。

 吉野自身も即興で詠唱文を作り上げていった。自分一人が何もせずにはいられなかったのである。

 もちろん、今考えても「文法ミスはないか」とか「つながりがおかしくないか」などの細かい反省はあったが、結果として黒炎を上空に飛ばしていくことに成功していた。あれが結界だとは思ってもみなかった。実はまだ吉野の張った結界は見えづらいながらも依然としてある。

「えっと、一応、『天』、つまり空には神様がいて、橘くんの使っていた『涙』なんかを神様の大きな力でなんとか癒して受け容れてくれない?的な感じで作ってみたんですけど」

「神は『テン』にいる、か。その『テン』というのも単なる空って意味ではないんだろうけど」

「たぶん、それこそ私たちとこの世界の人たちの概念の違いになるんじゃないかと思います。橘くんが使った『煉獄』とは違うけど、似た言葉の『地獄』も、これは私たちの世界では死後の世界、しかも罪を犯した死者がひどく裁かれるような場所だから」

 そもそも、「神」すらこの世界でどういう扱いなのかわからない。

(現代社会では、「科学」こそが「神」みたいなことだって言われるしね)

 宗教に関わるので迂闊には話せないことである。これは橘から聞いていた異世界の物語における注意点だった。異世界ではなくとも、元の世界での問題でもある。


 ずっと話を聞いていたマルクスは、やがて口を開いた。

「とにかく、今日の出来事はおそらく広く知られるようになるはずです。私とグレンが行った魔法だと言い広めたとしても、いつかはあなたがたが使用した魔法だと突き止められるでしょう」

「橘くんが使ったような魔法って存在しないんでしょうか?」

「あのような強大な魔法は、普通は複数の魔術士が使うものです。しかし、滅多に使うことはありません。それでもあれほどの威力のある魔法になるかといえば……」

 凶悪な魔物相手とかに使うね、とグレンが付け加えた。

「じゃあ、個人であのような魔法が使用されたことが問題になるんですね」

「そうです」

「この国の転移者は強力な魔法が使える……」

「……はい、そう捉えられるでしょう。転移者が魔法を使えることは確かですが、あれほどの魔法は英雄時代、戦国時代の転移者のことであり、今の世はそうではありませんから」

 使ってしまったことは仕方がない。転移者として静かに暮らしていくという目論見もくろみは崩れていくように思えた吉野だが、一方でそのようなことをしでかした橘の心の方が気になる。いや、あれほどの威力のものを抱え込んでいた心の中身の方が心配というべきだろうか。

「しばらくは静かに勉強をしていくことにします」

 吉野はそう応えるしかなかった。


 部屋に戻ってきた吉野と橘は、しばらくは無言だった。どのような言葉を発するのがいいのか、見つからなかったのだ。しかし、いつまでもそのままではいられない。やがて、吉野が口を開いた。

「気にしちゃ駄目よ、って言っても気にするだろうけど、それでも気にしすぎないことよ」

 本当に幸いなことに被害が最小限だったことはありがたいことだった。もし、被害が大きかったとしたら……そう思うだけで恐ろしい。

「はい」

 もともと賢い子だから、今日の出来事も含めて自分で解決をしていくのだろうと吉野は考えていた。しかし、楽観視はできない。まだ16才の少年である。一人で背負うには重い問題は、誰かが傍らで支える必要がある。

「でも、私は担任だからね。いつでも心配なことがあったら言ってよ」

「はは、この世界でもやっぱり先生をやってくれるんですね」

「当たり前よ」

 ははは、と乾いた笑いであったが、少しばかりの励ましの声を聞いたことで橘も気を確かに持つことができた。

 あれほどの大魔法を使った事実は軽く流せるものではない。橘自身驚いたことは、「自分の中にはこれほどの感情があったのか」ということであった。黒竜は、いわば自分の姿であり、鏡である。少なくとも橘はそのように魔法を捉えていた。

「心の中は、見えないものなんですね」

「だから言葉があるんだよ。言葉が心を整理していく、ううん、言葉が心を生み出す、新しく作り替えていくといった方がいいのかも」

「心を、作り替える……。なんかそんな文章を授業で読んだかも」

「わかってしまったかぁ。そうそう、半年くらい前にそんな文章を授業で読んだよね」

 二人はそれから慰みに学校での思い出を語り合ったのだった。

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