1章
第1話 謎の光
人もほとんど少なくなった校内に、長時間の作業を終えてすっかりくたびれた表情の人間が何人か残っている。疲れが限界近くになり、ちらと時計を見てから今日の区切りを付ける。
「それじゃあお先に失礼します」
女は職場のノートパソコンを閉じ、まだ職員室内に残って仕事をしている数名の教員に声をかけてからこの場をあとにする。背中で「失礼しまーす」とけだるい声を聴き取りながら、不快な音を立てぬようドアをそっと閉める。立て付けの悪いドアは遠慮をしないとバァン!と音が出るのである。
職員室の時計はもう19時を示していた。例年のように近くの川沿いの桜の木の下で花見客が宴会を開いているのか、露店や持ち出しのバーベキューセットの煙は見えないが、食欲をそそる匂いが鼻をわずかに刺激する。
「ちょっと時間かかっちゃったな……」
この女――
新任として勤めてから4年目、職場にはもう慣れていた。しかし、新学期の始まった今の時期は忙しい日々が続き、帰宅時間が日に日に遅くなっている。
新学期とはいえ、先日入学式も終え、新入生も問題なく登校している。ただ、本格的に授業が始まろうとしているので、その準備が必要なのだった。今日くらいは早めに帰宅したいと思っていた。
(そうだ、明日配布するのが届いたんだった)
昼に事務から新入生に配布する電子辞書が準備室に運ばれた連絡があったことを吉野は思い出し、すっかり帰宅の準備をするつもりになっていた足に
吉野の主担当は高校2年生であるが、明日には教科の代表として新入生のガイダンスの説明をする役割がある。電子辞書は吉野の説明の際に新入生に配ることになっている。
若手である吉野が説明する理由は、昨年度も新入生に同じ説明をしたからという単純な話に過ぎない。「去年通りでいいですから」と教科主任に頼まれ、ずるずると引き受けることになった。
(なかなか断れないよね……)
電子辞書は貴重品ゆえに、新入生の机の上に置きっぱなしにするわけにもいかず、各担任が個々に説明することを避け、新入生が全員揃っている場で使い方の説明をする必要があった。高校生なのだから渡せば使える、そう思うものの、どう使うか、どのように使うのかの指示がこれからの3年間の勉強の質と量に大きく関わっていく。また、生徒から何か疑義が出れば、その答えも納得するものを用意する必要がある。
私の学生時代だったら、と思い返すも、現在では吉野自身も利便性から紙よりも電子辞書の方を用いることが多くなってきている。スマートフォンにもアプリの辞書を入れている。だから、まず紙の辞書を、という意見はあまり説得力がないと言ってもよいのであった。
(紙の辞書が好きな生徒がいるんだから、なにも全体で買わなくてもいいじゃないか)
吉野は内心ではそう考え、実際に意見を述べたこともあるが、ある教員から「みなが授業中に同じページ、同じ項目を確認することに意味がある」と
(「左」や「恋人」など、同じ言葉でも辞書が違えば説明も違う。そういう発見をすることだってある。高価な買い物なんだから、想定よりも効果がなさそうなら止めればいい。どうして議論することすらないのか)
吉野は薄々気づいていたが、それはまだ勤めた職場が1校目であり、さらに20代であるという経験不足者への嫌みややっかみ、あるいは小生意気な女教師がしゃしゃり出るなという単なる偏見と保守のような空気が
歩きながらこれまでにあったあれやこれやを思い出し、イライラもやもやする気持ちのまま管理している準備室の鍵を取り出して開ける。
灯りをつけて教科の準備室の机に運ばれている段ボールの中身を一通り確認しながら、一台いくらだったかなと値段を思い出す。
これだって十分に貴重品だよね、そんなことを呟こうとした時、「ドレミ先生!」と清らかな声をかけられた。
声の方向に顔を向けると、男がドア近くに立っていた。吉野を意地悪く驚かせようと、やや色の白い少年がにんまりとした表情を浮かべている。まだ顔つきに幼さが残っているが、一部の生徒からは「リアル
「もう、橘くん!」
吉野が驚いたかといえば
橘は吉野のことを時折、冗談のつもりで「ドレミ先生」と呼ぶ、不思議な生徒である。何か理由があるのだろうと以前に尋ねたが、「卒業する時に教えますよ」と
「何してるんですか?」
橘はそう言って部屋の中におもむろに入ろうとする。誰か他の教員がいないか、うかがっていたのである。準備室には吉野だけしかいないとわかると、遠慮せずに入っていった。
橘は教員の中でも年齢の近い吉野に親愛の情を抱いている生徒であった。今年度の担任がまた吉野だと知った時は、人知れず静かに喜んだ。
「高1の電子辞書をちょっとね。君たちにも一年前に配ったことあったでしょ。橘くんは部活終わり?」
吉野は段ボールの中を確認しながら橘に尋ねる。
「はい。先生、こんな時間まで学校なんて、彼氏さん大丈夫なの?」
「もう変な冗談言わないで。そんな人はいませんよ」
「ええっ、先生だったら何人かいても不思議じゃないですよ!」
「はは、何人もいたら不貞だよ」
橘の言葉を吉野は笑いながら軽く流した。
「先生彼氏いないんですか?」と興味本位で尋ねてくる生徒はこれまで一定数いたが、「どうしてそんな質問を? 君は私のことが気になるの?」と返したら、質問した生徒が面食らってやがて赤くなり、それ以外の生徒が笑うという光景が何度かあった。
また、「どうして『彼氏いるんですか?』じゃなくて『彼氏いないんですか?』という質問文なの? この二つの表現はどう違うんだろう?」と枕にして、授業の導入に使うこともあった。吉野はそのことを思い出すとくすりと笑いが出た。
基本的には18時で部活は終わるはずだが、届けを出せば19時半まで活動ができる。新入生を歓迎する演奏会のために、この時期は部活が特別に延長されているのだった。部室のある場所からは音はもう鳴っていないので今日は終わりなのだろう。春の大会が近い運動部の生徒たちの
橘は下校中に準備室に入っていく吉野の姿を見かけて声をかけたのだった。
吉野は段ボールの中に敷き詰められている乾電池の表面を指の先でなぞりながら、ひんやりとした感触を楽しんでいた。
(これで明日は大丈夫だ……)
準備室に置いていた私物のノートパソコンとずっしりとした辞書類などを大きなトートバッグに入れ、「じゃあ、帰ろうか」と橘に声をかけようとした時、突然部屋の中が明るくなった。
「え……?」
吉野のとまどいの声も虚しく、部屋の明るさは増していく。光は目を開けていられないほど強いものに変わっていく。発光体がどこにあるのかもわからず、部屋全体が光輝いている。
「先生!」という橘の不安そうな声を聞き取り、「橘くん、大丈夫よ」と声を必要以上に強く返す。吉野の
日中の春の陽光は柔らかに地上に降り注ぐ。時には季節外れの夏日の急襲にじめっとする汗を拭き取ることもある。夏の一部は春にすでに顔を覗かせる。
うららかな時を永遠の世界に留めようにも人の手に余る。春の終わりを告げる
今、外はうすら暗い春の夜を迎えている。そして来年、同じように春はやってくる。
吉野はたまたま準備室の荷物があるのを思い出し、橘はたまたま吉野に声をかけた、この二人の二つのたまたまがこの後、吉野と橘に数奇な運命を辿らせることになる。
吉野と橘はこの日を境にこの世界から消えていた。
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