第2話 見知らぬ雑木林

(一体、何だっていうの……)

 光に包まれた直後、吉野と橘の意識はしばらくの間なくなっていた。

 やがて先に気づいた吉野が目を開けると、まだまぶしい光を浴びせられていることがわかり、そのまま強く目をつぶって過ごしていた。「橘くん!」と声を挙げようとしても、声が出なかった。脳からの指令を神経が断固拒否しているようだった。

 目で確認ができないことが苛立いらだたしい。薄目ですら目への攻撃は強烈なものであった。できれば手で覆いたい。肉体全体に痛痒いたがゆしびれを感じる。


 徐々に暗闇に光が呑まれていく。ようやく閃光が消えたと思い、吉野がつぶっていた目を世界に触れさせると、周りは暗闇だった。一瞬、視覚が失われたのかと錯覚してしまうほどである。

 天井に淡い光を感じたので心を落ち着かせ、ゆったりと時間を置くと闇に目が慣れ始めた。

 目の前には机と椅子、直前まで触っていた電池や電子辞書の入った段ボール、そしてかたわらには橘が横たわっていた。

 ただ、先ほどとは背景が異なっている。まるで野天に放たれたかのようであった。土の臭いだろうか、室内では嗅ぐことのない臭いを吉野は感じ取っていた。

 あおげば、尊くない月がある、奇妙なことに同じような大きさの月が二つある。先ほど感じた光の正体なのだろう、しかし、今は橘の安否の方が気になる。

「橘くん!」

 橘は気絶をしていたわけではなく、吉野と同じように意識はあったが、目がまだ慣れていないようだった。まずは橘が傷を負っていないことにほっと安堵あんどした。

「先生……」

 ついさっきまでの飄々ひょうひょうとした声とは違い、張りが感じられない。何が自分の身に起きたのか、一つひとつ確認しているのかもしれなかった。それは吉野も同じことだった。

 周囲はどうみても学校内ではない。かといっても街中でもない。雑木林のような場所に二人はいた。不気味なほどにひときわ目立つ月明かりだけが無情にも地上を照らしている。

 吉野はかがんで地面に触れてみたが、ざらざらとした砂が指先についただけだった。

「ここは……?」

 まだ放心していた橘をなんとかかかえ起こして周りの様子を探ってみる。しかし、皆目見当がつかない。スマートフォンの存在を思い出してすぐに取り出したが、どこにもつながらない。橘も同じようである。時間を見ると、職員室を出てから2時間近く経過していることがわかった。

(あの光の中に1時間以上いたってことか)

 よく身体が耐えられたなと思う。ずっとあのままだったら、おそらく気が触れたかもしれなかった。闇よりも光にさらされ続ける方がこたえる。生命が光からではなく、闇から生まれたことの本能的記憶なのかもしれないと吉野には思えた。


「先生、僕たち……」

 不安そうに橘は呟いた。

(さっきの光が関係しているんだろうか……)

 そう考えても答えてくれる者は誰もいない。

「大丈夫だよ、でも映画だとこういう時には何かモンスターがやってくるのかな?」

 なんてね、と気落ちしている橘を吉野は無理矢理励まそうとした。わざとらしい言い方に吉野は自分でも違和感を抱くほどである。

「先生、それフラグです……」

 橘が的確に指摘すると、そのフラグを回収するかのように、カサカサっと音がする。はっとした吉野の反応はすこぶる早い。

 音のあった方向を見ると何かがいるのだろうか、吉野は自然と橘を背中で隠すようにした。

「いや、私の発言が原因じゃないよ!」

 吉野は必死に取り繕っているが、内心驚きを隠せない。

(冗談じゃない。これだったら夜の墓場に一人きりの方がよっぽどいい)

 腕をつかんでいる橘からも不気味なほどの緊張を感じる。


 正体不明なものであっても信じなければ恐怖はない、というわけではない。

 学校の怪談といっても、ことわりで、言葉で説明ができれば人は不安の正体を分節ぶんせつして説明でき、怪異は解体されていく。したがって、正体不明なるものを何かの言葉で表現ができれば、問題はない。「正体不明」という言葉レッテルを貼り付けるだけでも効果がある。したがって、科学とは正体不明の連続した世界にくさびを打ち込んで形而上けいじじょうのものを形而下けいじかにして明らかにし、理解していくことであり、科学史とは人類のそのような戦いの歴史ともいえる。

 しかし、今置かれている状況を説明する言葉が吉野には見当たらなかった。つまり、すべもなく吉野の心にも恐怖に似た感情がじわりと顔を出してきているのだった。

「だ、誰かいるんですか!?」

 返事はない。何度か声をかけても何も出てくることはない。そのことはいっそう不気味さを助長する。吉野の声は一方通行だった。

 正体は風だったのだろうと吉野はついに思うことにした。


「これ以上ここにいても仕方ないね。橘くん、歩ける?」

「はい」

 吉野の判断は素早い。どこにいるのかわからないが、わからないからこそじっとしていても何も変わらない。そう思わせるほど人気ひとけのない場所に吉野たちは立っているのだった。吉野と橘はさっそくこの場所を離れることにした。

「これは少しだけ移動させておこうか、手伝ってくれる?」

 もはや意味があるのかわからないが、何箱もの段ボールや机などを雨をしのげる大樹の根元に移動をさせた。生徒のものなんだから、とここでは立場ある者としてのわずかな責任感からの行動である。仮初めにも役割を演じなければ、現状に耐えられないという思いがあった。

 二人は私物だけを持って道でもない道を歩いていく。

(どこに行くのが正解だろうか……)

 迷子の経験が二人にはないわけではなかった。

 しかし、それは人の手の入った街限定のことである。このような不気味な林の中に突然投げ出される経験など普通はありはしない。そんな経験のある者などそんなにいはしないだろうと思った。仮に経験があったとしても、全く同じ状況ではないはずであり、参考にはならない。

「先生、どこに行くんですか?」

「どこだろう……。光があったり川があったりしたら人のいる可能性は高いかもしれないんだけど」

 吉野に確信があるわけではない。それでも先ほどの場所にいても人が訪れることは期待できそうになかった。加えて、頼られている今の状況では何か言葉を発し、行動しなければならないと思えていたのである。

 そんな吉野にとっては皎々こうこうと闇夜を照らす月明かりだけが頼りであった。

(どう見ても、月だよね?)

 今は二つの月を詮索せんさくしている余裕はない。

 ただ、明るさには感謝した。幸い、スマホのライトを取り出さずとも周囲の様子はある程度わかる。もしもの時にはスマホを取りだそうと吉野は思っていた。


 10分ほど歩き続けただろうか、獣道ともいえない道を歩く。視界が少しでも開けるところに出たかった。

 幸運にも野生動物にもモンスターにも遭遇することもなく、険しい林から出ることができたのだった。

「先生、あれ……」

 橘が指で示した方向に明らかに集落のようなものが見える。

 橘は光源に気づいただけだったが、吉野は視力が良かったのではっきりと様子が見える。町というより、村だろうか、少しばかり小高い塀に囲まれた場所である。いくらか舗装ほそうされた道もあるようだった。

「村、かな? 人はいるようだね。どうする、橘くん?」

「どうするもなにも、行くしかないですよね」

「鬼が出るかじゃが出るか……」

「鬼も蛇も嫌ですよ。せめてほとけがいいです。あ、そういう意味の仏じゃないです」

 気の利いた返しに吉野はふっと笑った。


 一息つくために地面におろしていた私物を再度抱える。吉野はトートバッグと小さな手提げ鞄だけだったが、「どうしてこんな時に限って……」と後悔するほどの重さである。通勤手段が車だったので、手荷物が重たかった。

 ただ、段ボールと一緒にいくつか置いておくべきだったとは思わなかった。大切なものは簡単に手放さない方がいい。

 橘は登下校用のカジュアルなバッグに加えて、楽器ケースも持っていた。

(帰ってからも練習しようとしていたんだろうな)

 抱え起こすために手に触れた時にも感じたが、この一年で橘は縦に成長していった。橘の入学時のことを思い返すと微笑ましい気持ちになる。高校生の成長は早い、自分にはもうできない成長だと思えた。

(子どもというよりはみんな弟や妹に思えちゃうんだよね)

 自分には弟も妹もいないけど、などと心の中で思いながら気を落ち着かせて吉野は歩みを進めた。


 囲まれた塀であっても出入り口らしき場所があったのでそこを目指して歩いていった。

 慌てず、しかしあまりにもゆっくりすぎるのもよくないだろうと思い、普段通りの速さで歩く。

 当然のことながらといえばいいのか、経験がないから当然ではないともいえるが、その場所には門衛が、人の出入りを監視するとおぼしき人間が立っていた。とはいえ、屈強な男ではなく、齢60を過ぎた、どこか品の良さそうな男だけだった。中肉中背、しかし妙に姿勢のよい男である。

 ようやく人の姿を認め安堵して気を少し緩めたまま近づくと、その男の後ろからまさに屈強という言葉の似合う男が二人も現れた。運の悪いことに、その屈強な男が二人の姿を最初に確認した。

「!!!!」

 吉野たちを視界に入れた二人のうちの一人が何かを叫んでいるようだ。しかし、何語なのか二人にはわからない。武器らしきものも手に持っている。

威嚇いかくかな。あまり良くない反応だね」

 相手が感情を示していることに、不安はなかった。むしろ、やっと人が現れた事実に落ち着いていた。

 それにしては男たちの警戒する態度が大げさ過ぎるように思える反応である。吉野は隣にいる橘に、視線を男たちに向けたまま小声で話している。視線を外してこそこそと話すことは悪印象になるかもしれないという心配からだった。

「たぶん。見た目は外国の人ですよね」

 別の男も何か言葉を叫んでいる。日本語ではない。橘の言う通り、イメージの中の日本人の外見とはほど遠いものである。服は着ている。しかし、自分たちが普段着るデザインの服とは大きく異なっているように見える。

 相手との距離はもう5メートルほどであったが、これ以上近づくのは危険だと判断して歩みを止め、その場に吉野と橘はたたずんでいた。

(これはまずいのかな)

 さすがに大の大人の男が二人もいるのは形勢が不利のように思える。

「相手が一人だったらなんとかできたかもしれないんだけど……」

「先生、もしかして戦う気満々でした!?」

「……もしもの時はね」

 吉野には妙に好戦的なところがあることを橘は知っていた。

 目の前の男たちに集中していて、いつの間にか門衛の男が一人だけ別の場所に移動していたことに二人は気がつかなかった。

 結果としてこの男の英断が二人を窮地から救い出したといえる。「もしもの時」はやってこなかったのである。

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