第37話

 褐色の肌の娘が、小屋の外で私を呼ぶ。

「また降ってきたよ、雨」

 鉄の塊から打って間もない、ぴかぴかの鍬や鋤を壁の隅に寄せながら、私はモハレジュを急かした。

「濡れると分かっているときに、わざわざ外に出るヤツがあるか」

 未だに、どこか幼さを残す顔で頬を膨らませる。

 口を尖らせて文句を言った。

「だって、ずっと家の中だったじゃない、ここんとこ」


 都を離れてから、随分と経った。

 私とモハレジュは、かつて飛刀を打った、あの村で暮らしていた。

 別に、不便は感じない。

 都にいたところで、初めて来たときのように、大通りにいくつもの噴水が見られるようなことはないらしい。

 地下に流れ込んでいた水を溜め込んでいた底が抜けてしまっては、無理もないだろう。

 人も、昔ほど集まっていはいない。

 雨がほどほどに降っては止むようになったので、今では地上にも川が流れている。

 水を求めなくてもよくなったのだ。

 困ったことがないわけでもない。

 都を訪れる者が昔ほどいなくなって、雨が降ると街道は雨でぬかるんだままになる。

 私たちが住んでいる村など、訪れる者は昔よりもなお少なくなった。

 あれからもう、10年が過ぎている。


 モハレジュは、都までの道なき道を、文句をたれながら歩いていたものだ。

「まだ着かないの?」

 もう日が暮れかかっていた。

 旅に慣れたアッサラーは、悠々と答えた。

「日が暮れたら、野宿せねばなるまい……あすの昼過ぎには都につけるだろう」

 炎の帝王も、それを操っていた邪神も、そして龍に変じたテニーンもいなくなった。

 雨上がりの地面に放り出された私たちは、1日がかりで歩いて都に戻るしかなかったのだ。

 その夜は、濡れた地面で、私たちは身体を寄せ合って眠るしかなかった。

 龍騎兵たちはそうやって、交代で見張りに立つ。

 賞金稼ぎの旅を続けてきた狗頭人は、丸腰のまま私たちから離れて眠っている。

 アッサラーや村の若者たちは、ひとりでも多いほうが温かいので、他の半人半獣の者どもワハシュたちの間に混じった。

 私は、モハレジュを抱いて眠った。

 子猫を拾ったらこんなふうではないかと思うほど、しがみついてきた小柄な身体は温かかった。

 胸元から、いつになく遠慮がちな声が聞こえる。

「いいの? その……テニーンとかいう人に」

 その名を持つ女は、龍となって閃光と共に天空の彼方へ消えた。

 私は地上に横たわって、短く刈ったモハレジュの髪を撫でながら答える。

「生きろと言っていた。テニーンは」

 あの山の中の隠れ家で身体を寄せ合って眠った、寒い夜を思い出す。

 

 ……もし、私が死んだら、とテニーンは尋ねたものだ。

 私はきっぱりと答えた。

「死なない。私が守る」

 だが、テニーンは私の髪を撫でながら言った。

 たぶん、フラッドが先に死ぬ、と。

 私は、豊かな曲線を描くその身体を抱きしめようとする。

「テニーンのためなら、この命など」

 床の中でするりと器用に逃げたテニーンは、しなやかな腕を私の背中から回して囁いた。 

 フラッドを死なせないために、ここにいる、と。

 そして、今、テニーンは消え、私は生きながらえている……。

 

 

 そんな私の夢を覚ましたのは、龍騎兵の隊長だった。

「お目覚めでございますか」

 モハレジュは真っ赤になって跳ね起きる。

「な……何なの?」

 それには目もくれず、龍騎兵たちと共に隊長はひざまずく。

「先帝を継ぐお方をお守りするのは当然のことでございます」

 私が何も言わないうちに、モハレジュは悲鳴に近い金切り声を上げた。

「見てたの? 一晩中」

 龍騎兵たちの中には耳をふさぐ者もいたが、隊長は平然と答えた。

「よくあることでございます」

 モハレジュは目を吊り上げて怒った。

「ない! ない! 絶対ない! どこにそんなの見られて喜ぶ連中がいるっていうのよ!」

 別に喜んで見られるわけでは、と言い返す隊長を遮って、私は告げた。

「出発しよう、日が暮れるまでには都に着ける」


 日が高くなって都の城壁が見えてきた頃、遠くからやってくる人影が見えた。

 空はやはり抜けるように青いが炎天下ではないので、陽炎に揺らめくこともない。

 やがて、それは迎えに来た半人半獣の者どもワハシュだと分かった。

 先頭のファットル爺さんに、山猫頭は慌てて駆け寄る。

「おい、都に入れなくなるぞ」

 ファットル爺さんはネズミの頭をそらして、高らかに笑った。

「どうということはないわい」

 だが、都の片隅を出て、半人半獣の者どもワハシュはどうやって生きていくのか。

 辺りの村々は、それほど寛容に受け入れはするまい。

 さすがに、狼頭も心配したようだった。

「どうやって暮らしていく気だ、これから」

 ファットル爺さんは半人半獣の者どもワハシュを見渡して、胸を張った。

「これだけいれば、どうにでもなる」


 その意味は、半人半獣の者どもワハシュが堂々と都の門をくぐったことで分かった。

 もう、都で隠れ住む必要はないらしい。

 悠然と大通りを行く、獣の姿をした異形の者たちの背中を眺めながら、私は思わずつぶやいていた。

「炎の帝王が死んだだけで?」

 いつの間にか傍らを歩いていたファットル爺さんが、何か考え込んでいるかのような低い、くぐもった声で言った。

「死んだとは限らん」

 確かに、炎の帝王は闇の底へと落ちていきはしたが、死んだのを誰も見てはいない。

 浅はかな思い込みを突かれて言葉に詰まった私を反対側から挟みこむようにして、アッサラーが告げる。

「そのつもりでいろということだ」

 あの鉄球を失った炎の帝王に、どれほどの力があるのかは分からない。

 ただ、私にとって不気味だったのは、権力を手にするためには手段を選ばない、あの執念深さだった。

 生きているとするなら、息を潜めて隙をうかがっていることだろう。

 今は。

 だから、何かを始めるのは、今ではない。

 しかし。

 私は、決して軽々しくは口にできない答えを告げた。

「そのときは……」

 みなまで言わないうちに、背中に薄い胸を押し当てて、モハレジュが飛びついてくる。

「大丈夫。怖くなんかないから」


 そのモハレジュが、私にしがみついたまま素っ頓狂な声を上げた。

「なんで? なんでみんなこっち来るの?」

 それは、戻った私たちを出迎える、都の人々だった。

 あっという間に、龍騎兵たちも半人半獣の者どもワハシュもまとめて、もみくちゃにされる。

「よくぞやってくださった!」

 こんな歓迎には慣れていないのか、隊長までもが目を白黒させている。

 いかつい異形の者たちは、肩をすくめて顔を見合わせている。

 さらに、都の人々は私を文字通り担ぎ上げた。

「ぜひ、我らが王に」

 私が何とも答えないうちに、勝手な噂話を始める。

「先帝の忘れ形見だってよ」

「本当の王様が帰ってきたんだ」

「雨も降ってきたし、何もかも元通りだ」

 邪神しか知らなかったことが、都の人びとに伝わっているのは奇妙なことだった。

 とりあえず、とぼけておくことにする。

「いったい、誰が、そんなことを?」

 だが、その謎はすぐに解けた。

 亀の甲羅と、そこには決して収まることのない角を持つ半人半獣の者どもワハシュが、私を見上げていた。

「俺だよ」


 聞けば、闇の中でスラハヴァーが落ちていった先には、あの重い水をたたえた地底湖があったのだという。

 炎の帝王が放つ雷光は、ここから発されていたのだろう。

 その水面に叩きつけられても死ななかったのは、亀の甲羅のおかげだった。

 そのまま、どこまでも沈んでいったスラハヴァーは、湖の底へとたどりつく。

 息が詰まるかとおもっていたが、そこは亀の身体、それほどでもなかったらしい。

 地底湖といってもそれほど大きくはなく、スラハヴァーでも……いや、スラハヴァーなら泳いで回れるほどだった。

 やがて見つけたのは、ここに水を溜めるために水の出口を塞いだらしい大きな鋼鉄の板だった。

 それを力ずくで剥がすことができたのは、亀の身体を持つスラハヴァーならではだったろう。

 水の中なら重い甲羅を支えなくとも立っていられるため、その分の力を腕に込めることができたのだ。

 重い水は、鋼鉄の板の向こうにあった空洞へと流れ出した。

 流れは地下水脈になっており、巻き込まれたスラハヴァーは私たちよりも遠くへ流されてしまったのだった。


「出たのはおとといだがね」

 地下水脈の出口は、隣国との国境あたりだった。

 都へ向かう商人の馬車に拾われたスラハヴァーは、炎の帝王に起こったことを見たままに語った。

 それを真っ先に知らせてひと儲けしようとした商人は都へと馬車で街道を駆け抜ける。

 だからスラハヴァーは、私たちより前に、帝王の力の源が失われたことを告げることができたのだった。

 もっとも、私たちには苦笑いしてみせる。

「最初は信じなかったがね」

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