第35話

 闇の底から、微かながら水の音が聞こえるようになった。

 手の中の岩も、掴むそばからひんやりとして、湿り気を帯びてくる。

 ぼんやりと見えていた鈍い光はもはやなく、辺りは深い闇にとざされていた。

 その中で、私を呼ぶ声が聞こえた。

「フラッド? そこにいる?」

 モハレジュだった。

 声から察するに、すぐそばにいるらしい。

 予め、私は止めておいた。

「あまり近づくな」

 何でよ、と不満げなモハレジュに、噛んで含めるように告げる。

「下手にぶつかったら、どこまで落ちていくか分からない」

 しかたないなあ、と軽口を叩くのは、不安の裏返しだ。

 だが、固い足場にたどり着けると私は確信していた。

 そうでなければ、炎の帝王が崖にしがみついてまで降りていくわけがないのだ。

 もっとも、その先に何があるのかは見当もつかない。

 水の音は、次第に大きくなった。

 あの山の中で聞いた滝壺の音に似ている。

 だが、聞えてくるのはその比ではない。

 おそらく、信じられないくらい大量の水が落ち込んでくるのだ。

 ……どこから?

 そこで閃いたのは、都で見た噴水だった。

 日照りの中で、あれだけ贅沢に水を使えるのはなぜか。

 地下水脈が、ここに集められているからだ。

 それに気づいたとき、暗い闇の淵の底から駆け上がってくるものがあった。

 モハレジュが叫ぶ。

「フラッド! この光!」

 思い出したのは、あの馬脚の半人半獣の者どもワハシュを襲った閃光だった。

 その光が幾つも重なって焦点を結んだとき、深い闇に隠されていたものがその全貌を現した。


 モハレジュの甲高い悲鳴が上がる。

 私も思わず息を呑んだ。

 すぐ足元には、手足のひょろ長い、私よりも器用に、そして速く崖を降りていった半人半獣の者どもワハシュたちが倒れていた。

 微かに身体を震わせながら、どこを見るでもない、虚ろな目を開けている。 

 そのすぐそばに降り立って身体を抱き上げると、呻き声を立てて何かを訴えようとしていた。

 共に闘ってきた仲間を同じように抱え上げたモハレジュが、その口元に耳を寄せ、私に伝える。

「逃げろ、って……」

 その単純な言葉は、崖の中腹から深い底に向かって落下する、地下水脈の果ての滝の音にもかき消されることなく、はっきりと聞こえた。

 だが、聞こえたのは、その声だけではなかった。

 轟きわたる水音の中にも高らかに、炎の帝王が笑っていた。

「分かるか、この水の重さが」

 言っていることは分かるが、何のことだか分からない。

 それは、隊長やモハレジュの言う「あれ」と同じだった。

 いや、分からないということだけではない。

 モハレジュも、同じことを考えていたようだった。

「もしかすると、これが……」

 この水の重さそのものが「あれ」なのではないか。 

 それを裏付けるかのように、帝王は勝ち誇った。

「これに勝る力はない」

 そう言うが早いか、崖の上のぼんやりとした光を見やった。

 再び、あの白い閃光が蛇のように闇の中を駆け巡る。

 それが何なのか、炎の帝王は得々と語った。

「この辺りの岩も、本当はあのように光っておるのだ。だが、地下を流れるこの川の水を全て集めて、その中でも最も重い水を湛えてやると……」

 光の蛇たちが重なり合って、さらにまばゆい閃光を放った。

 その正体を、帝王が告げる。

「このような力のある光を放つのだ」 

 私の身体を、あの熱い何者かが駆け巡る。

 それは何か考えるより先に、言葉となって私の口からほとばしった。

「よくもこんなものを……己のためだけに」

 炎の帝王は、鼻で笑う。

「用があったのは、この重い水と、崖の岩と、放たれる光だけだ。いらぬ水は、このとおり、少し離れた都へと返しておる」

 崖には無数の管が走っている。

 それはおそらく、ここで使われなかった大量の水を都へと汲み上げるためのものだろう。

 帝王は語り続ける。

「この力なくしては、この地を干上がらせ、龍どもを追い払うことなどできはしなかった。見るがよい!」

 目を灼くほどの閃光が、この崖の間を満たす。

 私はモハレジュの身体を押し倒すと、その上に覆いかぶさった。

「見るな!」

 凄まじい音と共に、頭上から吹き込んできた風が荒れ狂った。

 モハレジュをかばいながら顔を上げると、遥か彼方に、真っ青な空が見えた。

 雨雲が、消えてなくなったのだ。

 龍と化したテニーンによって湧き起こり、この国の空を分厚く覆っていた黒い雨雲が。

 涼しい風の中、炎の帝王が口元を歪めて笑った。

「まさか、あの女が最後の生き残りとはな」

 何を考えることもない。

 私は無言で、飛刀を抜き放っていた。

 次に刎ねられるのは、目の前の首だ。


「もはや、そんなものは役に立たん!」

 その高笑いと共に、再び、崖の下の淵から閃光が駆け上ってくる。

 だが、炎の帝王を取り囲んだ者たちがいた。

 隊長に率いられた龍騎兵たちだ。

 一斉に剣先を突きつけて、言い放つ。

「何と呼ぶものかは知らんが、『あれ』を止めろ!」

 炎の帝王は、冷ややかに応じる。

「止められんな、『あれ』は」

 再び、閃光が炸裂する。

 そのとき、私の後ろから飛びついてきた者があった。

 しなやかなで、華奢な身体……モハレジュだった。

 二度三度、岩場を転がったところで、爆風に耐え切れずに次々と倒れていく龍騎兵たちの姿が見えた。

 手にしていた剣は、片端から吹き飛ばされて闇の淵の底に落ちていく。

 だが、飛刀は残った。

 私は再び身構えて告げる。

「止めてみせる」

 できるかできないかなどは考えもしなかった。

 そうしなければならない。

 私にしかできない。

 私でなければならない。

 そう思い定めて、炎の帝王を睨み据えたときだった。

 間の抜けた声が助けを求めてくる。

「誰かあ……!」

 スラハヴァーだった。

 さっきの爆風に煽られたのだろう、淵に向かって真っ逆さまに落ちていく。

 頭の上の角も、亀の甲羅も、こうなっては役にも立たない。

 ただ唖然としていると、わずかに怯んだかに見えた炎の帝王は、余裕を取り戻したようだった。

「そのような鉄の塊など、この力の前には無力だ」

 高らかに笑ってみせるが、私には不安もなかった。

 ただ、心に浮かんだ疑問をそのまま口にするばかりである。

「そんなものを使って、何をする気だ」

 炎の帝王は自信たっぷりに答える。

「再び、人の手に世界を取り戻す」

 ここで言う「人」とは、炎の帝王自身のことにほかならない。

 他には、いない。

 その傲慢さへの怒りが、身体を震わせる。

「お前はもう、人ではない」

 だが、答える言葉には微塵の戸惑いも迷いもなかった。

「神なのだよ、余は既に」

 淵の底から這い上がってきた光の蛇が、幾筋も交錯しはじめる。


 だが、その光は轟音と共に、突如として消えた。

 大量の水が流れていく音は聞こえるが、滝壺に落ちる音は聞こえない。

 まさかという顔で、炎の帝王が呻いた。

「底が抜けた……?」

 何のことを言っているのかわからない。

 それは、龍騎兵たちにせよ、その隊長にせよ、炎の帝王のハーレムにいたモハレジュにせよ、その場にいる誰もが同じであっただろう。

 だが、私は気付いた。

 テニーンと共に過ごした、あの山の中で見た滝壺のことを覚えていたからかもしれない。

 再び飛刀を構えて、真っ向からつきつける。

「これがお前の力の源だったか」

 滝壺の底が抜けて、水がたまることなく落ちていくのだとしたら、帝王の力もまた、同じことになるのではないか。

 そう踏んだのだが、思わぬ出来事に唖然とするばかりだった顔は、すぐに不敵さを取り戻した。

「そうでもない」

 炎の帝王の背後から崖を崩して現れたものがある。

 それは、巨大な鉄の宝玉だった。


 モハレジュと隊長の顔がひきつるのを見て、察しがついた。

 これが、「あれ」なのだ、

 得体の知れない、恐ろしいもの。 

 それがここにあるのを知っていた、かつてのしもべたちへの問いが放たれる。

「世界と共に消える覚悟はあるか?」

 モハレジュは、間髪入れずに答えた。

「ある。フラッドと一緒なら」

 炎の帝王は憎々しげに唇を歪めたが、口を閉ざしたままの隊長に気付いたのか、嘲笑の眼差しを投げかかる。

 やがて、屈辱に震える声が答えた。

「……ない」

 すぐさま、叱咤の声が飛ぶ。

「ならば、その飛刀を奪え!」

 隊長の手が伸ばされるのを、私は身をかわして逃れた。

 斬ろうと思えば斬れるが、斬るわけにはいかない。

 その迷いが、隙を生んだのだろう。

 たちまちのうちに、手の中の飛刀は隊長にもぎ取られていた。

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