第30話

 テニーンは炎の神の剣を手に、私を見下ろした。

 その真上から照りつける日差しが眩しい。

 こらえきれずに顔をしかめると、テニーンの影が太陽を遮った。

 抑揚のない、低い声が告げる。

「私を愛してるなら、苦しませないで」

 そこで空を見上げたのは、私に呆れたからなのか、絶望したからなのか。

 ただ、テニーンの目が、日の光にきらめいたのだけが分かった。

 それは、見たこともない悲しみの色をしていた。

 打たれても斬られてもいないのに、胸の奥が疼くように痛む。

 山に潜んでいる間、テニーンには格闘や武器を手にしての立ち合いで、数えきれないくらい叩きのめされてきた。

 だが、こんな痛みを感じたことはない。

 

 ……テニーンが、苦しい?


 考えてみれば、そんなことを訴えられたことは今までになかった。

 襲撃した隊商や貴族の護衛がどれほど多くとも、どれだけ強くとも、そんな言葉を漏らしたことはない。

 私ごときとの闘いで、何が、なぜ、そんなに苦しいのか?

 考えられるとすれば、ひとつしかない。


 ……炎の帝王のハーレムにいることか?



 命じられるままに戦って私を殺し、望みもしない子を産むことを求められているのだとすれば、それは耐えがたいことだろう。

 そんなテニーンを救い出すために挑んだ戦いだが、私にはもはや、手足を動かす気力もなかった。

「無理をするな。私を捨てて逃げろ」

 テニーンと仲間を逃がすためなら、命も惜しくない。

 そう思うと、まだ立ち上がることぐらいはできた。

 最後に振り絞れるほどの力はまだ、残っていたのだろう。

 飛刀を手に、足を踏みしめて炎の帝王へと向き直る。

 だが、そこでテニーンの囁き声が叱りつけられた。

「何もわかってない」 

 そこで頭から振ってきて足下に突き刺さったのは、先端から真っ二つにされたクロスボウの矢だった。

 テニーンの背中の向こうに見える高台では、手をかざした炎の帝王が忌々しげに顔をしかめている。

 勝手に矢を放った射手を抑えなければならなかったからだろう。

 それを炎の神の剣で斬り落としたテニーンは、振り向きもしない。

「私が逃げれば、あなたも、仲間も殺される」

 炎の帝王ならば、そうするだろうと思われた。

 力尽きていたとはいえ、私が甘かったのだ。

 あの下水溝で龍殺しの銃を使えば、簡単に撃ち殺せたのだ。

それを今まで殺されずに済んでいたのは、テニーンが私と戦うことを望んでいたからに過ぎない。

 言い換えれば、まだ、微かな望みはあるということだ。

「戦っている間は、共に生きていられるということだな」

 まっすぐに見つめ返す眼差しに、あの山の中での訓練を思い出した。


 ……木々の間を吹き抜けてくる清々しい風のような軽やかさで、しかし凄まじい勢いを絶やすことなく、テニーンは木剣を振り下ろしてくる。

 かわすのが精一杯だが、隙がないわけではない。

 いや、敢えて隙を見せているのに、私の技が及ばないだけなのだ。

 打ち込もうと思えば打ち込めるのに、そこで私に隙ができれば間違いなく打ち込まれるので、思い切って攻められない。

 やがて、かわすだけで立っている力もなくなり、膝を突いて許しを乞うしかなくなる。

 だが、テニーンは決まって私を叱りつけたものだ。


「疲れのせいにしないで」

 そう、これだ。

 ふたりで過ごしたあのときが、いちどきに帰ってきたような気がした。

 私は再び立ち上がった。

 飛刀を構えるか構えないかのうちに、テニーンが斬り込んでくる。

 それも、あのときと同じだ。

 ただ、ひとつだけ違うことがある。

 かわすだけなら、もう何でもない。

 戦っている間は、一緒にいられるのだ。

 この時間が永遠に続けばいいという気持ちが、邪魔をしていた。

 そんなものがあれば、の話だが。

 終わらないものなど、ありはしないのだ。

 テニーンとの戦いも、いつか終わる。

 だから私は、縦横に躍る刃をかわしながら答えた。

「次に膝をつくのは、死ぬときだ」

 目の前に迫ったテニーンが、私をからかう。

「それ……意外に早いかも」

 昔なら言い返すこともできないうちに打ち倒されていただろうが、今は違う。

「先送りしてみせる……いつまでも」

 テニーンは不敵に笑った。

「いつまで続くかしら? その強がり!」

 大振りの剣が頭の上から襲いかかってきたが、その分、隙も分かりやすい。

 胴体に斬り込めば、飛刀を弾き返すしかなくなる。 

 そう読んで脳天へ打ち込むと、テニーンは剣をかざして受け止めた。

 捕らわれた仲間たちからも、捕らえた兵士たちからも、処刑場を囲んで見守る者たちからも、どよめきが聞こえる。

 私とテニーン、どちらへの驚愕とも賞賛ともつかない声の中、飛刀を振るう勢いは、思わず知らず増していった。

 

 ……何だ、これは?


 身体の中で目を覚ました何かに操られているようにも感じられる。

 アッサラーが、いつかどこかで口にした言葉を再びつぶやくのが聞こえた。

「やはり、そなたには龍神の加護がある」


 ……まだ、そんなことをいっているのか。


 いつしか、呆れるだけのゆとりがあったのに驚く。

 だが、それは心の緩みでもあった。

 炎の帝王に見抜かれたのも無理はない。

「撃て! 射殺せ!」

 命令とともに放たれた矢と銃弾に冷や汗をかいたが、それはひとつ残らず止まって見えたからだ。

 ひとつひとつ、残らず、払い落としたところで、飛刀がクロスボウの矢も銃弾も弾き返していたのに気付いた。

 テニーンが高らかに告げる声で、我に返る。

「その技があれば、斬れるはずよ……私を」

 遠目にも、炎の帝王が複雑な表情を浮かべたのが分かった。

 私の心と身体に、何かが起こっている。

 それが何なのか考える間もなく、モハレジュがすがりついてきた。

「斬っちゃダメ。好きなんでしょ……あの人のこと!」

 答えるまでもないことだった。

 テニーンを救い出すために、あの山の中から灼熱の荒野を抜けて、ここへ来たのだ。

 炎の帝王の持つ、龍をも屠る銃を破るために、父から受け継いだ技で飛刀を打つべく、再び荒野へ出て遠い山脈の鉄と水と土を求めたのだ。

 その飛刀で、半人半獣の者どもワハシュや、炎の神に仕える修行僧と共に竜騎兵から守った村の若者たちは、自ら仲間になってくれた。

 今、捕らわれの身となった仲間をちらりと眺めて、テニーンは斬りかかってくる。

「助けたくないの? あなたの仲間を!」

 胸元で弧を描く剣先をかわして踏み込むだけで、飛刀はテニーンの喉元を狙う。

 その技は、修行僧アッサラーの言うような、龍神の加護などというものではない。

 鋭い叱咤が飛んだ。

「遠い!」

 その声を聞くまでもなく、私は気づいていた。


 ……テニーンは、斬られようとして技を引き出している。


 その技で、渾身の力を振り絞る。

「分かっている! そんなこと!」

 それでも、できるわけがない。

 首筋をかすめた飛刀を冷ややかに見送ったテニーンは深く息をつく。

 だが、それはため息ではない。

 低い姿勢で腰だめに構えたのは、これがとどめだということを意味していた。

 私も、その一撃に備える。

 テニーンを斬れるわけがない。

 斬られるのは私だ。

 ならば、伝えられたものの中でも、最高の技で迎え撃つしかない。

 必殺の構えから、しなやかな身体が解き放たれる。

 その瞬間、微かな声が漏れるのが聞こえた。

「フラッドだけよ……この剣を鍛えた炎を消せるのは」

 天空から降り注ぐ陽光に、処刑場を見下ろすかのような炎が揺れる。

 それを切り裂くかのような刃が鋭くも冷たい風を巻き起こしたとき、私もまた、身体の中の何かに委ねた飛刀を振り抜いていた。

 

 ……分かった!


 テニーンが語ってくれた、龍の姫と恋に落ちた男の物語が脳裏に蘇った。

 男を誘惑した娘が、龍の姫を殺すために聞き出した秘密。

 龍の正体を現わして、天高く昇って行った姫。

 そういえば、テニーンは言っていた。

 いや、生き残ってる龍たちもいる、と。

 人に姿を変えて身を隠しているらしいが、その龍を封じた銃を生み出したのは、頭上高く燃える永遠の炎だ。

 それに挑むべく、私はいま一歩、大きく踏み込んだ。 

「テニーン……お前が最後の龍だったのか!」

 ひと薙ぎしした飛刀は、テニーンの首筋を過つことなく捉えた。

 百発百中の銃の腕を持つ、「火龍」と呼ばれた女盗賊が、まばゆい太陽に照らされた真っ青な空高く、くるくると回って飛んだ。

 そのとき、私の耳に残された声は、誰のものだったろうか。

「いい刀ね」

 瞬く間に青空は雨雲に覆われる。

 遠い記憶の彼方から降り注ぐような大雨の中、私は確かに、龍が昇っていくのを見た。

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