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猫は、ずっと歩みを続けていた。
嵐が静まった海の中を、堂々と突き進むかのように。トンネルの暗闇へと、のっそりと向かっている。
怠惰で勇敢な、ふてぶてしい猫。
辺りは、ガラスを割った後のように静かである。
枯れた文字達が、叫び散らかした後の静寂。駅の構内のがらんどう。出口に繋がる通路の空気は、ひどく冷涼で。
私は、ぴたりと立ち止まっていた。
物を考える気力が全くない。浮かんできた裸のイメージ。あの人だかりに紛れた母親は、私の足先を舐めていて。
──ああ、紙川様……。
私の演技に、心から陶酔していた。娘の瞳に、紙川様が宿ったのだと。うちの春香こそが、本物なのであると。
私の嘘を、ことごとく信じ込んだのだ。
最も、それは他の大勢も同じ事だったが。
崇拝に色情。私の事をちろちろ見つめる、数多の熱い視線。
男の格好をした私の振る舞いは、よほど理想の通りだったらしく。あの街の皆が、真剣に見惚れているのが分かった。
——ああ、紙川様……。
涙にそぼ濡れた、私の瞳。
零れた雫は、インクのような熱さで。公園の遊び場を席巻していた。空気に蕩けた甘い匂い。
——紙川様……紙川様……。
私が溢した涙は、真っ黒で。嘘のように甘美な、粘り気のある味。
舌の上で、とろりと。崩れた雫を、これ見よがしに転がす。
——ああ……ああ……。
すると。面白いように、大の大人達が揺蕩ってしまうのだった。
——ああ、紙川様……。
それは、泡のように脆い
あるいは、皆がかつての郷里を捨て去り、自らを押し込めるように狭い街に住み始め、幾年が過ぎ去った時の事。その頃には既に、あの街の人々は夢を見る事すらも緩やかに忘れていった。かつて
しがらみから逃げられると、皆が本気で思っていた。
——私を、お叱りください……。
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