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ぶくぶくに太った猫が、ゆったりと歩いている。
黒々とした豊かな毛並み。丸みを帯びたその身体には、確かな気品を感じるし、一見すると神経質なようにも思える。
一歩ずつ、慎重に歩みを続ける、静かな存在。
しっとりと、地面から足を離す仕草には、貴婦人のような淑やかさが宿っていて。その赤い瞳は、虚空を涼しげに見つめている。
うにょうにょと、形を崩している文字の群れ。
看板を埋め尽くした沢山の線は、焦げた蛇が群がっているみたいで。通路の壁の表面を、奔放に。さらりと滑っている印象が、目に焼き付く。
まるで、原初の姿に立ち返ったかのように。
意味の縛りから解放された文字は、自由に線を生やして。羽を伸ばして。文字の骨格が、溶け落ちて……。
蛇足だらけになった文章が、ぼしゃぼしゃと枝を広げている。
なんて、無様な末路なんだろう。
無意味な
結局、私の努力は無駄だったのだろうか。
眼鏡を受け取った瞬間から、今に至るまで。紙川様に言われた通り、あらゆる言葉の裏を探してきた。
ゴロゴロと、喉を低く鳴らす猫。
通路に響き渡る鈍い音に、レンズの内に見える青い髪。
全ては、紙川様の言葉を深く理解する為だけに。
きっと、由紀恵さんもそうだった。
古びて割れてしまった、あの眼鏡。白くてぶ厚い化粧は、肌に染み付いた言葉を隠す為のもので。それは、相当に恥ずかしかった筈である。
目の前でゆらりと呆けている、老人の霊。
髪や髭をだらりと伸ばした痩せぎすの年寄りは、悠々と地面を歩く猫の姿に怖気づいて。おずおずと、私たちに道を譲っている。
情けのない、その表情。
紙川様の猫に怯えた理由は、私にとっては明白で。逃げるように、暗闇の中から姿を消していった。
——たをばたな、をばたなを。
壁の看板に囚われた文字が、唸る。自分の内容を読み取って欲しい、帰り道の案内をさせて欲しい。
——をば、たをばた、たをばをば。
自分の存在を刮目して欲しいと。乱れた文章が、声高に叫んでいる。文字の外に記された、乱雑なイメージ。
——たをばなをばたなたをばたなたをばた。
夢のように嫌な触感が。脳裏に、網膜が焼けるように伝わって……。
止まった空気を裂くように、猫が吠え出した。
——をばたを、た?
暗闇を突き刺す、鋭い眼光。妖しげな赤い瞳をちらつかせ、
——をたばをば。
力の強い低音は、どこか荘厳で。仏閣で鳴らされる鐘のような硬い声質を持ちながらも、耳を吹き抜けた感触はとても繊細だ。
——をばたをば、を……。
幽玄なる響き。胸の奥に木霊し、辺りを包み込む、地鳴りのような振動。震える喉から放たれた山彦は、静かに流れる清水のようで。
——たをば!!
無意味な文字の濁流を、鎮めている。看板の中へと戻ってゆく、脳裏を過ぎった文章。
——た、、、ば……。
嗚咽の混ざった声が、苦しそうに。しゅるしゅると、言葉の蔓が縮んでゆく。呪いに変わってしまった、親切な呻き声。
——た……。
出口へと導いてくれる筈だった、案内文の印象が。消え去って、ただの灰に変わって……。
暗闇だけが、頭の中に残っている。
微かな明かりを頼りに、怖気づきながら。改札へと向かう道を、何とか歩み続けている。猫が放った視線の、陽炎のような揺らめき。薄闇に覆われた通路の、しんと張り詰めた空気。出口から漏れ伝わってくる、僅かな光の冷たさ。
出鱈目なトンネルの中を、ずっと進んでいる。
心細くて、仕方がない。古びた言葉が化けた、脈略の無い声。意味の繋がりが解けた文章の、ノイズのような騒がしさに耐えながら。ただ、前へと向かい続けてきた。
それは、まるで壊れたラジオのように。
——。
聞くに耐えられたものではない。やっぱり、私は紙川様のようにはなれない。無数の汚れた文章を愛して、自分の内側に取り込んで。
——。
そして、完全に理解をする。結局、自分には無理だった。ガラスを隔てた、人工の視界。
——。
紙川様に与えられただけの、眼鏡では。空白を見つける事なんて、出来はしなかった。
暗闇の中に映っている、猫の後ろ姿。
紙川様が飼っている野良猫は、随分と先の未来を見つめていて。私なんかよりも数段、物を見る目が優れている。紙川様は折角、私を選んで下さったというのに。
よっぽど、私に才能が無いのだろう。
あの街の中でも、そうだった。
人々を救うのはいつも、紙川様から頂いた言葉で。私はそれを皆に伝えるだけ。本当の意味で、自分の言葉が切っ掛けになったことは、一度もない。
だからこそ。もう一度、私はこの場所に来たのである。
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