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冷たい構内には、埃がチラチラと舞っている。

放置されたと思しき、明滅している駅名標。

書かれた名前に見覚えはなく、複雑な漢字と漢字をみだりに混ぜたような、よく分からない形をしている。

ここは、紙川様の家の最寄り駅。

窓の中に映った自分の影像ようぞう。外の暗闇をずっと見つめていると、いずれは辿り着く場所。

狭間の駅。

存在しないはずの区間の村落に、紙川様は住んでいる。

地図にも路線図にも、載ってはいない場所。

降りたホームには、人気ひとけが全く無くて。線路の向こう側に長い椅子が辛うじて見えた。昔と変わらない、侘しい風景。

幼い頃に一度、訪れた時のままである。

物音一つもしない暗闇に、寒々しい電灯の明滅。紙川様が連れてきて下さった時には、私には何も見えなくて。最初は、ただただ怖かった。

果物の、匂いがする。

微かに甘酸っぱい、林檎の匂い。乾いた空気の中から、柔らかな蜜の香りを感じて。

酩酊したような、気持ちになってきている。

そういえば、話を聞いた事がある。

毒の入った林檎を食べた、お姫様のお話。御伽の国の主人公は、その後、永い眠りに落ちて。決して、目覚める事が無かったという。

乾いた文字の接吻を、受け入れるまでは。

紙川様が、昔この場で語ってくれた通り。あらゆる文章の中には、どうしようもない空白があって。優れた人間に読み取られる事を、ずっと待っているのだという。

——だから、春香さん。

その時の声は、かなり真剣だった。夜風はいななき、暗闇の中へと収束をしてゆく。ちらりと見えた、赤い眼光。

——しっかりと、その目で見ていて欲しいの。

のっそりと出てきた、猫の輪郭が。

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