第一幕

— 1 —

「……もう、止めなさい。」

母の出した答えは、ひどく冷淡だった。

「あんたは、綺麗な花束なのよ……?」

抑圧的とすら感じる、厳然とした口調。重々しい母の声は、玄関に響いて、辺りをしんと包み込んでいる。今にも破裂してしまいそうな、形相の恐ろしさ。

「紙川様に捧げる、潔白な歌声……」

まるで、お腹の中で炎が渦巻き、その痛みに耐えかねているかの如く。母の顔には、苦悶の表情が浮かんでいる。きっと、距離を測っているのだろう。

「身体を、せっかく授かったのに……」

私との関係を完全に壊さない為の、言葉の飛距離。親として最低限、自分の子供を絶対に手放すまいと、必死に努めている様子が伺える。しかし、それでも。

「……どうして?」

それでも尚。嫉妬がこぼれてしまうのである。紙川かみかわ様に、最期まで選ばれなかった人間として。選ばれた私に対する、尋常でない積年の思いが。ぐらぐらと、この場の空気をひりつかせている。

こうなる事は、分かりきっていた。

「どうして、そんな事を言うの……?」

幼い頃に聞かされ続けた、劣等感。紙川様への恨みや辛みをぶつけられて、私は育ってきたのだから。夜毎に吐き出される、叶う事のない絶望。

「あなたは、大事な……」

嗚咽にも似た、怒鳴り声で。母は、私に縋ってきたのである。紙川様からのご褒美を、失わない為に。

「大事な、あたしの娘なのに……」

私に対して、必死に虚勢を張り続けていた。お前が受け取った花束は、本当はあたしの物だった。紙川の野郎が、勝手にあたしから奪い取ったのである、と。

母は、密かにそう祈っていたのだ。

「ねえ、春香……」

やっぱり、哀れな顔をしている。

泣いてる理由も、本気で私を心配してそうな所も、あの頃とは全く違うけれど。愚かな所は、決して変わらない。無垢で、ひどく純情なまま。

あの方の好みとは、真逆だというのに。

「黙ってないで、答えてよ……」

あの日、私に花束を贈ってくれた、女の子。密かに名字を教えてくれた、幼い子供。自らを"紙川"と名乗った少女は、私に眼鏡を掛けてくれた。

「選ばれなかったから……?」

そっと、王冠を被せるかのように。あの方から授かった視界には、暗い花々が広がっていて。他人の情動が、はっきりと見えるようになったのだ。

「あたしが、愚かだから……?」

燃え上がった薔薇の花びらに、白い百合の枯れゆく姿。綺麗な感情が、母の内側から消え去ってゆく。胸に咲き誇っていた、深紅の薔薇。

「そんなにも……」

紙川様からのご褒美が、失われているのである。熱に当てられた、油絵具のように。ドロドロと、お腹に広がっていた花々が溶け落ちる。紅白が入り混じった、ボヤけた色彩。

「そんなにも、反抗的なのは……」

薄靄うすもやのような威厳が、果てている。僅かに吐かれた、言葉のように。色の失せた熱気のように。私に向けた殺意が、空回って。

「紙川様の……」

微かに、口先が震えている。しゅるしゅると。萎んでは縮んでゆく、自分のお腹の事に。今更、ひどく怖気付きながら。吐き出された花々は、やはり……。

「あんたが、紙川様の花束だから……?」

やっぱり、鮮やかだ。赤子の色をしている。透明で、なおかつ痛切な花の姿。幼稚な気持ちは既に、甘く切なくなって。柔らかい風のような味がする。白い初雪の瑞々しさ。

「シラ切ってんじゃないわよ」

痛いくらいの舌触りが。喉の奥で踊り狂っている。ふわっと吸い込んだ、甘いお腹の底。母の後悔の念が、もの静かに。

「アイツみたいな……」

じんと、私の五臓に染み渡っている。なんとも、滑稽である。届く訳がないと、知っているのに。前にも、体験した事がある筈なのに。

紙川アイツみたいな顔しやがって」

母は、未だに囚われている。紙川様が残していった、冷たい遺産。脈拍に、込もった熱さの余響。

「あんたも……」

悴んだ愛情が、無慈悲に包まれてゆく。形のない花束に、毒ナイフ。純白の……。

「あんたも、あたしを見捨てる気なの?」

純情な剣呑さが、私の指先で舞っている。軽薄な文章のように、黒く染まった蝶のように。堕落した母の歌声は、救いようが無くて。

「……もう、」

どうしたって、子供なのである。変わってしまった、声の迫力。濁った瞳の内側に。

「もう、止めてよ……」

住んでいるから。冷淡な、ドレスを纏った口ぶり。哀れな顔した、女の子が。


ああ、紙川様。


「ねえ、春香……」

どうして。私の母はここまで愚かなのだろう。とうの昔に、分かっていた筈なのに。

「あたしから、離れないで……」

何故、未だに願っているのだろうか。私がこの家を出る理由なんて、明白なのに。

「一人にしないでよ……」

掴まれた手を無理やり解いたのも、家族との縁を断ち切るのだって。全ては……。

「許して……」

全ては、この街の外に出る為である。紙川様の元へと、向かって。

「あたしを、許して欲しいの……」

今よりも、沢山のご褒美を貰いに行くというのに。この女といったら。

「ごめんなさい……」

今になって、私に謝罪をしている。何もかもが、もう遅い。必死の懇願も、咄嗟に編み出した小綺麗な嘘も。

「本当に、ごめんなさい……」

扉に手を掛けた私に、通じる訳もなくて。完全に、無駄な事だというのに。


それでも、母は祈り続けていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る