第25話 膨れ上がる不安
私、水瀬彩夏は『ダイヤモンド・プレッツェル』の事務所に来ていた。
本当であれば今日一日はオフ……のはずだったが、急遽、午前中に仕事が入ってしまったのだ。
今秋から始まるドラマの撮影も半ばを迎え、色々とやるべき事が増えつつある。
その影響もあってか、日に日に溜まる疲労の蓄積は免れないものの、女優としてのやりがいは感じてはいるのだが……。
欲を言うのであれば、もう少し休養が欲しい所。
まあ、こればかりは事務所側のスケジュールに従わないといけないから仕方ないのかもしれないけれど。
周囲に期待や圧力を押し付けられるこの業界では、それなりの体力と忍耐力が必要ということね。
なにより、マネージャーの川島さんに関してはここ最近、徐々にこちらの仕事に慣れてきたものの、まだ完璧とはいえない。
やはり、芸能界の職に就くということはかなりの仕事量をこなさなければならないということなのだろう。
そんな彼女にも本当は今日、少しだけでも私の仕事に付き合って欲しかったのだけれど……どうやら大事な用事があるとかで来れないそうね。
その用事とやらが気になったので詳しく聞きたかったけれど……まあいいわ。
今日はもともとオフだって伝えてあるし、これ以上彼女を拘束するのは野暮だもの。
せっかくの休養日にいきなり呼んでも疲れるだろうし……。
川島さんには日頃からたくさん頑張ってくれているから。
ここは私が踏ん張らないと。
「江本君。今日は本当にありがとう。わざわざここまで付き合わせてしまって……申し訳ないわ」
「いやいや。僕の方こそ、先日の撮影で気になったところはあったからね。急遽、監督から誘われた時は少しびっくりしたけど、このぐらいは何てことないよ」
「ふふ。心が広いのね、貴方は。よくこの業界では休みの日に呼ばれて暴れる人も居るぐらいなのに」
「まあ……気持ちは分からなくもないけどね。でも、こうして水瀬さんと一緒の時間を過ごせて、僕は嬉しいから」
そう言って、口元に笑みを浮かべながらこちらをじっと見つめる江本君。
思わず、これは口説かれているのではないかと一瞬感じたが、この人はそういう人でないことは分かっている。
今までも、何回かCM撮影で一緒に共演したことはあるし、お互いのことはよく知っている仲だからだ。
数年前まではあまり有名じゃなかったけど……ここ最近、急に実力が伸びてきた人でもあるし。
ふふ。それに。
こうして努力をし続けて、ある物を掴み取った人は嫌いじゃないしね。
どこかの誰かさんも見習ってほしいものだわ。
本当に。
「それにしても……さっきの。井上君だっけか。彼からすごい睨みつけるような視線を感じたんだけど」
「ああ。あの人……元からそういう人だから。あまり相手にしなくて良いわよ」
「そ、そうか……。実際に見たのは初めてだけど……噂に聞いたとおり、やっぱり好印象じゃないね、彼は」
「あら、もしかして江本君も事情を知っている感じかしら」
「まあ、ぼちぼちってぐらいだけど。あの大介君からもよく彼の悪行は聞いていたからね」
「え……? そ、そうだったの? ああ、そういえば貴方って大介と仲が良かったわね」
「アハハ。まあね。彼とはよく飲みに行く仲だったから。愚痴の言い合いばっかだったけどね」
「ふふ。知ってるわ。大介からもよくあなたのことを聞いていたもの」
そういえば、少し前――まだ大介が私のマネージャーだった時。
大介の事をよく遊びに誘っていたのもこの人だった。
大介はなぜかこの江本君のことをかなり嫌っていたが、それでも何かと誘われたらホイホイと付き合っていたし。
まあ、本人の口からは「あの野郎はマジで信用できんッ!」とか何とかぶつぶつ呟いていたけど……。
それでも江本君と一緒に居るところを見ると、満更でもなさそうな様子だったし。
というよりも、意外にも大介が笑ってる所をよく見かけたっていうのもあるから……。
アイツったら、私と居る時はいつも不機嫌そうな顔をするのに。
どうしてあんな態度を取るのかしら……。
ほんと、気に食わない男……。
私だって、大介のことはそれなりに認めていたはずなのに。
大介もなんだかんだで仕事は完璧にこなしてたし、いつも私のことを守ってくれてたから。
アイツも私のこと……ちょっとぐらいは気があるんじゃないかと思っていたのに。
それなのに……。
もうっ。
どうして私の元から離れて行っちゃうのよ……。
事前に一言ぐらい言ってくれれば、私だってあなたと一緒に付いていったというのに――って。
な、何よ私。
さっきから大介、大介って。
ば、バカじゃないのかしら。
もう彼のことなんてどうでも良いっていうのに。
というか。
今さら、どうしてこんなにアイツのことが頭の中から浮かんでくるのよっ。
もう関係ないんだから、このタイミングで思い出さなくたって良いじゃない……。
大体、アイツは勝手に理由もなく、この私の前から消えたんだから……。
ふん。なによ……。
大介ったら。
あなたのことなんか、もうこれっぽっちも考えてないんだから。
せっかくこの私がこんなにも心配してあげてるっていうのに……。
いつまで経っても姿を現してくれないし……。
なんなのよ……もう。
「大介君のこと……心配なんだね、水瀬さんは」
「へ? ちょ、急に何を言っているのかしら江本君。私、アイツのことだなんて一言も――」
「アハハ。顔を見たら分かるよ。数年も関わりがあったら何を考えているのか分かる。これでも一応、僕は役者だからね」
「そ、そんなの……! 別の事を考えているのかもしれないじゃない!」
「うん。まあ……確かにその線もあるといえばあるね。だけど、あの国民的女優である君がここまで他人に見透かされるような状況は……彼が原因なんじゃないかと思ったから」
やはり、ここまで暗くなってしまうと分かってしまうものなのだろうか。
いつもは平常心を貫く私でさえ、僅かな表情の変化に気づかされるとは。
私ってば。
女優失格ね……。
いや、むしろ。
彼……江本君とは何度も共演を重ねてきた影響も少なからずあるのかもしれないけれど。
そ、それもこれも全部アイツのせいよ。
大介が傍で見守ってくれてさえいれば、私だってこんなことには――。
「江本君は、何か知ってるの? 大介がどこにいるのか……」
「いや。残念ながら僕にも分からないんだ。一応、毎週何回か連絡はしているんだけど……これがさっぱりでね」
「そう、なのね。やっぱりアイツは……」
「とりあえず、僕の方でも何か手がかりが無いか探してみるよ。一応、これでも彼とは友達だからね」
「うん、ありがとう江本君。でも、あまり無理はしないでね。大介のヤツ、どこでほっつき回ってるか分からないから」
「アハハッ。でも、意外とそこら辺の近くに歩いてたりするかもしれないよ? 大介君はああ見えて、結構どんくさい所があるからね」
「ふふ。そうかも。それに、人脈も多い方だったからまだ誰か情報を持っている人はいるかもしれないしね」
そんなことを言って、お互いに苦笑をしながら仕事の打ち合わせを進める。
彼のおかげで、少しだけ心が軽くなったような気がする。
ふふ。江本君には感謝しないとね。
それにしても。
今日の午後から、どうしようかしら。
そういえばちょうど、夕飯の食材とか切らしていたから……。
うん。
気分転換に町中に出掛けるのも良いかもしれないわね。
最近、散歩することが少なくなってきたから……これを機にやるのもアリね。
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