久那斗物語

野望蟻

久那斗物語


 鹿島潟 おきすの森の 不如帰ほととぎす

              船をとめてぞ 初音聞きつる

                           藤原時朝


 ――来ねばよいのに。


 少女の姿をした神は独りごちる。


 おほみこともちのつかさ――現在の太宰府から遙か先の海上において、華奢な体躯に白装束を纏った少女が一羽の大きな天鳥の背に立っていた。

 腰まである黒髪を風にたなびかせ、月光に照らされた琥珀の双眸で、とある集団を睥睨した。少女の見やる海上は、海を埋め尽くさんばかりに広がる竜頭の船が鎮守を目指し航行していた。


***** 


久那斗くなと様、異族を誅し鎮守を御守りくだされ。八代様(※北条時宗)は蘭渓道隆らんけいどうりゅう様の無念を、無学祖元むがくそげん様の教えを貫き、蒙古の蛮族を退ける気概を見せておられます。また、異族の襲来を天上様(※後嵯峨天皇)も憂いており、久那斗様の助力を切に願っております」


 遠く鎌倉の地より参詣した勅使は、拝殿の前で平伏した。

 弘安の役、現在で言うところの二回目の元寇である。

 仏も神も――矮小なる人を救うものならば信ずる道は通ずるか。

 久那斗は小さくため息をつき、「兄者らには頼まぬのか?」と勅使に問うた。

 兄者とは、かの有名な武神、建御雷神(タケミカヅチノカミ)と経津主神(フツヌシノカミ)を指す。未だに烏帽子を上げない勅使は平伏したまま答える。


「鹿島様には蝦夷平定以後、人の諍いには介入せぬと断られ、香取様は天津甕星(アマツミカボシ)との戦で傷を負い浮島宮(現・稲敷市)にて養生なさっておりますゆえ」


 なるほど、久那斗は合点が言った。

 息栖の杜に鎮座するとは言え、建御雷と経津主に声をかけず末妹である水先案内人に声をかける道理はないと思っていたからである。


「勅使よ、日出ずる国ということは日はいずれ沈む――――落日ありきということを忘れるなかれ。国の興亡に妾は興味ない。神は気まぐれぞ。気の紛れることにしか興を抱かぬ」


「防塁を築き、八代様に奉公せんと各地より御家人が集結し、蒙古を討つは盤石でありましたが、大軍を率いて鎮守を脅かしております。島津家、龍造寺家等、集結した御家人が奮戦しているところであります。久那斗様は厄災を祓う神と存じております。どうか国家の安泰に助力を頂きたく参じました」


 勅使は平伏しつつも、袖の下から手の平におさまる大きさで作られた桐箱を取り出した。

 

「それはなんじゃ」

「これは唐菓子からがしであります。久那斗様に是非にと」

「よし行こう。今すぐ参ろうではないか。民を救うが神ぞ」

 

 唐菓子、唐より渡来した珍味と聞く。一度は食してみたかったのじゃ。

 久那斗は勅使の願いを快諾した。


*****


 久那斗は遠く肥前の地において、人に手を貸すことを悔いていた。

 あの甘味を味わえたことは良い経験じゃったが唐菓子程度で安く応じることではなかったわ。

――神儀によって認められた時以外に人同士の争いに神は介すべきではない。それは自然の理に反するからである。

 口を開けば呪文のように兄者達は言っていた。

 相談もせずに勝手に決めてしまったこと、そして兄者達の怒り狂う様を想像し後悔していたのだ。

 煌びやかな曜変天目に彩られる両翼を羽ばたかせ、天鳥はさらに空高くへと舞い上がる。


「久那斗よ日を超えたぞ」

 

 天鳥――――天乃鳥船神(アマノトリフネノカミ)は久那斗に問いかける。


「うむ頃合いじゃな。付き合わせてすまぬのう」


 久那斗は裏地を朱で染めた白装束を正すと、両手を胸の前で組み、大きく息を吸い込み名乗りを上げた。


「元族の王クビライよ、宋を滅し未だ満たされぬか。倭の国を興し、倭の民に寄り添い、和を持って生きる。我、久那斗の神。厄災の全ては妾が祓わんとせん。厄を来させぬ来などの力、とくと堪能せい」


 琥珀の瞳が輝きを増す。久那斗の全身が翡翠の如き光を発する。


「集えや」


 久那斗は、袖より取り出した金色の神楽鈴をしゃらんと一振り鳴らした。透き通った鈴の音色に合わせ久那斗の周囲に雨雲が大挙する。


「吹けや」


 久那斗が神楽鈴をもう一振り鳴らす。海がざわつき強い風が吹き始める。

 海上を走る竜頭の船団から銅鑼が鳴り始め、かがり火が灯る。


「降れや」


 久那斗を中心に集った黒雲に向け、神楽鈴を突き上げる。

 拳より大きな雹が竜頭の船団に降り注ぎ、青光りする雷光が各船の帆柱目がけて突き刺さった。


「呑めや」


 久那斗は海面に向けて両の手で握った神楽鈴を振り下ろし、手首を捻り始める。

 すると、鈴の音色に呼応するかの如く海面に大きな渦潮が無数に現れ、一隻、二隻と竜頭を海底に引きずり込む。

 江南より襲来した十万を超える兵士、万に近い竜頭の船は、数刻続いた天変地異とも呼べる未曾有の嵐により壊滅した。

 船と船がぶつかり合い、飛沫を上げて渦潮に呑まれ、兵士達は船の木片にしがみつき、叫びながら沈んでいく。数多の死者の声が肥前の海にこだまする。

 一二八一年七月三十日深夜、肥前の海は竜頭の船ではなく、元兵の死屍が埋め尽くすこととなった。


「異族よ、去ねや」


 久那斗は最後にそう呟き、常陸国へと帰参した。



*****

 

「久那斗よ、勝手に元族の戦いに手を貸したそうじゃな。余程の理由があるのだろうな?」

 

 帰参した久那斗を鳥居の前で待っていたのは、香取様と呼ばれる武神――経津主神ふつぬしのかみであった。

 二十尺はあろうかと見紛う体躯に、胸元近くまで伸びた髭をたくわえ、天乃鳥船の背に乗り帰参した久那斗をじいっと睨んでいた。

 あらゆる武器を操り、益荒男ますらおの代表格としても名高い経津主は怒りに震え、額には怒張が浮かび上がっていた。

 

 経津主神、建御雷神、久那斗神は実の兄妹ではないが、義兄妹の契りを交わしていた。

 久那斗は神代の時代、日川の浜(現・神栖市日川)に天乃鳥船とともに何処からか現れた。経津主と建御雷が日川の浜に駆けつけると、浜辺には天鳥を操る稚児が立っていた。

 久那斗は心の奥底を覗き込むように、琥珀色の瞳でじいっと二神を見比べ始めた。

 二神は稚児に問いかけた。


金碧輝煌きんぺききこうの羽を広げる鳥よ、そしてその鳥を操る稚児よ。主らは何しに日川の浜にやってきた。事の次第によっては、我々が相手をしようぞ」


 建御雷は右手を鋭い氷刃へと変化させ、経津主神は虚空から捻り曲がった蛇矛を取り出した。だが、稚児は恐れもせずニンマリ笑うと、二神に契約を持ちかけてきたのだ。


「妾は久那斗、二神の強さに惹かれこの地に降り立った。不浄なるものから生まれ出でて、不浄を祓う神ぞ。妾と妹背いもせの契りを結んでくりゃれ」


 妹背とは兄妹、夫婦を指す。久那斗の言う妹背は兄妹のことであった。

 

「妹背になりたいと申すか。建御雷よ、主はどう思う」

「おかしきことよ――だが良い機会じゃ。我らも義兄弟となり、三兄妹として常陸と下総の安寧に尽力しようではないか」


 三神は、日川の浜で兄妹の契りを交わした。

 経津主らは後々知ることとなるが、久那斗は伊邪那岐イザナギ黄泉平坂ヨモツヒラサカから戻る際、妹である伊邪那美イザナミに投げつけたフンドシから産まれた神であった。

 出生を知った二神が、妹となった久那斗を「お転婆のフンドシ姫」と呼んでからかったことがある。

 結果、香取の海が三日三晩荒れ狂い、凶悪な嵐に大勢の村人達が「御二方とも久那斗様に謝りくだされ」と仲直りするよう嘆願に来るほどであった。

 鹿島神宮、香取神宮、そして息栖神社――東国三社の神紋は三つ巴の巴紋である。

 三柱を表した巴紋を神紋としていることからも、久那斗神は他の二神に勝るとも劣らない神性を有する神だったのだ。

 ただ、他の二神と異なり久那斗は力の使い方を知らなかった。

 些細なことで神力を発現させる上、強弱の加減を知らないため、時には家屋を壊し、田畑を潰し、家畜を逸走させ、海を脅かした。

 そして久那斗が騒動を起こすたびに、兄達が村人や神々の元へ、御神酒を持参して謝り回っていたのだ。

 とはいえ、今回はこれまでと事情が異なる。

 神議にもかけず、独断で人同士の戦に力を貸し、戦局を大きく変えてしまったという事実は、決して許されないことであった。

 久那斗は天乃鳥船神から降りると、壱の鳥居の前に立ち、憮然とした表情を浮かべている経津主に謝った。

 

「あのな香取兄ぃ、唐菓子を持参した勅使に助力を求められてのう。許してたもれ」

 

 経津主は怒りを通り越し、呆れて物が言えなかった。

 菓子に釣られて人同士の戦に手を貸したなど、他の神々に言えるわけがない。

 だが、弟分の建御雷が断り経津主も手負いの身であったため、久那斗にお鉢が回ったことが原因でもある。

 釈明の余地はあるとはいえど、神議で決めた事はもう覆すことはできないのだ。

 経津主が、久那斗の隣にいる天乃鳥船を睨むと、天鳥は両翼で顔を隠し久那斗の後ろにそそくさと隠れた。


「天乃鳥船も何故に久那斗を背に乗せた。主の役目は違うであろう。水の先に死者を先導するのが役目であろう」

 

「香取兄ぃ、天乃鳥船を責めるでない。妾が頼み込んだのじゃ。妾が罰を受ければよいのであろう。鞭打ちか? あの時のように岩戸に十年ばかしお隠れでもしようか?」


 天乃鳥船を庇う白装束の久那斗を見つめ、経津主神は思考する。


 ――――罰か。

 久那斗は自分がしでかした結果を、生み出した原因を知らない。

 日出ずる国が、神風によって強国を退けたという事実を。

 蒙古の国、宋の国、そしてこの国自身に及ぼす影響は計り知れぬものである。

 結果が原因を産む。

 遡上そじょうする理(ことわり)というものをその身に叩き込まねばなるまい。

 たとえ、百年ももとせ千年ちとせの年月がかかろうとも。

 

「久那斗、お主は以後神議への参加を禁ずる。そして人に降れ。人墜ちじゃ」


 久那斗は目を見開き、経津主に掴みかかった。

 

「なぜじゃ! なぜに妾が人にならねばならぬのじゃ! 国造りはこの国で生きる人のためじゃったろう! 建御名方と鹿島兄ぃの神力相撲で先導したのは妾じゃ! 人のために神が力を貸すのが何故に悪いのじゃ! 鹿島兄ぃだって蝦夷平定に力を貸しておるではないか!」


「久那斗、お主も神ならば神の約定を知れ。お主への沙汰は神議にて決まっておる。なあに、息栖の杜は天乃鳥船も住吉三神もおる。主神不在でもさして問題はなかろう」


「承知などできるか!」

 

 久那斗の怒りに呼応して香取の海(※現・利根川)が激しく波打ち始める。

 ……人から成ったおほみこともちの神(※菅原道真)を守り、自らは人に降るとは何とも哀れな神よ。

 経津主は久那斗に憐憫の情を持ちながらも、掴みかかってきた久那斗の頭を右手で鷲づかみにし、封神の術式を発動した。


「これから貴様という存在は神降ろしの巫女にその身を宿す。その巫女が子を宿せばその子へと受け継がれ、人として生きる楽しさを知るとよい。そして……」


 久那斗は未だ手足をばたつかせ抵抗をしているが、経津主は気にも留めず手向けの言葉を続ける。


「そして――――人として生きる哀しさを知れ」


 経津主から注ぎ込まれる神力により、久那斗は少女の姿を保つことができず、蹴鞠ほどの浄瑠璃によく似た魂玉へと変化し、最後は経津主の掌に収まる程度の勾玉に成り変わった。

 経津主は久那斗の神魂しんこんが宿った勾玉を握り、香取沖を見つめながら一人呟いた。


「さあて、歩き巫女でも探すかのう」


*****


 経津主が見出した巫女は、小谷の巫女と呼ばれる歩き巫女であり、名をおとりと呼んだ。

 神之池に棲まう大蛇の贄となろうとしていたところを、経津主が一計を案じ助けたのだ。

 おとりは経津主に大恩を感じ、自らの肉体を神の依り代とすることに快諾した。

 小谷の巫女に久那斗の勾玉を封じ、以後小谷の一族は息栖の杜を住まいに降神の巫女として暮らし続けた。

 統治者がめまぐるしく変わり、徳川の世になろうとも小谷の巫女は久那斗とともに血を繋いでいった。

 久那斗は茨城訛りによるものか、他の地からの呼び名によるものか、いつしか岐(クナド)と呼ばれるようになり、岐を継ぐ巫女は悪霊祓いと死者の弔いを業とした。

 小谷の巫女も久那斗と心を通じ合える巫女もいれば、逆に心を閉ざし久那斗の呼びかけを拒絶する巫女もいた。それどころか憎悪の感情を久那斗に向けてくる者もいた。

 人の身でありながら人ならざるものをその身に宿すことは相当の重圧であったのだ。

 鹿島神宮で春先に行われる祭頭祭の日には、神の姿に戻って経津主や建御雷と逢うことができた。

 封じられた当初は経津主を恨んでいた久那斗であったが、長い年月を人と共に過ごし、自らを省みる心を覚えたのだ。 

 徳川の世も終わり、異国との交流が始まり異国との軋轢が生まれた。


 ――明治元年、勅使トシテ神祇判官事正四位右近衛少将源朝臣植松雅言ガ参向奉幣ス。

(※西暦一八六八年、勅使として、神祇判官事正四位. 右近衛少将源朝臣植松雅言が息栖神社を参向奉幣した)


 そして、神々が創った倭の国は強国へ戦を仕掛けた。

 久那斗は厄災を払いはするが、自ら厄災に行く者に力は発揮できない。

 来る者は拒むが去る者は追えないのだ。

 とうの昔に神から離れた人々は人同士で諍いを続けていた。

 

――天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本国皇帝ハ忠實勇武ナル汝有衆ニ示ス。

(※天の助けによって先祖代々皇位を継承してきた家系に属する大日本国の皇帝は、忠実にして勇敢な汝ら国民に以下のことを知らせる。)


 大正三年七月二十八日、オーストリアがセルビアに宣戦布告し第一次世界大戦が勃発。 日本は、同年八月四日のイギリスの対独宣戦に呼応し日英同盟を理由にして、八月二十三日にドイツに対して宣戦布告。


――宣戦報告の供進使が息栖神社へ参向。


 経津主に力の大半を封じられた久那斗は、人々の歴史を、国の栄枯盛衰をただ見続けるしかなかった。

 

*****


「のう、与兵衛よ。息栖の神社に住まう小谷の巫女を知っておるか? 小谷の一族は神降ろしの一族だそうだ。しかも悪神らしいぞ」

「へえ、八千代も大変だのう。兵隊さんに悪神呼ばわりされるとは」

「なんじゃ知っておるのか。ああ、与兵衛は軽野村の出じゃったな」


 新堀与兵衛は宿舎の寝具に腰掛け同期の軽口をあしらいつつ、制服に縫いつけられている桜と錨が刻まれた七つボタンのほつれを確認していた。

 与兵衛は零戦乗りに憧れて海軍を士官し、予科練卒業後は鬼も逃げ出す谷田部飛行隊へと配置され、昭和十九年十月、茨城県小川町にある百里ヶ原基地(※現在の百里基地)の第七二一海軍航空隊転属となったが、わずか一月も経たないうちに、故郷に開隊された神之池海軍飛行場へ転属してきたのだ。 

 だが、戦局は悪化し飛行場とは名ばかりで、訓練用の零式練習機も、そのほとんどが戦線へと送り出されていた。銚子や波崎にも空襲が来ており、状況は逼迫していた。


「護国興亡危急存亡の時であり、大和魂で鬼畜の敵国を討ち果たせ。周知のとおり、ある秘密兵器を運用する作戦が承認された。そのための特別訓練に入るが訓練のない時は自由に過ごせ。自由時間には必要な準備をしておけ」


――命惜しまぬ予科練の意気の翼は勝利の翼、か。

  

 中尉の訓を聞いた新堀与兵衛の脳裏には、不意に若鷲の歌詞と幼馴染みである八千代の顔が浮かんだ。必要な準備、とは遺書をしたためておけという意味だと皆わかっていた。

 与兵衛は特別外出の許可を得て息栖の杜に顔を出すことにした。

 息栖の杜は様変わりしていた。鳥居の先にある参道から境内に至るまで、開墾され畑になっていたのだ。

 また、神具や装飾の類いが全て外されていた。軍用の金属が不足しているため接収されたのだろう。


「八千代殿はおりますか」

 

 与兵衛は、畑に肥やしを撒く人に声をかける。


「八千代様は本殿で必勝の祈祷中じゃ――おお、軽野村の与兵衛じゃねえか。海軍服が似合うのう」


 腰は曲がり、ぼろ切れのような服を着ているが、息栖神社の氏子として毎朝掃き掃除に来ていた農夫であった。


「与兵衛兄ぃ!」

 

 社殿からモンペ姿の少女が飛び出してきた。

 小谷八千代おだにやちよ、降神の巫女を継いだ岐神の巫女である。

 子供の頃、息栖の杜に新堀与兵衛はたびたび遊びに来ていた。

 与兵衛が一つ年上ということもあり、二人は兄妹のように仲良くしていたのだ。


「八千代久しいの。どうだ格好いいだろ」


 与兵衛は海軍帽のツバを正面に正し、両腕を広げて八千代に見せつけた。


「うん、格好ええよその姿。本当に兵隊さんになったんだねえ。笹梅くらいしか出せねえけど少しばかり時間はあるんだっぺ? 忍潮井おしおいの前で利根川見ながら話でもすっぺ」

「ああ、んだな」


 八千代が小躍りしながら味の薄い茶と笹梅を持参する。

 息栖の杜には、社殿へと通ずる鳥居とは別に利根川に向けて鳥居が建てられている。

 航行の安全と利根川の平穏を願い建立された鳥居の両脇には、忍潮井と呼ばれる霊泉がある。

 伊勢の明星井、伏見の直井と併せて日本三大霊泉の一泉であるこの泉には、それぞれ男瓶(おがめ)と女瓶(めがめ)が沈められており、大同二年に久那斗神が日川から息栖の杜に還座した折、泣いてついてきた瓶と言われている。

 与兵衛と八千代は、幼少の頃からこの忍潮井で遊び、小腹が空けば笹梅と呼ばれる笹で挟んだ梅干しを、口を赤く染めて仲良く食べ合っていた。

 

「どうだっぺ、この笹梅うめえべ?」

「ああ、うめえ」


 子供の頃と変わらず二人は忍潮井脇の地べたに座り、日に照らされる利根を眺めていた。

 川岸に繁茂する青葦や真菰が時折吹く寒風に身を縮めながらも、枯れた葉と入れ替わるように青々とした葉を伸ばし始めていた。春の到来を感じさせるその姿はかえって与兵衛を暗澹たる気持ちへと誘った。

 暗い感情を払拭すべく、八千代の容姿をまじまじと見直すと、以前会った時より艶のあった黒髪がくすみ顔も煤で汚れていた。

 米など久しく食べていないのだろう、頬はうっすらとこけており、笑顔を絶やさないようにしているが、瞳も輝きを失っていた。

 

「あの境内見たけ? とうとう息栖の杜も畑になったんよ。米なんぞ無くたって蒸かし芋で充分腹はくちくなんだべな」

「この前よ、ヤンキーの飛行機が焼夷弾降らしてきてなあ。防空壕に慌てて逃げたんだ。氏子の茂平さんが逃げっときに腰さやってなあ、畑仕事も怖い(※疲れた)怖いって、もうええ年なんだがら私がやるって言っても聞かねえ」

「今日は休みなんけ? 今はどこの基地さ詰めてんだ? 霞ヶ浦け? 横須賀け?」


 元気な姿を見せようと八千代が矢継ぎ早に現状を話し始める。それが一層痛々しさを感じる。

 言おうか言うまいか迷ってはいたが、八千代の姿を見た与兵衛は自分の立場を打ち明けることに決めた。

 

「神之池海軍飛行場じゃ。今度、鹿屋に行くことなる。神風を巻き起こしにな」


 八千代は口をつぐみ、しばらく何も答えなかった。

 

「そうけ……選ばれたんは……誉れだっぺな」

 

 八千代は与兵衛の肩に頭を預け、少しずつ言葉を口にする。 

 

「ああ、誉れだ。桜花っちゅう戦闘機に乗って敵艦を沈めてくるのがお役目じゃ。ようやく御国のために奉公できる」

「……本当にそう思ってるんけ?」

「ああ」

「もし私が一緒に逃げようと言えば逃げてくれるんけ?」

「そりゃあ無理な道理だっぺな」

「なあ、大人になったら結納上げようって約束覚えてる? 今年でもう二十歳じゃ。結婚したって誰も文句言わねえべ」

「ああ」


 八千代が顔を上げ与兵衛の顔を正面から見つめる。

 八千代は唇を震わせ睨み付けてくる。可憐な瞳は涙に満たされ、今にも零れ落ちそうであった。

 新堀与兵衛の父親は満州で戦死し、その祖父も旅順で命を落としていた。

 与兵衛の弟は病弱であったため徴兵から免れたが、弟の分まで国に奉公しようと与兵衛の重圧は相当のものであった。

 だが、そのことを知っていても八千代は我慢ならなかった。

 

「――――与兵衛兄ぃよう。国は人を守るためにあるんだべ。人が国を必死に守ってみいんな死んで、そんで何が残るんだっべ。人のいねえ国は国じゃねえ」

「言うんでねえ。誰かに聞かれたら非国民と言われっと」

「それでもいいべよ! 非国民と呼ばれ続けることより、与兵衛兄ぃが死ぬ方がよっぽど嫌じゃ!」

「のう八千代よ」

 

 与兵衛は、興奮する八千代の肩を両手で掴む。


「――――俺が守りたいのは国でも誇りでもねえ。お前じゃ。お前の笑顔を守りたいんじゃ。もし俺が桜花に乗って敵艦を沈めたことで、お前の笑顔が守れるんなら、俺はもうそれでいいんだ」

「馬鹿言ってんじゃねえ。与兵衛兄ぃが死んでどうやって笑って過ごせるんだべ」

 

 八千代はポロポロと涙を流し始めた。


「まだ死ぬとは決まってねえ。桜花に乗ったら敵艦を何隻も沖縄の海に沈めた後、英雄として帰還してやる」

「……ひっく……ほんとか? 本当に信じていいんだべな」

  

 八千代に上目遣いで問われた与兵衛は、一瞬答えを躊躇した。

 

「……ああ約束だ。必ず帰るって約束すっから」


 与兵衛は一瞬目を逸らし、軍帽の上から頭を掻きながら帰還の約束をした。


「じゃ、じゃあ、忍潮井の水を飲み交わすべ」

 

 八千代がぐすっと鼻を鳴らして涙をモンペの袖で拭いた後、忍潮井に置かれた柄杓を二つ手に取った。

 柄杓の一つを与兵衛に手渡す。

 男が女瓶の入った井戸の水を、女が男瓶の入った井戸の水を飲むと、二人は結ばれると言い伝えがある。

 

 八千代は柄杓の柄を持ち、掬った水と与兵衛の顔を交互に見比べていた。


「どうした八千代、早く飲んだらよかっぺ」

「い、いやあ、これ飲んだら両想いになると思うと、心臓さ五月蠅く鳴ってよお。上手く口に…………」


 オロオロする八千代の横で、与兵衛は柄杓の水をすっかり飲み干した。

 

「どうした八千代、俺と夫婦めおとの契りを交わすのは不満か?」

「そ、そんなことねえべ! んぐっ! んぐ!」

 

 頬を染めた八千代は慌てて柄杓の水を飲む。


「よし、これで俺が生きて帰ってきたら夫婦だからな。それまでは精々体を大事にしろよ」

「うん、与兵衛兄ぃもじゃ。私はずっとこの森で、神の巣喰う、神の息づく、神と共に在る、息栖の杜で待ってっからよぉ」


 八千代は、赤い糸で刺繍がされた木綿の布切れを与兵衛に差し出す。


「あとこれ……これは千人針じゃ。寅年の私が一人で縫ったっぺ。だけんど、千人分の武運長久の祈りとクナド様の力をぎょうさん込めたべよ。これ持ってってくれっけ?」

「千人力の一人針だな。ありがとう八千代」


 与兵衛が目を腫らしている八千代をそっと抱き寄せる。

 銚子から吹く風は止み、利根の水面は揺らめき一つ起こさず、二人を見守るかのように静寂をたたえた。


*****

 

「クナド、クナドよ」


 その日の夜、禊ぎを済ませモンペ姿から巫女服に着替えた八千代は、本殿内に正座し自らに宿る神、岐神を呼んだ。

 

「――――なんじゃ八千代よ」

 

 久那斗が八千代の問いかけに応じる。

 本来の名前は久那斗であるが巫女が代替わりする度に訂正するのも面倒なため、クナドと呼ばれても答えるようにしていた。


「与兵衛兄ぃが死ぬ」

「まあそうじゃろう。あやつは嘘をつくとき頭を掻く癖があるからのう。あの顔は死を覚悟した男の顔じゃ」

「なあクナド。与兵衛兄ぃを助けて欲しい」

「無理じゃ。人同士の争いは信心の力や神の力ではどうしようもないところまできておる。ましてや死地に出向くとわかって進む者をどうやって助ける? 止める術を妾は持ち合わせておらぬ」


 八千代は俯き、かぶりを振った。


「何が神風か。そのような言葉に騙されて死んでいく人達と、その家族のことを国は少しも考えてねえ。クナドお願いじゃ、何とか与兵衛兄ぃを息栖の杜に帰してやってくれ」


 八千代の言葉は久那斗に痛いほどある言葉を思い出させた。

 経津主と建御雷に、嫌というほど聞かされた「遡上のそじょうのことわり」というものを。

  

 原因が結果に結びつくのではない。結果が原因を生むという理を。

 原因があり、過程を経て、結果に至る。それが物事の道理であり、自然の摂理と思っていた。

 短期的事象で見れば、正しいのであるが、神々は違う。人よりも遙かに長い時を存在し続ける。そのような存在であればこそ、結果が原因を生む重大性を認識していたのだ。


 ――――妾の起こした神風が、今ここで使われることになるとはのう。


 来させぬ神に帰還を願うか。これまで巫女の願いについて国の行く末に影響しないのであれば兄達には内緒で叶えてあげていた。

 力を封じられているため波浪を鎮め、風向きを変え、雨を降らす程度のささやかな願いではあったが。

 どのみち人の戦いは、人智を超え神の領域に近づいていると兄者達は言う。

 破壊の力があまりにも凶悪で強大なのだそうだ。

 それが真実であれば、久那斗の独力だけで国衛りを行うことなど到底不可能であった。


 ――――じゃが一人の男を助けるだけならば……巫女一人を救うてやるくらいであれば問題はなかろう。


 久那斗は遡上の理について理解はしたが、納得できない部分もあった。要は責任を取れば良いと考えたのだ。元寇から650年余、充分に自制し自省をした。忍潮井の水で杯を交わした二人を何とか結ばせてやりたい。久那斗は今や縁結びの神とも呼ばれていたからである。それも出来ずにどうして神を名乗れようか。封神の身とはいえ、神としての矜持まで封じられてはいなかったのだ。


「承知したぞ八千代。承知はしたが約束を果たせるとは限らぬ。期待はするな」

「いいよクナド。私だけが我を通すわけにいかねえのはわかってんだ。そんでもよ、友達みたいに付き合ってくれた神様が承知してくれたっつうだけでも満足だっぺ。明日は息栖村一同での防火訓練あるんでもう寝っからよ」


 八千代は久那斗との交信を打ち切り、巫女服からモンペ姿に着替え寝屋へと戻ったのだ。


*****


「駄目だ」

 

 鹿島神宮の社殿で神酒を食らう大男が、久那斗の頼みを無下にした。


「鹿島兄ぃよ、そこを何とか見逃してくれんかのう」


 久那斗はこっそりと八千代の肉体から抜け出し、秘蔵の御神酒を持参して建御雷の元へと現れた。永き間封じられていたためか、封印の力が弱まり精神体だけで抜け出せるようになったのだ。

 早々に晩酌の流れとなり、久那斗は漆の杯に酌をして建御雷の機嫌を取っていた。

 

「久那斗よ、お前の恩赦は未だに出ておらぬ。あと千年も待てば晴れて神の身に戻れるだろう」


 建御雷は、幾度となく出雲大社へ出向いては久那斗の恩赦を神議にはかろうとしていた。

 しかし、毎回「未だ時期に非ず」の結論を出され神議にかけられることなく門前払いをされていたのだ。


「わかっておる。今や日本は神風特攻と呼んで兵隊を道具のように扱っておると巫女から聞いておる。それも妾がこの国の危機に手を貸したからじゃ。遡上の理は充分に理解しておる」

「ならば我慢せい。天乃鳥船も使役するでないぞ」

「のう、人一人を救うのがそんなに罪深きことなのかや。妾は神様じゃぞ?」

「罪とか罰とかでもない。今のお主は自省の身だ…………全く久那斗は人と共に生きた結果、余計に人間臭くなってやりづらくてかなわん」

「何じゃそれはどういう意味じゃ、フンドシ臭いとでも言うのかや」

「いや、そうではなくてのう」

「じゃあ何じゃ」

 

 いつの間にか建御雷が持っていた酒杯は久那斗の手に渡っていた。久那斗は空の酒杯を人差し指の先端で駒のように回す。まるで答えねば神酒はくれてやらんと言うかのように。


「ん? 兄者よどうしたんじゃ言うてみい。息栖のフンドシ姫と影であざ笑っておるのじゃろう? 妹を小馬鹿にする兄者に注ぐ酒などどこにもないわ。余った御神酒は鹿園の鹿達にでも飲ませるかのう」

「おお臭い臭い、本当に面倒くさい奴じゃのう久那斗は。ええいわかった! 助けに行くのは許さぬが、その与兵衛とやらの様子を見守ることは許してやろう」

「まことか! 鹿島兄ぃは香取兄ぃと違い器量良しの益荒男と呼ばれるだけはあるのう!」

「がっはっは! そうだろう! フツの兄者よりワシの方が益荒男なんだ!」

「じゃあ明晩早速、与兵衛の元へ向かおうかの。夜分に邪魔したのう」

 

 久那斗は目的を遂げると、酌を引っ込めさっさと鹿島神宮から帰って行った。

 建御雷は妹神の久那斗にいつの時代になっても頭が上がらなかったのだ。

 だが、建御雷にも考えがあった。現代における人々の戦争を久那斗に見せつける狙いがあったのだ。

 人間というものは神の領域に片足を突っ込んでいる。その愚行はたちまち人へと跳ね返ってくる。

 かつて天国のように素晴らしい場所と言われた常世(とこのよ)と呼ばれるこの鹿行に留まっていては見聞も広がらぬ。妹が可愛いからこそ旅をさせてやりたかったのだ。


*****


 昭和二十年四月上旬、久那斗は遠く関西地方の空にいた。


「のう、天乃鳥船よ」

「どうした久那斗。ワシの為に南天の実を三月分と一年間の羽繕い――約束をしたことについて後悔しているのではあるまいな」

「それはないぞ。お主の羽に触れるのは心地が良いからのう。南天はまあアレじゃが」

「間もなく肥前の地に入る。かつて久那斗が大暴れした肥前の海だ。肥前が目標か?」

「それを言うでない。そうではない、もっと先じゃ……ふむっ、沖縄の方に飛んでおるのが飛行機かや?」 


 天鳥の背に乗った久那斗が、千里を見通す琥珀の瞳を細める。

 飛行機と呼ばれる鉄の船が数十機、薩摩の海から沖縄方向に向けて飛んでいたのだ。

 

「あれは飛行機だな。人間とは凄いのう火を制し、空を制し、次は何を制するのだろうな」

 

 天乃鳥船の疑問に対して、達観した表情を浮かべながら久那斗は答えた。


「人間が最後に制したいのは人間じゃ。ただそれだけのために万物を制しようと必死になっておる」

「人間がその身を自然に委ねて生きるのは難儀なのか」

「そうではない。人の暮らしの中では自然に生きるのが不自然に見えてしまうのじゃ。周りに合わせなければ不自然じゃ。反対意見を言う者は不自然じゃ。みなが戦っている時に戦から逃げるのは不自然じゃ」

「――――そんな世界こそ不自然だと思うのは存在が異なるからか」

「ふふっ、そんなことはないぞ天乃鳥船よ。それこそ自然の考えというものじゃ」


 久那斗が天乃鳥船と談笑しながら薩摩の海へ近づく。

 久那斗は周囲に不可視不可侵領域を形成していたため、誰一人として気付く存在はいなかった。


「久那斗よ、あれを見てみよ」

「おお、敵の戦艦やら飛行機が沢山見えるのう。竜頭の船団を見たとき以来じゃ。まあ、あの時と違って妾は精神体じゃからのう。自分の身を隠すことで精一杯じゃ」

「うむ、だからこそ時間がないぞ。早く与兵衛の居場所を突き止めろ」

「さっきから千人針の神布に念を送っておるのじゃが、どうにも狭い部屋にいるのかボンヤリとしか気配がわからぬ」

 

 その時、久那斗は薩摩の海へ向かう一機の飛行機から近しい者の波長を汲み取った。

 その飛行機は腹に小さな飛行機を抱き、その姿は卵を抱く川海老のようであった。


「あの飛行機から与兵衛の気配がするのう。天乃鳥船よ、あの飛行機を全速で追え!」

「承知した」

 

 天鳥は曜変天目に煌めく両翼を広げると、一気に加速し薩摩の空へと飛んでいった。

 飛行機の先を見ると、同じように小さな飛行機を抱いた飛行機が何機も見て取れた。

 また、周囲にも川海老のような飛行機を見守るように別の飛行機が何機も飛んでいた。

 あの小さな飛行機に秘策でもあるのかのう。久那斗は与兵衛の気配より先に飛ぶ川海老の飛行機に意識を集中した。

 すると、川海老の飛行機から小さな飛行機が射出され、敵の戦艦に向けて飛んでいった。

 小さな飛行機に乗った兵士は、どこか清々した顔をしていた。

 その動きに呼応するかのように、卵を抱いた他の川海老達が、平然と卵を投げ捨て始めたのだ。

 小さな飛行機が一機、また一機と敵艦に向かって飛んでいく。

 当然、敵国の戦艦や飛行機が小さな飛行機を迎撃し始める。

 小さな飛行機の大半は敵の戦艦にたどり着くこともなく、高射砲の餌食となり沖縄の海で爆散していった。

 小さな飛行機を射出した後、同じように戦艦に突撃する飛行機もあった。

 周囲を守っていた飛行機も悉く撃ち落とされ、九州沖の海には硝煙の臭いと油の焼ける臭いが広がっていった。


「何じゃこれは。これが戦争じゃと? 戦で人が犠牲になるにしてもあんまりではないか。神之池で捕る鴨よりも容易く討ち取られておるぞ」


 久那斗は唖然とした。久那斗は神風特攻隊の意味をようやく理解したのだ。新堀与兵衛はこのような任務についているのか。

 与兵衛の気配がする川海老が近づいてくる。

 久那斗が川海老の腹に抱かれた小さな飛行機を見ると、操縦席から与兵衛の気配が強く感じられた。


「鹿島兄ぃには見守るだけにせよと強く言われておる……じゃが八千代と約束したのじゃ。与兵衛を連れて帰ると……ええぃどうしろというのじゃ!」


 久那斗は相反する言葉を反すうし、両方を立てることの難しさに癇癪を抑えきれなくなっていた。

 その刹那、久那斗の面前で凄まじい衝撃音とともに与兵衛の乗る小さな飛行機が敵の戦艦目がけて飛び立とうとしていた。

 

*****

  

 昭和二十年三月十八日、神之池海軍飛行場において結成された一つの部隊が鹿屋より沖縄防衛へと出陣。


 部隊名は「第一回神雷部隊桜花隊」――いわゆる神風特攻隊である。

 

 新堀与兵衛の乗員する機体は桜花おうか十一型特攻機。


 桜花には機銃の一つも積まれていない。積んであるのは巨大な爆弾だけだった。 

 一式陸攻が桜花を運び、ただただ敵艦に突っ込んでいく、人間ミサイルそのものであった。

 同月20日、九州沖航空戦に選出された神雷部隊桜花隊は全員海に散った。

 以後、沖縄上陸部隊への桜花運用が開始され、空襲を受けた鹿屋基地から小松基地へと発進基地を転進し奮戦した結果、桜花による特攻も含め神之池海軍飛行場から出陣した第七二一海軍航空隊百五十八名全員が戦死したと記録されている。


*****


「」



「――」




「――――」





「――――――?」






 新堀与兵衛は、一式陸攻から射出された桜花に乗っていたはずだった。

 だが、自分が横たわるのは鳳凰によく似た空飛ぶ大船の甲板上であった。

 装着していた飛行眼鏡を上げ、周囲を見回す。


「おお、目を覚ましたか与兵衛や。妾は息栖の神、久那斗じゃ。まあ何はともあれ八千代の膝元にでも帰るぞ。タケ兄ぃの言葉は謎かけだったんじゃ、見守れということは、自分で見て判断した後、守るべきものをしっかりと守れという意味だったんじゃ、そうに違いないのじゃ」


「――――――――――――――!? ――――――――――――!」


「ええい自分に酔いおって! そんなんじゃから兄という存在はいつまでたっても妹に馬鹿にされ続けるんじゃ! 勝利の美酒も飲まずに酔うておる。貴様が酔い潰れて良いのは八千代の前だけじゃ!」


「―――――――――――――――っ!!!」

 

「桜は散るから美しいか。まあそうじゃな――――じゃが誰にも見向きもされず、それでも路傍に咲く野花を八千代は望んでおる。与兵衛よ天上へ逝くな、下天に帰るぞ。自分の声が聞こえない? 親海老の飛行機から飛び立つときに鼓膜をやっておるな。ほれ、すぐに治してやる」

 

 久那斗が与兵衛へと近づき、そっと額に手をかざす。


「――――おお、自分の声が聞こえる。ああ、わがったわがった降参すっからそんなに怒んねえでくれよ。靖国じゃなくて息栖の杜に帰っからよ。しかし走馬灯にしては長えべよ。なあ神様よ、この桜花はいつになったら散んだっぺ」


 笑いを耐えきれなくなったのか、久那斗は口元を袖で覆い隠し肩を小刻みに震わせて与兵衛の問いに応じる。


「くっくっく、お主が乗っていた飛行機は桜花と呼ぶのか。ふざけた名前じゃな。じゃがこの桜花は狂い桜じゃ。ちいとばかし散る時期を逸したからのう。十年、二十年、いや孫を見てから散るかもしれん」

「そうけ、そりゃあ先に逝った同期に恨まれるな」

「八千代の笑顔を守る為にそれくらいは我慢せい。死後に石を投げられたって痛くも痒くもないぞ?」

「八千代と結婚け…………いやあ妹だと思ってたから恥ずかしいんだよな。どうせ死ぬからまあいっかって忍潮井の水を飲んだんだよなあ」


 甲板に座り込み本音を漏らした与兵衛を、天乃鳥船の操舵輪を握る久那斗が振り返って睨みつけた。


「…………それ八千代に言うでないぞ。あやつちょっと病気かと思えるくらい、お主への想いを文にしておってな。知ったら最後、伴侶が桜花そのものになると知れ」


「ほう、そいつはヤンキーよりも怖いの」


「いずれこの戦は終わる。国は滅ぶかもしれんが人は残る。その時に残った民はどう生きるかじゃ。どう死ぬかなど考えることこそ愚かなのじゃ」

 

 久那斗は、玉瑠璃があしらわれた操舵輪をクルクルと回し、天浮かぶ船を操る。


「のう与兵衛よ、生きておる人をこの天鳥に乗せたのはこれが初めてじゃ。生きておればこんな経験をこれから何度も味わうことができるじゃろう……妾はのう桜花で散るのではなく人生を謳歌せいと言いたいのじゃ。フフッ、妾にしてはうまいことを言ったのう! とにかく与兵衛よ、お主は息栖の杜に着くまでの間に八千代へ伝える言葉でも考えておけ」

 

 久那斗に言われ、与兵衛は黙り込んだ。

 桜花と謳歌をかけるとは何ともふざけた神だ。

 だが、どうせ散るなら八千代の傍が良い。秘した願いが叶うことになろうとは。

 

「そうりゃあ天乃鳥船よ! 面舵一杯ヨーソローじゃあ!」


 腰まである長い黒髪を風にたなびかせ、透き通った琥珀の双眸を輝かせた装束姿の女神が声を張り上げ船頭をする。


 ――――こんな経験二度と出来んだろう。


 飛行帽とマフラーを脱ぎ、天高く飛ぶ船から見下ろす景色を眺めながら与兵衛は思っていた。

 飛ぶ棺桶とも揶揄される桜花と違い、水平線の遙か先まで見通せる絶景に与兵衛はいたく感動していた。現在地はわからないが天船の方向からして神の息づく杜へ向かっていることだけは確かだった。この時期、息栖の森はホトトギスの鳴き声で賑やかになっていることだろう。

 

右腕に巻いた八千代の千人針が何かを訴えてきている気がする。

 さあて、八千代にはどんな言葉を贈ろうか。俳句がよいか詩がよいか。

 ああ、忍潮井にちなんだ言葉でも贈ろうか。

 考え事をしていた与兵衛は、額からずり下がってくる鉢巻きに気付いた。


「おっと忘れていた。もう私には必要ない物だな。次に巻くとすれば……そう、七度生まれ変わっても八千代を想う――『七生八想』とでも書くか」


 新堀与兵衛は【七生報国】と墨で書かれた鉢巻きを額から外し、海へ投げ捨てたのだった。

            了



参考文献等

    息栖神社各資料

 神栖市民俗資料館

国立公文書館デジタルアーカイブ

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久那斗物語 野望蟻 @ambition-ants

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