日常の中の・・・・・・。

龍淳 燐

日常の中の……。

 「何やってのよ! まったく、車の中で待っててって言ったでしょ。 だからクーラーだって点けといたのに!」

 銀行に行くため、自転車に跨り、市役所の正面出入り口前の道路を通り過ぎようとした時、突如聞こえた女性の怒鳴り声が辺りに響き渡った。

 どうやら、市役所の正面出入り口から出てきた女性の声のようだった。

 その後ろには高齢の女性がいた。

 その高齢の女性に対して怒鳴り付けているようだった。

 銀行は、市役所の隣だ。

 女性の怒鳴り声が気になりはしたが、取り敢えず自転車を銀行の駐輪場に停める。

 早めに用事を済ませたかった私は銀行のATMコーナーへ行こうとした。

 「早く来なさいよ! どうしていうこと聞けないのよ!」

 再び女性の怒鳴り声が辺りに響きく。

 女性の怒鳴り声が尋常ならざるものに感じられた。

 私は、用事を済ませることよりも、何故女性が怒鳴り声をあげているのか、状況確認を優先させることにした。

 市役所の正面出入り口に戻ってくると、市役所の前にある横断歩道で信号が赤になっているにも拘らず、渡ろうとしている高齢の女性を周りにいた女性たちが押しとどめているところだった。

 どうやらこの高齢の女性は、認知症を患っているようだ。

 その他にも、足が悪いのか?

 歩幅が凄く狭くなってる。

 すると、横断歩道の信号が青になった。

 一人の女性が、横断歩道を渡ってくると高齢の女性を押しとどめていた女性の手を振り払い、高齢の女性の腕を掴んで怒鳴り始めた。

 「どうして他人に迷惑をかけるの! いい加減にして頂戴。 早く横断歩道を渡ってよ!」

 「ごめんなさい」

 「ごめんなさい」

 高齢の女性はただただ謝るばかり。

 「私は気にしてないから。 経験があるから大丈夫よ」

 高齢の女性を押しとどめていた女性は介護の経験があるのだろうと推察された。

 しかし、女性はその女性に顔を向けることなく、ただただ高齢の女性を怒鳴りつけるばかり。

 「ほら、信号が赤になっちゃったじゃない。 いいかげんにしてよ」

 私はその様子を少し離れた場所で見ていた。

 介入するのは簡単だが、暴力に結びついてはまずい。

 女性の態度と怒鳴り声、そして高齢女性の「ごめんなさい」から私は一つの疑念が湧いてきた。

 老人虐待。

 いくら認知症を患っている可能性があるとはいえ、女性に怒鳴りつけられて、すぐに謝罪が出てくるということは、日常的にやられている可能性も否定できない。

 そして、尋常じゃない怒りを見せる女性。

 介入すると密室(家庭内)において、もっと酷いことが起こる可能性が出てきた。

 どうする?

 再び横断歩道の信号が青に変わる。

 女性は高齢の女性を置いて、さっさと横断歩道を渡ってしまう。

 高齢の女性もゆっくりとだが、一生懸命に横断歩道を渡って女性について行こうとする。

 無事に渡りきった。

 良かった。

 まあ、これ以上見ていること以外に何もできることもないか。

 認知症の介護は大変だ。

 特に家族で面倒を見るためには、一人では無理だ。

 最低でも二人は必要になる。

 そして、決して自分の思い通りにならない。

 学校を卒業して、父親が徐々におかしいと感じる行動を採り始めた時、私はよく父を怒鳴りつけていた。

 何故そんな行動をするんだ!

 何故言ったことが守れないんだ!

 こんなにイライラするなら介護施設に入れてしまえばいいんだ。

 そう考えたこともあった。

 しかしながら、介護施設に入所するには150人待ち。

 費用も一月15万プラス諸費用で、合計30万円以上。

 無理だ。

 結局は母と私の二人で父の介護をすることにしたのだ。

 家のあちこちに手摺を付け、トイレを和便から洋便に変え、布団からベットに変えた。

 介護保険で補助が出るレンタルもあったが、買った方が安い場合もあったので色々と介護用品を買った。

 そんな中、気が付いたことがあった。

 介護の初期段階で、父を良く怒鳴っていたのは、老いや認知症を患っている今の父と昔の元気であったころの父とのギャップが埋められなかったからイライラしていたのだと。

 そう気が付いてから、かなり気持ち的に楽になった。

 悲しいことだけど、もう昔の父ではないのだと。

 少しずつ少しずつ、子供に帰っていく。

 子供に帰っていくだけならばいい。

 少しづつ少しずつ壊れていく。

 決して治ることのない、死へと続く道。

 腸閉塞から、その影響で誤嚥性肺炎を患い、何を言っても反応を返さなくなった父。

 入院によって一気に認知症が進んだのだ。

 介護を母と二人でやってきて10年が過ぎたある朝、父は亡くなった。

 病院で見た父の最後の顔は、生きているような笑顔だった。

 さて、銀行へ行って用事を済ませるかと視線を転じようとしたとき、それは起こった。

 高齢の女性が、置いて行かれないように女性の袖口を掴もうと手を伸ばしたその瞬間、女性はその手を跳ねのけたのだ。

 私は怒りで頭の中が真っ白になった。

 気が付いたら、その女性に対して睨みつけ怒鳴りつけていた。

 「いい加減にしろ! それは明らかに老人虐待だぞ!」

 「転んで骨折でもしたら、寝たきりで苦労するのはお前なんだぞ!」

 「お前だけが老人介護してるだなんて思うな!」

 「周りに介護してるやつなんて一杯いるんだ! 被害者ずらすんな!」

 「まずはお前が深呼吸でもして落ち着け!」

 「自分の思い通りに事が進むと思ったら大きな間違いだからな!」

 女性は自分が私から怒鳴られているのに気が付いたようだ。

 でも、私はその女性を睨みつけることをやめない。

 もし、次に高齢女性に何かしようものなら、決定的な行動を取ることも辞さない。

 周りに居た人も何事かとみてくるが気にならない。

 結局のところ、自分の怒りを女性にぶつけただけの行為に過ぎない。

 自己嫌悪に苛まれる。

 放っておけばよかったのだ。

 他人の家庭のことに口出すほど偉いつもりか?

 自分の記憶の中にある嫌悪感を催す自分が父に対して示した態度を第三者目線で見せられたから怒鳴ったのだろう。

 堪らなかった。

 用事を終え、コロナの4回目の予防接種申し込みのために保健所に向かった。

 そこで職員の人と雑談をする機会があった。

 少し話を聞いてもらいたくなって、女性と高齢女性とのやり取りを話した。

 すると職員は、疲れたような表情で答えた。

 「いつもの光景ですよ」と。

 



 



 

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 日常の中の・・・・・・。 龍淳 燐 @rinnryuujyunn

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