第141話 金狼
川の両岸は、切り立った急峻な崖だった。崖の一番上から下を覗いたとしたら、白い川の流れが、一本の細い糸のように見えることだろう。その崖の中腹に崖の表面を削って道が作られていたが、その道幅は丸太2本分ほどしかない。
最後尾を歩くギミリが、先頭を歩く私に向かって叫んだ。
「ドニ、これが山道か」
私は、返事をしなかった。ギミリの前を歩くキッドがギミリの言葉をオウム返しで叫んだ。
「これって、山道ですか、ですって」
それにも答えない。いや、答えられない。チラッと下を見た。急な水の流れは、至る所で水面から顔を出している巨石にぶつかり、飛沫をあげていた。
落ちたら命はないだろう、と思うと足から力が抜けていった。私は、勇気を振り絞って前をにらむんだ。再びドニの怒鳴り声が聞こえてきた。
「儂も大概の危険な場所を通ってきたが、丸2日もこんな絶望的な景色が続くのも珍しいぞ」
私は、ギミリの声になんと反応すればいいのかわからず、ただ空を仰いだ。空腹と披露で目が回った。上を見ても、下を見ても駄目だ。やはり、今はただ前だけを見ることにしよう。
昔、確かに私は、この道を抜け、生き延びることができた。しかし、今となってはどうしてそんなことができたのかが、不思議だ。
こんな心細い山道を作るより、誰かドワーフにトンネルを掘るように依頼しなかったのか、とついつい愚痴りたくなる。
そうして愚痴ったり、怒ってでもいないと、眠気が襲ってくる。ギミリさんも同じ気持ちなのだろう。
腹は減っているし、喉も乾いていたが、歩みは止められない。一度でも歩をとめれば、もうそこから動き出すことができないのではないかと恐怖がおそってくるからだ。
自分の記憶が正しいのであれば、あのカーブを曲がったさきは、座って眠れるほどのスペースがあるはずだった。ただし、三人が一度に休めるほどのスペースだったかは覚えていないが。
キッドが背中にぶつかってきた。ちょっと私もキッドもぼーっとしていたのかもしれない。反射的に両手を広げバランスをとった。その手がキッドの体にぶつかってしまった。
「おい。あ」
キッドがバランスを崩し、足を踏み外した。
「あああ、おっ」
キッドの左手にはめられている銀の腕輪が意思を持っているかのように伸びて岩肌の斜面に食い込んだ。キッドは左腕一本で崖に宙吊りになった。ギミリが大声を上げた。
「危なかった。いいぞ。その要領で、ゆっくり銀を縮めて登ってこい」
「む、無理です」
「無理でもやるしかない。諦めるな」
その時、なぜか私の背中の毛が逆立った。
「いやあ、待ったかいがあったというものだ」
女性の声だ。ギミリと目が会った。ギミリもきっと悪い予感したのだろう。ギミリがゆっくりと振り返った。私も同じ方向に視線を移動させた。
ギミリの後ろに、私の知っている女が立っていた。ギミリが女に話しかけた。
「お嬢さん、危ないよ。近寄らないで」
「なんでさ。こんなチャンスはなかなかないよ」
怒りがこみ上げてきた。
「今、あんたらさえ落としちまえば、その坊やは力尽きて、簡単に銀職人を一人始末できそうじゃないか」
「追っ手か」
「追っ手じゃないよ。取り締まり。あたしは、この国でハーマン商会の目を盗んで仕事している商人どもを取り締まるのがお仕事。そこにたまたま銀職人がいたというだけの話さ。ところで、その銀職人はどこからきたんだい」
私もギミリもその質問には応えず無視した。私はギミリに向かって叫んだ。
「ギミリ、逃げて」
「逃げるって言ったって、ドニ」
「その女は、オールドシャッドを混乱に陥れたウルフマン、エメだ」
「おや、私のことを知っているなんて何者だい」
エメの後からさらに声がした。
「へえ、この人がエメなんだ」
エメが、器用に、しかも素早く後ろをふりかえった。
「子供? どうやって現れた。わたしの後ろには誰もいなかったはず」
ギミリが、笑顔で叫んだ。
「トムさん」
「どうして、こんなところを歩いているの。それに、そこのぶら下がっている子は、誰」
「説明は後です、トムさん。助けてください」
「貴様、何者だ。この匂い。人じゃないな」
「どうしてウルフマン族を裏切った。エメ」
「裏切った? ふん、笑わすんじゃないよ。裏切ったのは、私じゃない。誇りたかき金狼がウルフマン族を導くべきなんだよ」
エメが、見る見る金狼に変化していった。
ギミリが目の前で突然消えた。キッドも消えた。
金狼は、何かを目で追っているようだが、私の目には何も見えなかった。突然、エメは狂ったように叫び出した。
「見つけた。見つけたぞ。そうだ。この匂い。貴様、カーバンクルだな。ついに見つけたぞ」
エメは高笑いした。
「もう、忘れないぞ。この匂い。その気配。その声。お前が死ぬまで追い詰めてやる」
エメが私に向かって牙を剥いた。血の気が引いた。よろけたとたんに足を踏み外した。
あっ、と思った次の瞬間、私は断崖絶壁の細道ではなく、焚き火の炎が揺れているとある森の一角で尻餅をついていた。
******。
「トムさん。早く食べてくれ。せっかくの温かい料理を作ってやったというのに。見ろ、キッドは、もう食べ終わってしまうぞ」
俺の隣であぐらをかいているドニや焚き火越しに座っている男の子は一心不乱に食事をしていた。俺の前にもギミリが仕出してくれた食事、供物が、光輝いていた。
供物が差し出されれば、これまではなにはともあれ、まず口をつけていたのだが、今はそれよりも、金狼のことが気にかかっていた。
「どうしたんだトムさん。まさか、病気か」
「まさか、ギミリ。ちょっと気になることがあってね」
「話せることなら、話したほうがいいぞ。一人でかかえこんでも良いことなどないぞ」
俺は、供物を一口、口にした。
「うまい」
「そうじゃろう。グナールで覚えたスパイスを使ってみた」
「実は、金狼の件なんだ」
三人が一斉に俺をみた。
「そうだった。あの化け物はなんだ。やったんだろう。じゃなきゃ、ここでこんなにゆっくり飯を食べている場合じゃないんだろうからな」
「やっつけたと思う。エメの頭上から巨石を落としたんだ。何発も。夢中で」
ドニが、苦笑いを浮かべた。
「崖に落としたんですか」
「崖に落ちていくところは見ていない。なんせちょっとパニックになっていたから」
「きっと大丈夫ですよ。高くて急な崖だし、下の川も激流です。巨石を落としたんでしょう。あんな足場の悪いところで逃げる場所もないし」
「だけど僕は、金狼の死体を確認しなかったんだ」
あのときの恐怖は、今思い返しても胸をドキドキさせる。金狼にどうして俺の正体がバレてしまったのか。
俺は、ありったけの巨石をエメの頭上に降らせた。狙いすますなんてことは、考えられなかった。とりあえず持っている石を、次から次へと落とした。気がつくと俺の落とした石で急流が堰き止められていた。
エメの姿はどこにも見えなかった。いくらウルフマンだって言っても、ここから落ちればひとたまりもないと思った。そして、その場から去った。いや逃げ出した。
ドニが明るい声で話しかけてきた。
「もうその話はよしましょう。トムさんから依頼があった国宝についての情報が手に入りました」
「え。ほんと。ありがとう」
「簡単に言うとお探しの国宝は、グナールの砂漠の城に。氷輝将軍の手元にあると思われます」
「ほんとにありがとう。ギミリ、ドニ」
俺は、焚き火越しに少年を見た。この少年が、ネビの息子キッド、そして銀職人の天才だという。今すぐにでも、ネビ本人と対面させることも可能だが、それがお互いのためになるのか、今はとてもじゃないが考えられなかった。
「ギミリとドニは、このキッド君をつれて古ドワーフの里に戻って欲しい。他の銀職人たちもそこに来るはず」
ギミリは、驚きを隠そうともせず、前のめりで尋ねてきた。
「見つけたのか銀職人の村を」
「そうなんです。デイジーが見つけたくれました。キッド君。君の親戚もきっといるはずだ。安心してほしい」
キッドは、唇を真一文字に結んでうなずいた。
「これから、トムさんはどうするんですか」
「僕は、ちょっとグナールに砂時計を取りにいってくる」
「改めて聞くのも何なんですが、そんなに大切な物なんですか」
「そうなんだ。特殊なアイテムでね。そんなに時間はかからないと思う。でも、安心してほしい。軍師を見つけたから。その人に色々と事情は話してある。今後ことは、全体の方針を含めて決めてもらうことにした。サコンという名前の男性です。これからは、サコンさんの命に従うようにみんなに伝えて欲しいです」
俺は、供物をカクホし、立ち上がった。
「それでは、行ってきます」
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