第90話 油断


 ラクトが灰色の羽を広げた。デイジーに牙を向いた。その姿は、まるでその場を支配するのに十分ふさわしい存在だと自ら主張しているつもりのようだ。


 デイジーは、腰に手を当て、その姿を眺めた。


 ラクトは、デイジーを睨みつけながらルフに問いただした。


「何者だ」

「小麦粉売りの娘だ。だが、今は違う仕事をしているようだな」


「この姿を見られたら、殺すしかないが」

「まて、ラクト。できれば、そいつは薬漬けにしてほしい」


「ほお。お前まだ懲りていないようだな」

「なんとでも言え」


 そう言い終わった瞬間、ルフの顔にデイジーの回し蹴りが食い込んだ。風に巻かれた枯れ葉のように、ルフの体が転がっていった。


 戦いの鐘はすでに鳴っている。悠長におしゃべりしているほうが悪い。


 続けざまに、ラクトに向けて拳を突き出した。流石にこれは、ラクトの腕で防御された。


 デイジーは、一旦間合いを切った。


「お前たちは、ここで何をしている」


 ラクトはそれには答えず、ナイフを取り出し腰を落とした。ナイフと言っても通常人族が使うものよりも大きく、デイジーからみれば牛や馬などを解体するもののように見えた。


 ラクトは、鼻にシワを寄せ、牙をむき出しにして威嚇した。


 デイジーが鼻で笑った。いつまでそんなことをしているつもりなのだろう。


 ラクトは、羽を数回羽ばたかせ風を巻き上げた後、ナイフを突き出しデイジーに突進した。


 デイジーは、ステップを軽くふみラクトの脇に抜け、素早くナイフを持っていた手に雷撃を与えた。


 続けざまに、ラクトの顔、腹に蹴りを入れた。うめき声を上げラクトの体がくの字に折れ曲がった。


 ちょうどデイジーの顔の高さに落ちてきたラクトの顎に掌底をたたきこむ。


 ラクトはゆっくりと大木がたおれるように、後ろ向きに倒れた。ラクトは、立ち上がりかけたルフを下敷きにした。


 デイジーは、腕を組みルフとラクトを見下ろした。


「あたしに勝てないことははっきりわかったでしょう。一体ここで何をしている。正直に答えなさい」


 チロが、ルフの頭頂部付近で唸り声を上げた。ルフの両足はラクトの巨体の下敷きになっていた。ルフは這い出すことを諦め答えた。


「銀職人を知っているか」

「もちろん」


「この村は、銀職人の村と関係がある。もしかしたら、村人全員が銀職人かもしれない。これを見てみろ」


 ルフが握りこぶしをデイジーに差し出し、ゆっくりと手を開けた。手の中には紙が丸めらていた。


 デイジーがそれを受け取ろうとさらに近づいた。


 チロが吠えた。


 デイジーが一瞬、チロを見た。チロがデイジーに体あたりしてきた。


 ラクトは、いつの間にか首をもたげた。口の中から霧状の何かを吹きかけた。


 その霧状の液体は、紫色の絵の具をぶちまけたようにチロの下半身にマダラ模様を作った。


「チロ」


 デイジーの叫び声にチロは反応しなかった。

 チロの体は、痙攣しはじめた。口からは、泡を吹いていた。


 デイジーは、チロの駆け寄ろうとしたが、自分の左足がしびれうまく動かなかった。見てみると、わずかに紫色の液体が足にかかっていた。


 こんな少量でこれだけの威力があるのに、チロの体には。


 デイジーは、目の前が真っ白になった。デイジーは動かない自分の足を平手で殴った。左足を引きずりながらチロに近寄った。


 チロを抱きかかえ名を呼び続けた。


「お前も死ね、小娘」


 ラクトが、デイジーの背中に向かってナイフを振りかぶった。


 瞬間。


 デイジーの体から無数の雷光がほとばしり、ラクトの体を突き抜けた。


 ほぼ一瞬で炭化したラクトは、再び背中から後ろに倒れこんだ。その衝撃でラクトだった物体は粉々に崩れた。


 デイジーは、そんなラクトの運命には何の関心も示さず一心にチロの名を呼んだ。


 チロが長い遠吠えをした。


 ここにいないカーバンクルに挨拶しているかのようにデイジーに感じられた。


「そんなことは、させない。させないよ、チロ」


 デイジーは、自分の両のほほを思いっきり叩いた。


 わたしは無知で無力だ。それなのに、負けるはずがないと、思い上がっていた。その結果がこのザマだ。


 井戸の水をくみ、チロの毛についた毒を洗い流した。チロの体を持ち上げて、近くの家に運び入れ、水を拭きとった。


 死なないででチロ。


 祈りながら、いつかチロに見せた毒のある木の実のことを思いだした。


 あの技なら、チロを救えるかもしれない。


 デイジーは、チロの身体に電気を流した。慎重に、しかし速やかにチロの身体を探る。


 電気を通して感じるチロの体は、全体が薄黒く濁っているように感じられた。だが、黒いものは流れていない。いくつかの色が混ざりあい濁っていっているように感じられた。


 もっと落ち着いて、よく見ないと。でも間に合わなかったら。


 デイジーは、ふと道場でロアに言われた言葉を思い出した。


「焦ったときほど深呼吸だ」


 ロアの言うとおり、深呼吸をしてみた。現実は何も変わらないが、すこし落ち着いたようだ。


 もう一度、深呼吸してから、チロの体を調べてみた。


 濁った色が4種類ほど流れているようだ。これらが原因の毒だと思う。だが、もし毒でなかったら。チロの心を壊してしまうかもしれない。チロでは実験はできない。


 自分自身の体で分解を試してみよう。


 しびれている自分の左足に電気を流し原因と思った色を一つづつ分解してみる。しびれが徐々に消えていった。


 これで間違いないはず。


 デイジーはチロを抱えたまま、チロの中に流れる薄汚れたものを分解していった。速やかに。しかも慎重に。


 どれくらい時間がたったのかわからない。気がつくと、開けっぱなしの家のドアから月明かりが入っていた。


 チロが目を開けた。呼吸も正常だ。チロは、デイジーの顔を舐めた。


 チロの毛をデイジーの涙が、濡らしていた。

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