第87話 ロア訪問

 デイジーは、チロと分け合った干し肉をしゃぶりながら河原に座っていた。川の流れる水音と水面の不規則な輝き見ながらデイジーは、ここに来る前にオンディーヌ湖畔でオンディーヌ様に出会ったことを思い返していた。



 チロと並走しながら、オールドシャッド目指してオンディーヌ湖湖畔を駆けていたとき、不意に霧に包まれた。


 霧がはれると見知らぬ場所にデイジーとチロは立っていて、目の前にオンディーヌが立っていた。その後ろに侍従のように雲霧の魔女クロエが控えていた。


「こんにちは、デイジー」


 デイジーは、膝をついて頭を下げるべきか一瞬、躊躇してしまった。その間を埋めるように、すかさずオンディーヌが言った。


「そのままで良い。御主に、渡したいものがある」


 後ろで控えていたクロエが、前に進み出て、デイジーに木製の筒を手渡した。クロエがデイジーにほほえみながら、語りだした。


「それは、魔法の水筒じゃ。いつでもどこでも冷たい水が飲める。それに、いくら飲んでも水が涸れるということがない。お前のようにいつも元気に駆け回っているような娘にはうってつけのアイテムじゃろう」

「ありがとうございます」


 デイジーは、水筒を両手で抱え込み、地面と水平になるほど低く頭を下げた。


 頭の中にこだまするように、しかし静かにオンディーヌの言葉が聞こえてきた。


「カーバンクルは、よほどお前を頼りにしているようじゃ。これからもカーバンクルをよろしくたのむぞ」

「滅相もありません。カーバンクル様には、お礼をいってもしきれないほどの恩があります。面倒を見てもらっているのはあたしのほうです」


「ただ、その雷獣の首輪に頼りすぎないようにのう。何事もやりすぎはいかん。カーバンクルも昔からやりすぎる。そのために何度も尻ぬぐいをさせられたわ」


 オンディーヌは、流し目でデイジーを見ながら声を出し笑いだした。クロエが苦笑いを浮かべた。デイジーは、自分の耳の後ろをなでながら愛想笑いをした。


「引き止めて悪かったな。クロエ、デイジーとチロをオールドシャッドへ送ってやってくれ」

「かしこまりました」


 ふたたび、デイジーとチロの周りに霧が立ち込めた。オンディーヌとクロエの姿が霧に隠れて見えなくなった。

 

 耳元で、クロエのささやくような声がした。振り返ってみてもクロエの姿は見えない。


「オールドシャッドの近くを流れる川にそって街の近くまで連れて行く。お前たちの足なら、日がくれるまでにはオールドシャッドに入れるだろう」


 どうして、目の前まで連れて行ってくれないのだろう。そう思っている内に目の前の霧が晴れていった。


「デイジー。どうしてオンディーヌ様が、お前にだけお会いになったのか、一度立ち止まって考えてみよ」


 霧が晴れると、デイジーとチロは、この河原に立っていた。



 デイジーは、残りの干し肉を口の中に押し込み、背中にしょったリュックの中から浅目の皿をとりだした。水筒から水を注いだ。チロの目の間に置くと、美味しそうに水を飲み干した。


 デイジーも、水筒に直接、口をつけて三口ほど水をのんだ。水筒を軽く振ってみる。ちゃぷん、ちゃぷん、と水音がした。


「ねえ、チロ。オンディーヌ様は、すべてお見通しだったのかもしれない」


 チロが上目遣いで、デイジーを見た。


「あたし、この雷獣の首輪を持っていた人がひっそりと隠されるよう埋葬されていた理由がわかった気がしていたの」


 チロが、尻尾をブンブンと左右に振った。


「私、新しい技を覚えたのよ。それは、なんとね。人の心を操れるらしいの」


 デイジーがチロの頭をやさしくなでた。


「こうやって触ると、今、チロの体の中にいろいろなものが流れていることがわかる。それをね。壊したり、増やしたりすると、悲しくても、笑わさせたり。笑っている人を悲しませたりできるんですって。それだけじゃないのよ」


 デイジーは、ポケットから木の実を一つ取り出した。


「この木の実には、毒があるの。でもね、こうやって、触るでしょう。集中すると、毒が次第に分解されていくのがわかる」


 デイジーは、そういうと、その木の実をかじった。


「美味しい。もう普通の木の実ね」


 デイジーは、チロの口元に一口かじった木の実を差し出した。


 チロは、鼻をクンクンさせるだけで、食べようとはしなかった。


「まだ、この技を他人に試したことないけれど。でも、それってだめだよね。だって嫌いな人を好きと思わせたりしたら、その人の人生を変えちゃう。だから、この技は使ってはいけないの。でも、この前の持ち主は、使ったんだと思う。そしてその結果として、ああいうふうに、ひっそりと一人、だれにも気づかれないところに埋葬されていたんだとおもうのよ。オンディーヌ様は、それらをすべてお見通しで、あたしに気をつけるようにってアドバイスをくれたんだわ、きっと」


 チロが、クーんと鳴いた。


「心配してくれてるのね。みんな心配してくれる。大丈夫。あたしは、そんなことしないから。さあ、行きましょうか」


 デイジーは、勢い良く立ち上がり背伸びをした。

食べかけの木の実を川に向かって投げた。




 次の日の朝、デイジーは、ロアの館の応接間に通されていた。


 ロアは、オールドシャッドの復興に向けて、かなり精力的に働いているようで、予約がない者は当日に面会できないらしい。


 予約だけをして出直そうとしたとき、顔馴染みの執事が声をかけてくれ、なんとか今日中に面会できるよう取り計らってくれるという。デイジーはその言葉に甘えることにした。


 ロアの兄がこの館の主人だった時は、チロは館の中に入れてもらえなかったが、現在は規則が変わったらしく、応接間で一緒で待っているように言われた。


 机の上には、ティーポットやら、軽食やらが並べられていた。そうとうな時間、ここで待つことになるのだろう。


 デイジーはチロの頭を撫でながら、ぼんやりと外を眺めた。


 ちょうど窓の外をネオが通り過ぎた。デイジーは、窓を開けて声をかけた。


「ネオ。暇?」

「おお、デイジー。もうロア様が恋しくなったか」


「違うわよ。暇なら組手の相手になって」

「俺は構わないけど」


 デイジーとネオは、同じ敷地内にある別棟の道場に入った。


 デイジーは、息を大きく吸い込んだ。


「この匂い。思いだす」

「何を」


「ついこないだまで、道場で寝泊まりして稽古に明け暮れていた頃の気持ちとネオに勝つ優越感」


 デイジーは、にやりと笑った。ネオが、自信満々に構えた。


「いいか、デイジー。おれたちウルフマン族は、俺ぐらいの年齢から急速に体が出来上がってくるんだ。ついこの前の俺だと思うと痛い目にあうぞ」

「わかった。私も組みてをするのは久しぶりだから、手加減できないよ」


 デイジーは、間合いをつめ、ネオの胸めがけて拳を突き出した。


ネオは、後ろに引かなかった。前に出て、デイジーの拳を受け流した。


 デイジーが、あっと声を漏らした。体が浮いた。天井が見えた。とっさに受け身をとった。


 デイジーには、どういう攻撃をネオから受けたか理解できなかった。ただ、自分がネオに投げられたことだけはわかった。


 受け身をとれたので、身体的ダメージは少ないが、精神的なダメージは大きかった。


 今まで知っていたネオの反応とまるで違った動きだ。


 腹の底から笑いが込み上げてきた。


「おい、どうした。頭でも打ったか」

「悔しい。毎日、一人でだけど、稽古だってちゃんとやっているつもりだった。だけど、考えが甘かった。もっともっと、ひごろこから自分を追い込まないと。道場で切磋琢磨している同門たちには敵わないのね。わかった。わかったよ」


 デイジーは、跳ね起きると、夢中になってネオに打ち掛かった。


「そこまでだ」


 ロアの静止の声でデイジーは、我に帰った。どっと汗が吹き出した。


 ネオが、尻餅をついた。


「ロア様、助かりました。もう動けません」


 ネオは、そう言うと床に大の字に倒れ込んだ。


「待たせたな、デイジー」


 日はとっくに暮れていた。

 どうやら、薄暗くなった道場で、明かりもつけず組手を続けていたらしい。


 汗が目に沁みた。服の袖で汗をぬぐった。


「ロア様、おいそがしいところ、お時間をいただきありがとうございます」

「ひとまず着替えておいで。夕食でも一緒に食べならがら、要件を聞こう」


「いいえ。申し訳ございません。私一人ゆっくりしてもいられません」

「そうか。それでは要件を聞こう」


「はい、銀職人に関してロア様、ならびにウルフマン族がお持ちの情報をお教えください」

「どうやら、また厄介事に関わっているようだな」


「はい。ここを離れてからも色々とありました」

「わかった。だが、やはり話が長くなりそうだ。そちらの色々と、こちらの色々について話し会いをしておくべきだと思う。着替えて、食事をしながらとしよう」


「でも」

「デイジー、深呼吸しろ。焦ったときほど深呼吸だ」


 そういうと、ロアはデイジに有無を言わせず、背を向けて道場を出ていった。

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