第2話 目覚め

 静かだ。耳鳴りやホワイトノイズさえ聞こえない。わが町にこんな静かな場所があったのだろうか。ここは、病院だろうか。階段から転げ落ちてから記憶がない。


 キョウコを危ない目に合わせてしまったが、無事だろうか。キョウコは、昔から運がよかった。きっと大丈夫だ。今度あったら謝ろう。少しでもキョウコが怪我しているようなら、キョウコの提案を受け入れることも考えるしかない。


 目を開けようとしても目が開けられなかった。まぶたを糊でくっつけられてしまったようだ。まぶたを手でこじ開けようと思ったが、指一本、いや腕も足も首も1ミリも動かせなかった。口も開かないし、咳払いすることもできなかった。


 深呼吸して落ち着こうと思ったが、鼻から空気も吸えないし胸も腹も自分の意思で動かすことはできなかった。

 階段から転がり落ちたはずなのに体の痛みも感じない。これは死後の世界なのだろうか。


 唐突に、聞き慣れない声が木霊した。ヘッドホンからステレオ放送が流れ出たかのように脳の中央に音像が現れた。


……結合、統合完了。言語空間の解析終了


誰? と思った。


(ミラです)


 声に出していないのに、返事が帰ってきた。

こんどは、どうして、と思った。


(カーバンクル様と念話しているためです)

(念話? 念話って超能力とか、以心伝心みたいなこと)


(カーバンクル様と会話するための基本方法で、音を介さず会話することが可能です。お互いに話したいという状態で、カーバンクル様が呼びかければ、念話は発動します)


 落ち着こう。話を聞けば聞くほどわからないことが増えていく。


(俺は、カーバンクルですか?)

(もちろんです)


(カーバンクルって、何?)

(神獣に属する高貴なお方です)


(念の為聞きますけど。俺は人ですか)

(いいえ、人族ではありません)


 ミラさんの言葉を鵜呑みにはできない。必ずしも真実を話しているとは限らないではないか。


(ミラさんは、だれですか)

(私のことを覚えていないということは、以前の記憶等を失っている可能性がございます。少々お待ちください。カーバンクル様のステータスにアクセスし、確認いたします)


(そんなことできるの?)

(はい、カーバンクル様のステータスを監視も私の大事な役目の一つでございます。ユニークスキルはすべて初期化されておりますが、ステータス異常はみられません)


 ユニークスキル、初期化、ステータス、ゲームのキャラクターの話だろうか。


(以前の記憶だけが消失しているようです)

(いや、覚えているよ。名前も年も、住所も電話番号も言える。最近買った絵画の値段だって、思い出せる)


(ご心配にはおよびません。偉大な錬金術師ノ・コーム様は、このような事態に備え、コンパニオンアイテムとして私を創造してくださったのです。必要な知識は、私ミラが補わせていただきます。ただし、若干情報が古い場合がございますので、ご了承ください)


 話が全然噛み合わない。


(だから、僕は記憶を失っていない)

(まずは、転生の果てにお戻りになられましたこと、心よりお慶び申し上げます)


 尾てい骨の辺りから、背骨にそって首スジまで、悪寒が駆け上がった。水に濡れた犬猫が毛についた水を弾き飛ばすように体を左右に振った。真冬の水たまりにできたぬかるみの薄氷が靴で踏み潰されような音がした。


 自動シャッターが開くようにゆっくりとまぶたが開いた。

 石造りの建物の中にいるようだ。目の前には、ギリシャのパルテノン神殿を支える石柱のようなものが等間隔で天井を支えている。天井は高く薄暗い。


 石柱と石柱の間には、仕切りや壁はなく、その隙間から見えるのは、明るい陽の光に照らされた鬱蒼と生い茂った草木だけだ。まるでジャングルの中に放置された遺跡の中に迷い込んでしまったようだ。

 まったく見覚えない場所だった。


(ここ、どこですか)

(古龍の森の中央付近に位置する神殿の中です)


 俺は、首だけを動かして、辺りを観察した。

 建物全体は円形をしていた。建物内部の広さは半径50メートルはあるだろうか。この中には、家具やら装飾品のたぐは一つもない。ただ、俺の今いる位置から10メートルほど先に、黒光りしる石碑と9本の小さな円柱状の石柱が立っているだけだ。


 自分の位置が扇の要とすると、そこから等距離で円弧を描くようにそれらは配置され、自分のちょうど正面には石碑があった。

 人の気配はない。


(神殿というけど、何を崇める神殿ですか)

(もちろん、カーバンクル様です)


(お、俺は、何か崇め奉れらる偉業を達成したのかな)

(魔王から世界を救いました)


(魔王って何?)

(この世界を初期化することが魔王の望みだと認識しております)


 辺りの様子を観察してみた。森の中からは、鳥やら何やら、生き物の気配が感じられたが、360度開け放たれているこの神殿内部には、小鳥一匹、虫一匹、姿は見いだせない。


(難しいことはわからないけど、そんな偉業を成し遂げたというのに、人っ子一人いないというのは、不自然じゃないか。世界を救ったんだろう。司祭とか、祈りを捧げる人とか、お祈りにくる人とか、だれか世話する人が普通いるでしょう)

(カーバンクル様の偉業は、ほぼ誰にも知られることはございませんでした)


(どうして?)

(カーバンクル様自身が、仮初の勝利だと理解していたからだとおもわれます)


(本当の勝利じゃないから、ひっそりと祀られることを望んでいたということ)


 それが本当なら、なんと奥ゆかしいヒーローだろうか。


(ここは、カーバンクル様の神殿ですが、一部の者以外その存在すら、秘密とされています)


(どうして?)

(はい、一部の魔王の眷属、魔族が、魔王の復活を画策し、カーバンクル様の命を狙っている可能性が否定できないからです)


(おいおい物騒だな。どうして、いまさら俺の命を狙う)

(カーバンクル様の額の宝珠には魔王が秘匿されております)


 額の宝珠、魔王の秘匿?

 俺の疑問を置き去りにしてミラさんは話を続けていた。


(この神殿には非常に強力な条件付き結界が張られていましたので、外部と一見つながっているようで、実は隔離されておりましたので、安全でした)


(条件付き結界って何?)

(ドライアード族が持つ秘術の一つで、条件を満たすことが困難であればあるほど効果を強化できる結界術です)


(具体的には、どんな条件だったの)

(具体的には、大魔法使いペトプロムが転生の秘技を用いて、カーバンクル様をこの世界から転生を繰り返す旅に送り出しましたが、再びこの世界に転生するまでという条件を付与いたしました。それは、起こりそうもない厳しい条件だったので、この結界は結果的にとても強固なものになりました)


(どれくらいの時間が経ったの)

(この世界では4000年ほど経っております)


(微妙だ。宇宙の歴史って億年単位じゃなかったか。4000年は一瞬のような気もするが)


(一連の歴史の流れの中では確かに瞬きのような時間ですが、多数の平行世界間を渡り歩き、転生を繰り返したため、この世界の時間スケールはカーバンクル様の経験した時間スケールとはずれていると思われます。いずれにせよ、再び同じ世界に転生できたのは、奇跡だと思われます)


 話が難しすぎてわからない。


(つまり、ここが本来俺がいるべき世界ということですか)

(左様でございます)


 頭頂部がむず痒い。きっとこれは、夢だ。真面目に考えるだけ無駄というものだ。俺は、右親指の付け根が痒くなり、そこをなめた。

 ん?

 なぜ、今、俺、手、なめた?

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